↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
25/56

私は彼女たちにも謝ったわ!


 

 屋根裏部屋には、すすり泣く声だけが静かに響いていた。


 アンジェリカは俯いたまま、止まらない涙を何度も拭う。

 そんな彼女の隣で、サラは何も急かさず、ただ静かに寄り添っていた。


 その時だった。廊下から足音が近づいてくる。


「サラ、お湯を借りても──」


 扉が開き、一人の少女が顔を覗かせた。


「あれ……?」


 栗色の髪を揺らしたマリは、部屋の中を見渡し、目を丸くする。


 床に頭を下げるアンジェリカ。その傍らには、目元を赤くしたサラ。

 あまりにも予想外の光景だった。


「ア、アンジェリカお嬢様……?」


 その声に、アンジェリカはゆっくりと振り返る。


「あっ……」


 マリの表情が強張った。

 幼馴染であるサラを傷つけ、理不尽な振る舞いを繰り返してきた相手。


 忘れられるはずがなかった。


「ど、どうしてここに……」


 そう問い掛けた、その時。


「失礼します」


 もう一つの声が廊下から聞こえた。

 静かな足取りで部屋へ入ってきたのはレイミだった。


「お嬢様。やはりこちらに──」


 そこまで言い掛けて、室内の様子を見渡す。


 涙で顔を濡らしたアンジェリカ。目元を赤くしたサラ。そして、張り詰めた空気。


 レイミは何も尋ねなかった。

 ただ、小さく微笑む。


「間に合ったようでございますね」


 その一言だけで十分だった。


「レイミ……」


 レイミは静かに頷いた。


「お嬢様。まだ、お一人残っております」


 その言葉に、アンジェリカははっとマリを見る。

 マリは戸惑ったまま、その場に立ち尽くしていた。


「あ、えっと……マリ」


 震える足で歩み寄る。

 一歩。また一歩。

 やがて目の前まで来ると、アンジェリカは迷うことなく深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


 その一言だけだった。

 言い訳も、言い逃れもない。


「お前にも酷いことをしたわ。直接ひどい仕打ちをしたわけではない。それでも、私は大切なお友達であるサラを傷つけて……お前たち三人を、こんな屋根裏部屋で暮らさせてしまった」


 声が震える。


「許してほしいなんて言わない。でも……謝らせてほしいの」


 もう一度、深く頭を下げる。


「本当に、ごめんなさい」


 マリは目を見開いた。

 こんなにも真っ直ぐな謝罪を、この少女から受ける日が来るなど想像したこともなかった。


 小さく鼻をすする音が聞こえた。


「……ずるいです」


 顔を上げると、マリは涙を流しながら笑っていた。


「そんなふうに謝られたら……怒れないじゃないですかぁ……」


 涙がぽろぽろと頬を伝う。


「私たち、本当に大変だったんですよ」

「……うん」

「サラはずっと苦しそうでしたし。レイミは何も言わないけれども、ずっと辛そうにしていたし」


 少し言葉を詰まらせる。


「私だって……悔しかったです」

「……ごめんなさい」


 アンジェリカはもう一度頭を下げた。

 マリは袖で涙を拭い、小さく笑う。


「でも……最近のお嬢様、本当に変わったなって思っていました」


 その笑顔はぎこちなかった。

 けれど、確かな温かさがあった。


「だから……許します。私たちに気づいてくれて、ありがとうございます。お嬢様」


 最後の一言に、アンジェリカが思わず目を見開く。


「違うわ……ありがとうなんて言われる資格は……」

「あります」


 答えたのはサラだった。


「謝ることは、とても勇気がいることです。誰だって怖いですから」


 マリも優しく続ける。


「それでも、お嬢様は来てくださいました。それだけで十分嬉しいんです」


 アンジェリカは言葉を失った。


 責められ、拒絶される覚悟でここへ来た。

 許される資格などないと思っていた。

 それなのに、二人は涙を流しながら未来を見ようとしてくれている。


「……ありがとう」


 その言葉は、自然と零れていた。


 少し離れた場所から見守っていたレイミは、静かに目を細める。


(ようやく、お嬢様は前へ進まれましたね)


