私は彼女たちにも謝ったわ!
屋根裏部屋には、すすり泣く声だけが静かに響いていた。
アンジェリカは俯いたまま、止まらない涙を何度も拭う。
そんな彼女の隣で、サラは何も急かさず、ただ静かに寄り添っていた。
その時だった。廊下から足音が近づいてくる。
「サラ、お湯を借りても──」
扉が開き、一人の少女が顔を覗かせた。
「あれ……?」
栗色の髪を揺らしたマリは、部屋の中を見渡し、目を丸くする。
床に頭を下げるアンジェリカ。その傍らには、目元を赤くしたサラ。
あまりにも予想外の光景だった。
「ア、アンジェリカお嬢様……?」
その声に、アンジェリカはゆっくりと振り返る。
「あっ……」
マリの表情が強張った。
幼馴染であるサラを傷つけ、理不尽な振る舞いを繰り返してきた相手。
忘れられるはずがなかった。
「ど、どうしてここに……」
そう問い掛けた、その時。
「失礼します」
もう一つの声が廊下から聞こえた。
静かな足取りで部屋へ入ってきたのはレイミだった。
「お嬢様。やはりこちらに──」
そこまで言い掛けて、室内の様子を見渡す。
涙で顔を濡らしたアンジェリカ。目元を赤くしたサラ。そして、張り詰めた空気。
レイミは何も尋ねなかった。
ただ、小さく微笑む。
「間に合ったようでございますね」
その一言だけで十分だった。
「レイミ……」
レイミは静かに頷いた。
「お嬢様。まだ、お一人残っております」
その言葉に、アンジェリカははっとマリを見る。
マリは戸惑ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「あ、えっと……マリ」
震える足で歩み寄る。
一歩。また一歩。
やがて目の前まで来ると、アンジェリカは迷うことなく深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
その一言だけだった。
言い訳も、言い逃れもない。
「お前にも酷いことをしたわ。直接ひどい仕打ちをしたわけではない。それでも、私は大切なお友達であるサラを傷つけて……お前たち三人を、こんな屋根裏部屋で暮らさせてしまった」
声が震える。
「許してほしいなんて言わない。でも……謝らせてほしいの」
もう一度、深く頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい」
マリは目を見開いた。
こんなにも真っ直ぐな謝罪を、この少女から受ける日が来るなど想像したこともなかった。
小さく鼻をすする音が聞こえた。
「……ずるいです」
顔を上げると、マリは涙を流しながら笑っていた。
「そんなふうに謝られたら……怒れないじゃないですかぁ……」
涙がぽろぽろと頬を伝う。
「私たち、本当に大変だったんですよ」
「……うん」
「サラはずっと苦しそうでしたし。レイミは何も言わないけれども、ずっと辛そうにしていたし」
少し言葉を詰まらせる。
「私だって……悔しかったです」
「……ごめんなさい」
アンジェリカはもう一度頭を下げた。
マリは袖で涙を拭い、小さく笑う。
「でも……最近のお嬢様、本当に変わったなって思っていました」
その笑顔はぎこちなかった。
けれど、確かな温かさがあった。
「だから……許します。私たちに気づいてくれて、ありがとうございます。お嬢様」
最後の一言に、アンジェリカが思わず目を見開く。
「違うわ……ありがとうなんて言われる資格は……」
「あります」
答えたのはサラだった。
「謝ることは、とても勇気がいることです。誰だって怖いですから」
マリも優しく続ける。
「それでも、お嬢様は来てくださいました。それだけで十分嬉しいんです」
アンジェリカは言葉を失った。
責められ、拒絶される覚悟でここへ来た。
許される資格などないと思っていた。
それなのに、二人は涙を流しながら未来を見ようとしてくれている。
