私はもう一度信じてもらえたわ!(挿絵あり)
夕暮れの邸は、不思議なほど静かだった。
廊下の窓から差し込む赤い光が、磨き上げられた床を長く照らしている。
突き当たりにある屋根裏部屋への階段が、小さく軋んだ。
古びた扉の前に、一つの小さな影が立ち止まる。
「……ここね」
アンジェリカは深く息を吸う。
隣にレイミはいない。この時間、使用人たちは夕食の支度で忙しい。
公爵家の令嬢が一人で邸内を歩くことなど滅多にない。
もし祖父や両親に見つかれば、窘められるか、護衛を付けなかった使用人が叱責されるだろう。
それでも、今でなければ駄目だった。
そう思い詰めるほど、彼女はこの扉の前を一時間近くも行ったり来たりしていた。
「……ふぅ。いくわよ」
意を決し、扉を数回叩く。
「はい、只今参ります」
「──っ」
聞こえてきた声に、胸が強く締め付けられる。
久しく聞いていなかった声。
そして、自ら追い詰めてしまった少女の声だった。
扉が開く。
「マリ、どうかし──……っ!? ア、アンジェリカお嬢様!?」
「ひ、久しぶりね」
数か月ぶりの再会。
二人ともぎこちなく言葉を交わす。
驚きで固まるサラとは対照的に、アンジェリカの胸は激しく脈打っていた。
(どうして、こんなに緊張するのよ……)
ただ侍女に会いに来ただけ。それなのに心臓は暴れるように鳴り続ける。
こんな感覚は、生まれて初めてだった。
我に返ったサラは慌てて姿勢を正す。
「えっと……と、とにかく中へお入りください!」
「え、ええ。お邪魔するわ」
ぎこちない足取りで部屋へ入る。
サラは思っていたより元気そうだった。
その姿を見て、胸を撫で下ろす。
(良かった……これなら、許してもらえるかもしれない)
そんな淡い期待を抱きながら、一歩踏み出す。
その瞬間、アンジェリカは息を呑んだ。
(何よ……これ……)
屋根裏部屋は、想像以上に狭かった。
小さな窓から差し込む光は細い帯となって床を照らし、少し背を伸ばせば梁に頭をぶつけそうになる。
壁際には細い寝台が三つ並び、隅には机代わりの木箱と煤けたランプが一つ。
それだけだった。
「まさか、お嬢様が足を運んでくださるなんて思いませんでした」
「……ここで暮らしているの?」
「──あっ! 申し訳ありません!」
咎められたと思ったのだろう。サラは慌てて頭を下げる。
「今すぐ片付けます!」
「……いいわ。そのままで」
「そ、そうですか。では、お茶をご用意しますね」
木箱から色褪せたポットを取り出す。
先ほどまで休んでいたのだろう。質素な衣服は少し乱れ、寝台のシーツには皺が残っていた。
(……こんなに酷いなんて)
祖父や両親は言っていた。平民はこれで十分だ、と。貴族の血を引かぬ庶子など、高貴な者から見れば路傍の石に等しい、と。
だが、これは違う。
衣服をしまう箪笥すらなく、身体を動かすだけでも窮屈そうな空間。冬は隙間風が吹き込み、夏は熱気がこもるだろう。
それなのに部屋は驚くほど整頓されていた。
本だけは大切に積み重ねられ、一冊一冊に丁寧な扱いの跡がある。
貧しさの中にも、慎ましく生きようとする気配があった。
胸が締め付けられる。
こんな場所で三人が眠り、朝を迎え、日々を過ごしていたのだ。
「……ねえ、サラ。一つ聞いてもいいかしら」
「はい」
「どうして……何も言わなかったの?」
「えっ?」
「こんな場所、人が暮らすところじゃないわ」
サラはきょとんと目を瞬かせた。
「そうでしょうか? 私たちは十分でしたよ。雨風はしのげますし、本も読めましたから」
アンジェリカは言葉を失う。
十分なはずがない。そんな思いだけが胸に渦巻いていた。
「お待たせいたしました」
木箱の上に湯気もほとんど立たないお茶が置かれる。
サラは申し訳なさそうに微笑んだ。
「実は……紅茶は少し高くて、切らしてしまっているんです。お嬢様のお口には合わないと思います。本当に申し訳ありません」
その言葉に打算はなかった。
昔と何一つ変わらない、純粋な気遣いだった。
その一言が、心に積もっていたものを一気に決壊させる。
「ごめん……なさい。ごめんなさい……!」
「お、お嬢様!?」
大粒の涙が止まらない。
「私は……サラに、本当に酷いことをした」
「……お嬢様」
「あの頃は、それが当たり前だと思っていた。でも違った……。誰も教えてくれなかったなんて、言い訳よ。本当は、自分で気づけたはずだったのに……」
食事が冷めていると怒鳴った。
気に入らなければ叱責し、物を投げつけた。
食事を抜かせたことさえあった。
それでもサラは黙って頭を下げ続けた。
そんな光景を当然だと思っていた自分が、今は恐ろしくて仕方がない。
「私は最低だった……」
嗚咽が漏れる。
肩が震え、涙は止まらなかった。
「謝ったくらいで許されるなんて思ってない。償えるとも思ってない。それでも……ごめんなさい……!」
深く頭を下げる。
床に落ちた涙が、小さな染みをいくつも作った。
静寂の中、衣擦れの音だけが響く。
「……お顔を、お上げください」
震えた声だった。
ゆっくり顔を上げると、そこには困ったように微笑むサラがいた。
「確かに、昔のお嬢様は、とても怖い方でした」
その一言に、肩が震える。
「何度も泣きました。何度も辞めたいと思いました」
一つ一つの言葉が胸に突き刺さる。
「ですが今の私は、お嬢様が変わろうとしていることを知っています」
「……っ」
「だから私は、昔のお嬢様ではなく、今ここで涙を流してくださるお嬢様を信じたいのです」
サラはハンカチを取り出し、アンジェリカの涙をそっと拭う。
「どうか、ご自分を責め続けないでください。過去は消えません。でも、人は変わることができます」
その優しさが、何より胸に染みた。
許されたからではない。忘れられたからでもない。
それでもサラは、未来を見ようとしてくれている。
「お嬢様を、お許しします」
「……サラ……サラぁ……!」
込み上げる涙の向こうで、アンジェリカは強く誓う。
この想いに応えられる人間になると。
二度と、同じ過ちは繰り返さないと。