 謝罪は終わりではない。

 失った信頼を取り戻すには、これから何年もの時間が必要だろう。

 それでも、今日という日は決して無駄にはならない。


 涙とともに交わされた「ごめんなさい」は、傷ついた心をすべて癒やす魔法ではない。だが、止まっていた時間を再び動かすには、それだけで十分な一歩だった。


 アンジェリカは「ありがとう」と呟いたまま、ふと視線を彷徨わせた。


 少し離れた場所に、レイミが静かに立っている。

 いつものように背筋を伸ばし、三人の様子を見守っていた。


「……レイミ」

「はい、お嬢様」


 名を呼ぶと、レイミは一歩前へ進み、静かに一礼する。


 アンジェリカは唇を強く噛み締めた。


 サラにも。マリにも。ようやく謝ることができた。

 けれど一番近くで、間違いを正してくれた彼女には、まだ何も伝えられていない。


「……お前にも、謝らないといけないわ。私は、お前にも沢山酷いことをした」


 レイミは何も答えず、ただ真っ直ぐアンジェリカを見つめる。

 その静かな眼差しが、かえって胸を締め付けた。


 震える声で、一つずつ言葉を紡ぐ。


「気に入らないことがあれば八つ当たりをして……理不尽に怒鳴って……。お前はいつも平然としているから、それが当たり前なんだと勝手に思い込んでいた」


 アンジェリカが首を横に振る。


「でも、そんなはずないわよね。お前だって傷ついていた。苦しかった。それなのに私は、一度も気付こうとしなかった」


 ゆっくりと頭を下げる。


「レイミ。本当に、ごめんなさい」

「……」


 静かな沈黙が流れた。

 やがてレイミは、小さく息を吐く。


「……お顔を、お上げください」


 恐る恐る顔を上げる。

 そこには、いつもの無表情。けれど、その瞳だけは穏やかに細められていた。


「確かに私は、お嬢様に叱責されることもございました。悲しくなかったと言えば、嘘になります」

「……」

「こんな方が公爵令嬢だなんて、やはり貴族は碌でもないものだ――そう思ったこともございました」


 その言葉に、アンジェリカは再び俯く。

 しかし、レイミの声は変わらず穏やかだった。


「ですが、ある日を境に、お嬢様は少しずつ変わり始めました」


 アンジェリカが顔を上げる。


「その姿を見て、私は思ったのです。この方なら、きっと立派な公爵令嬢になれる、と」

「……え?」


 思わず漏れた声に、レイミは静かに頷いた。


「だから昨日、僭越ながら申し上げました」


 ――『償うこと』と『謝ること』は同じではございません。

 ――『順番を違えてはなりません』。


 昨日の言葉が、鮮明に蘇る。


「あれは……」

「今のお嬢様なら、必ず向き合えると信じていたからです」


 アンジェリカの瞳から、再び涙が零れ落ちる。


「私は侍女です。これからも、お嬢様が道を誤れば、お諫めすることもあるでしょう。そのことに納得がいかなくて、頭にくることがあるかもしれません」


 少しだけ口元を和らげる。


「ですが──その時はどうか、今日のことを思い出してくださいませ」

「……ええ…! 約束するわ」


 アンジェリカが涙を拭い、力強く頷く。

 もう、その瞳に迷いはなかった。


「ありがとうございます、お嬢様」


 レイミが深く一礼すると、その横で、サラとマリも穏やかに微笑んだ。

 四人の間を包んでいた重苦しい空気は、もうどこにもない。


 過去は消えない。傷も、簡単には癒えない。

 それでも今日、交わされた謝罪と言葉は、止まっていた時間を確かに動かした。


 アンジェリカは胸の前で、そっと拳を握る。


 この日を忘れない。この痛みを忘れない。

 そしていつか、三人が心から笑って暮らせる環境を、自分の手で築き上げる。


 それが、公爵家の令嬢としてではなく、一人の人間として果たすべき、自分なりの償いなのだと、強く胸に刻むのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。