私はお母様も説得したわ!
アンジェリカがケーキを頬張り、上機嫌で紅茶を飲んでいると、不意に部屋の扉が叩かれた。
「失礼するわよ」
入ってきたのは、一人の美しい女性だった。
長く艶やかな金髪に、端正な顔立ち。
公爵夫人――フレア・レーベルである。
「お母様!」
アンジェリカはぱっと笑顔を浮かべた。
フレアも優雅に微笑み返したが、その瞳はどこか真剣だった。
「使用人棟の件、聞きましたよ」
アンジェリカは嬉しそうに立ち上がる。
「お父様が許してくださったの! これでみんな、少しは快適に暮らせるわ!」
「ええ、そのようね。屋敷の使用人たちも、いつもより活気があるようだわ」
「そうなの! みんな喜んでいるみたいで、わたしも嬉しいわ!」
娘の様子に微笑みながら、フレアは静かに頷いた。
だが、次の瞬間。
「――けれど、私は賛成しかねるわ」
「……え?」
アンジェリカの笑顔が固まる。
フレアはソファに腰を下ろし、落ち着いた声で続けた。
「アンジェリカ。貴族とは民を導く者。そして使用人は、公爵家に仕える者よ。役割が違う以上、待遇に差があるのは当然でしょう」
「で、でも……」
「住む場所を整えること自体を否定するつもりはないわ。けれど、過度な厚遇は彼らを甘やかしてしまう」
その言葉には、長年貴族社会で生きてきた者としての、揺るぎない信念があった。
「恩賞は働きに応じて与えるもの。最初から何でも与えてしまえば、それを当然だと思うようになるわ」
「うぅ……」
アンジェリカは言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。隣ではレイミも黙って成り行きを見守っていた。
(お父様と違って、お母様は理屈で来るのね……)
アンジェリカは頭を抱える。
難しい話は、あまり得意ではない。
「えっと、その……」
必死に考え込んだ末、ふと顔を上げた。
「あっ!」
何かを思いついたらしく、ぱっと表情が明るくなる。
「お母様!」
「何かしら?」
「使用人のみんなが元気なら、お屋敷ももっと綺麗になるわ!」
「……はい?」
「それに、お料理ももっと美味しくなるし、お庭ももっと綺麗になるし!」
アンジェリカは勢いよく指を折りながら、次々と理由を並べていく。
「みんなが元気だと、お父様のお仕事も助かるでしょう? お客様だって、『素敵なお屋敷ですね』って褒めてくださるわ!」
フレアは目を瞬かせた。
「つまり!」
アンジェリカは得意げに胸を張る。
「使用人は元気な方がお得なの!」
部屋がしんと静まり返る。レイミは思わず額に手を当てた。
(説明が雑すぎます、お嬢様……)
だが、アンジェリカ本人は名案だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべている。
「……お得、ね」
「はい! 難しいことはよく分からないけど、みんなが笑って働いてくれた方が、わたしも嬉しいし、公爵家も嬉しいわ!」
あまりにも単純で、飾り気のない言葉だった。
けれど、だからこそ嘘がない。
計算も打算もなく、ただ純粋にそう信じているのだと、フレアには分かった。
やがて彼女は小さく息をつき、柔らかく微笑んだ。
「……あなたらしい答えね」
「えへへ」
「なら、一つだけ約束しなさい」
「約束?」
「決して、他の貴族に舐められないようにしなさい」
「他の貴族に?」
フレアは静かに頷く。
「あなたも知っての通り、レーベル家は皇家にも名を連ねる高位貴族よ。帝国内のあらゆる貴族たちの模範となるべき存在。決して、レーベル家の名を汚してはなりません」
「……はい」
「この国にいる以上、貴族主義の掟からは逃れられないわ。……まして、他の貴族が集う社交界ならなおさらね」
「お母様……?」
そう語るフレアの横顔には、どこか影が差していた。
アンジェリカは、ふと以前耳にした話を思い出す。
フレアは、もともと男爵家の令嬢だった。
帝都で偶然ウィリアムと出会い、その才覚と人柄を見初められてレーベル家へ嫁いだのだという。
男爵家も由緒ある貴族ではあるが、その爵位は最も低い。
だからこそ、名門レーベル家を帝国有数の大貴族へ押し上げた祖父オリヴァーからは、厳しい目を向けられたに違いない。
(お母様が平民や身分に厳しいのは……昔、たくさん苦労したからなのかもしれない)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
「あなたは、誉れあるレーベル家の長女です。その誇りだけは、決して忘れてはいけませんよ」
その言葉は叱責ではなく、娘へ託す願いのようにも聞こえた。
アンジェリカは少しだけ考え込み、やがて大きく頷く。
「分かったわ! わたし、レーベル家の長女らしい、立派なお嬢様になる!」
その真っ直ぐな返事に、フレアは思わず口元をほころばせた。
それは、公爵夫人ではなく、一人の母親としての笑顔だった。
「それなら、私は反対しません」
「ほんと!?」
「ええ。あなたが最後まで責任を持つというのなら、やってごらんなさい」
「やったー!」
アンジェリカは子どものように飛び跳ねて喜んだ。
その無邪気な姿を見て、フレアが思わず小さく笑みをこぼす。
まだ少し我が儘で、どこか抜けている娘。
それでも、人を思いやる優しさだけは、誰よりも真っ直ぐに育ち始めていた。
(あなたなら……レーベル家を縛る古い柵を取り払える日が来るのかもしれないわね)
そんな淡い期待を胸に、フレアは穏やかな眼差しで愛娘を見つめ続けた。