「……ありがとう」
その言葉は、自然と零れていた。
少し離れた場所から見守っていたレイミは、静かに目を細める。
(ようやく、お嬢様は前へ進まれましたね)
謝罪は終わりではない。
失った信頼を取り戻すには、これから何年もの時間が必要だろう。
それでも、今日という日は決して無駄にはならない。
涙とともに交わされた「ごめんなさい」は、傷ついた心をすべて癒やす魔法ではない。だが、止まっていた時間を再び動かすには、それだけで十分な一歩だった。
アンジェリカは「ありがとう」と呟いたまま、ふと視線を彷徨わせた。
少し離れた場所に、レイミが静かに立っている。
いつものように背筋を伸ばし、三人の様子を見守っていた。
「……レイミ」
「はい、お嬢様」
名を呼ぶと、レイミは一歩前へ進み、静かに一礼する。
アンジェリカは唇を強く噛み締めた。
サラにも。マリにも。ようやく謝ることができた。
けれど一番近くで、間違いを正してくれた彼女には、まだ何も伝えられていない。
「……お前にも、謝らないといけないわ。私は、お前にも沢山酷いことをした」
レイミは何も答えず、ただ真っ直ぐアンジェリカを見つめる。
その静かな眼差しが、かえって胸を締め付けた。
震える声で、一つずつ言葉を紡ぐ。
「気に入らないことがあれば八つ当たりをして……理不尽に怒鳴って……。お前はいつも平然としているから、それが当たり前なんだと勝手に思い込んでいた」
アンジェリカが首を横に振る。
「でも、そんなはずないわよね。お前だって傷ついていた。苦しかった。それなのに私は、一度も気付こうとしなかった」
ゆっくりと頭を下げる。
「レイミ。本当に、ごめんなさい」
「……」
静かな沈黙が流れた。
やがてレイミは、小さく息を吐く。
「……お顔を、お上げください」
恐る恐る顔を上げる。
そこには、いつもの無表情。けれど、その瞳だけは穏やかに細められていた。
「確かに私は、お嬢様に叱責されることもございました。悲しくなかったと言えば、嘘になります」
「……」
「こんな方が公爵令嬢だなんて、やはり貴族は碌でもないものだ――そう思ったこともございました」
その言葉に、アンジェリカは再び俯く。
しかし、レイミの声は変わらず穏やかだった。
「ですが、ある日を境に、お嬢様は少しずつ変わり始めました」
アンジェリカが顔を上げる。
「その姿を見て、私は思ったのです。この方なら、きっと立派な公爵令嬢になれる、と」
「……え?」
思わず漏れた声に、レイミは静かに頷いた。
「だから昨日、僭越ながら申し上げました」
――『償うこと』と『謝ること』は同じではございません。
――『順番を違えてはなりません』。
昨日の言葉が、鮮明に蘇る。
「あれは……」
「今のお嬢様なら、必ず向き合えると信じていたからです」
アンジェリカの瞳から、再び涙が零れ落ちる。
「私は侍女です。これからも、お嬢様が道を誤れば、お諫めすることもあるでしょう。そのことに納得がいかなくて、頭にくることがあるかもしれません」
少しだけ口元を和らげる。
「ですが──その時はどうか、今日のことを思い出してくださいませ」
「……ええ…! 約束するわ」
アンジェリカが涙を拭い、力強く頷く。
もう、その瞳に迷いはなかった。
「ありがとうございます、お嬢様」
レイミが深く一礼すると、その横で、サラとマリも穏やかに微笑んだ。
四人の間を包んでいた重苦しい空気は、もうどこにもない。
過去は消えない。傷も、簡単には癒えない。
それでも今日、交わされた謝罪と言葉は、止まっていた時間を確かに動かした。
アンジェリカは胸の前で、そっと拳を握る。
この日を忘れない。この痛みを忘れない。
そしていつか、三人が心から笑って暮らせる環境を、自分の手で築き上げる。
それが、公爵家の令嬢としてではなく、一人の人間として果たすべき、自分なりの償いなのだと、強く胸に刻むのだった。




