私はまたまた、お父様にお願いすることにしたわ!
翌朝。レーベル公爵家の邸は、いつもと変らぬ朝を迎えていた。
使用人達はせわしなく廊下を行き交い、厨房からは焼き立てのパンと温かなスープの香りが漂ってくる。
ただ、一人だけその輪に加わっていない者がいた。
サラである。
彼女はまだ、療養中の身だった。
昨日はアンジェリカの訪問を受けて、一時的に部屋を出ただけで、本来であれば十分な静養が必要だと医師から告げられている。そのため、今日も屋根裏部屋で静かに身体を休めていた。
そんな中──。
「お、おはようございます、お嬢様」
廊下ですれ違った使用人が、深く頭を下げる。
「……おはよう」
「えっ……?」
アンジェリカは足を止め、小さく挨拶を返した。
使用人は思わず顔を上げる。
これまで、アンジェリカから挨拶が返ってくることなど一度もなかった。
それどころか、機嫌が悪ければ冷たい視線を向けられることさえあったのだ。
「どうかしたの?」
「い、いえ……失礼いたしました!」
使用人は慌てて頭を下げると、その場を後にする。
その背中を見送りながら、アンジェリカは小さく苦笑した。
(急には信じてもらえないわよね)
一度失った信頼は、そう簡単には取り戻せない。
昨日、サラたちにもそう教えられたばかりだ。
謝罪は始まりに過ぎない。
これからは、自分の行動で示していかなければならない。
そう心に誓いながら廊下を歩いていると、向こうからレイミがやって来た。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、レイミ」
自然に交わされた挨拶に、レイミはわずかに目を細める。
「本日は朝から執務室へ向かわれるのですか?」
「ええ。お父様にお願いがあるの」
「お願い、でございますか?」
アンジェリカはしっかりと頷いた。
「昨日、サラたちの部屋を見たわ」
その一言だけで、レイミはすべてを察する。
「あれは駄目よ。平民の使用人だからって、人としての生活まで奪っていい理由にはならない」
その声に迷いはなかった。
レイミは口を挟むことなく、静かに耳を傾ける。
「すぐに全部を変えることは無理だって分かってる。でも、せめて住む場所だけでも改善したいの」
アンジェリカは窓の外へ目を向けた。
「勉強して分かったの。人は安心して暮らせる環境があってこそ、安心して働けるのよ」
その真っ当な言葉に、レイミの口元がわずかに緩んだ。
「立派なお考えです」
アンジェリカは照れ隠しをするように頬を掻く。
「まだ勉強したことを、そのまま言っているだけよ。でも昨日、実際に見たから……」
狭い屋根裏部屋。煤けたランプ。三人で肩を寄せ合って眠る小さな寝台。
そして、本来なら安静にしていなければならない療養中の身でありながら、それでも笑顔で自分を迎えてくれたサラ。
それらを思い返すたび、胸の奥が締めつけられた。
「あんな暮らしを、『仕方ない』の一言で終わらせたくないわ」
その言葉には、公爵令嬢としてではなく、一人の少女としての強い決意が込められていた。
「きっと旦那様も、お嬢様のお話を聞いてくださいます」
「そうだといいけど……」
アンジェリカは少しだけ不安そうに笑う。
「もし駄目だったら?」
「その時は、微力ながら私もご一緒に説得いたします」
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
立場上、使用人であるレイミにできることは限られている。
それでも、こうして自分を支えてくれる存在がいることが、アンジェリカには何より心強かった。
「頼りにしてるわ、レイミ」
「光栄でございます」
二人は並んで廊下を歩き始める。
その光景を目にした使用人たちは、一様に足を止めた。
昨日までのアンジェリカなら、使用人と肩を並べて歩くことなど決してなかった。
「……お嬢様が、笑ってる」
「平民と、あんな風に……」
誰もが驚きを隠せない。しかし、その表情に浮かぶのは戸惑いだけではなかった。
――もしかしたら、本当にお嬢様は変わろうとしているのかもしれない。
そんな小さな期待が、公爵家の使用人たちの胸に少しずつ芽生え始めていた。




