私はブリっ子(おねだり)してみたわ!(挿絵あり)
「お、お父様……」
アンジェリカは思わず声を漏らした。
しかし、ウィリアムの表情は微動だにしない。
「アンジェリカ。お前の考えは理解した。使用人の住環境が良くなれば、仕事もしやすくなる。それ自体は間違っていない」
一瞬だけ、アンジェリカの胸に希望が灯る。
だが、その期待は次の一言であっさりと打ち砕かれた。
「しかし、たかが使用人に使う金などない」
冷静な口調で、きっぱりと言い切る。
「彼らは公爵家に仕える使用人だ。衣食住は最低限保障している。それ以上の待遇を与える必要はない」
ウィリアムは机の上で指を組み、淡々と言葉を続けた。
「限られた財は、領地の運営や軍備の整備、他貴族との外交に充てるべきものだ。使用人の住まいに多額の金を投じるなど、本末転倒だ」
それが、ウィリアムの信条だった。
貴族は統べる者。平民は仕える者──。
身分には役割があり、それに応じて待遇にも差がある。
その秩序こそが、この国を支えている――ウィリアムはそう信じて疑わなかった。
アンジェリカは唇を強く噛み締める。
(やっぱり、こうなるわよね……)
予想はしていた。
父は、誰よりも貴族としての誇りを重んじる人物だ。
正論だけで、その信念を覆すことはできない。
(どうしよう……)
ここで引き下がれば、サラたちの生活は何も変わらない。
何としてでも説得しなければ……。
その時、不意に幼い日の記憶が脳裏をよぎった。
(……そうだ。お父様は公爵ではなく、父親になれば弱い)
新しいドレスをねだった日。珍しいお菓子を欲しがった日。
父はいつだって、自分のお願いには驚くほど甘かった。
(レイミがいる手前、これだけはやりたくなかったけども……仕方ないわね)
アンジェリカは小さく息を吸い、公爵の机へ歩み寄る。
「お、お父様……」
その声は先ほどまでとは違う。
幼い頃のような、甘えを含んだ柔らかな声だった。
「ん?」
ウィリアムが怪訝そうに顔を上げる。
アンジェリカは両手を胸の前で重ね、こてんと首を傾げた。
「わたし、お父様がお願いを聞いてくださったら、とっても嬉しいな」
そして、満開の花のような笑顔を向ける。
「お父様は、わたしのお願いなら、いつも叶えてくださったもの」
その一言に、ウィリアムの眉がぴくりと動いた。
「……アンジェリカ?」
「それにね」
アンジェリカは父の袖をそっと摘まみ、小さく揺らす。
「お父様は、世界で一番素敵なお父様だもの」
にこりと微笑み、そのまま言葉を続ける。
「領民も使用人も、みんなお父様を尊敬しているわ。そんなお父様なら、きっと誰よりも立派で、誰よりも優しい公爵様になれるもの」
「ごほんっ……」
ウィリアムは思わず咳払いをした。
厳格な表情を保とうとしているものの、その頬はわずかに引きつっている。
背後では、レイミが慌てて口元を押さえた。
その肩は小刻みに震えている。
(あとで覚えてなさいよ……)
アンジェリカは羞恥で頬を赤く染めながらも、さらに半歩だけ距離を縮める。
「お願い、お父様。わたし、お父様のことをもっともっと尊敬したいの……。だめ?」
上目遣いで見つめると、もう一度、こてんと首を傾げる。
執務室に沈黙が流れた。
ウィリアムの胸の内で、厳格な公爵としての理性と、愛娘に甘い父親としての情が激しくせめぎ合う。
やがて――。
「……まったく。お前は昔から、その顔をすると反則だな」
ウィリアムは額に手を当てると、苦笑を浮かべながら、娘を見つめる。
「分かった。屋敷全体を一度に変えることはできないが、少しずつ使用人たちの住環境を改善しよう」
「ほ、本当!?」
「ああ。これは公爵としてではない」
ウィリアムは肩をすくめ、小さく笑った。
「娘に負けた父親としての決断だよ」
その言葉を聞いた瞬間、アンジェリカの表情がぱっと輝く。
「ありがとう、お父様!」
勢いよく抱きつくアンジェリカに、ウィリアムは苦笑しながらその頭を優しく撫でた。
「まったく……お前には敵わないな」
その様子を見守るレイミは、思わず口元を緩める。
(冷酷な公爵も娘には勝てないのね。 ……それにしても、ブリっ子アンジェリカ、面白すぎるわ)
こうして、公爵家の使用人たちの暮らしは、少しずつではあるが変わり始めることになった。




