私は彼女に謝ることにしたわ!
邸内に鐘の音が響く。窓の外は橙色に染まり、黄昏の訪れを告げていた。
「今日はここまでにしましょう」
隣から声を掛けられ、アンジェリカは大きく息を吐く。
机の上には税制や灌漑、治水について記された分厚い書物が山のように積まれていた。
「今日もよく頑張りましたね」
「もう頭が割れそうよ」
「ですが、基礎はもうすぐ修了です。わずか一か月でここまで進めるとは……。アンジェリカお嬢様は本当に飲み込みが早いですね」
「それはどうも」
アンジェリカは肩を回しながら、リヒトの賞賛に軽く手を振って応えた。
「次の講義は、二週間後になります」
「何よ、メガ……リヒト。何か予定でもあるの?」
怪訝そうに尋ねる彼女へ、リヒトは少し申し訳なさそうに答える。
「実は来週、オックスフォードとの重要な商談がございまして。どうしても予定を空けられないのです」
「あら、そうなの。それは残念だわ」
口ではそう言いながら、その表情はどこか嬉しそうだ。
リヒトは黒縁眼鏡に指を添え、小さく笑った。
「その代わり課題を出しておきますので、再来週までに終わらせておいてください」
「……そんな気を遣わなくてもいいのに」
肩を落とすアンジェリカに、リヒトはくすりと笑う。
「では私はこれで。お嬢様、また再来週お会いしましょう」
「ええ、ご苦労さま」
勉強部屋の扉が静かに閉まる。
その音を聞き届けた途端、アンジェリカは大きく椅子へもたれ掛かった。
「やっと終わったわぁ」
「お疲れ様でございます、お嬢様」
静かに一礼したレイミが、湯気の立つ紅茶を盆に載せて運んでくる。
勉強を終えた彼女への、ささやかなご褒美だった。
「ふう、生き返るわね!」
いつもと変わらぬ晴れやかな笑顔。
だが、紅茶を差し出すレイミの瞳だけは、どこか厳しい色を宿していた。
その様子に気づいたアンジェリカが首を傾げる。
「どうしたのよ?」
レイミは一瞬だけ視線を伏せると、いつもの無表情のまま口を開いた。
「一つ……お話ししたいことがございます」
「何よ、そんなに改まって?」
紅茶を机へ置く小さな音が、静かな部屋に響く。
「お嬢様はここ数日、領地をより良くするため懸命に学ばれております。それ自体は、とても立派なことでございます」
「でしょう? ようやく主人の偉大さに気付いたの?」
褒められたアンジェリカは得意げに胸を張る。
勉強を嫌がる一面は相変わらずだが、それでも最近の彼女は真面目に机へ向かっていた。
数か月前では考えられない変化だった。
「──ですが、あれからまだ、お謝りになっておりません」
その一言で、部屋の空気が変わる。
アンジェリカの表情が固まった。
「……」
胸の奥が、ずきりと痛む。
忘れていたわけではない。ただ、考えないようにしていただけだった。
「あの時は……」
言い訳が喉まで込み上げる。
――悪気はなかった。
――あれが正しいと思っていた。
――そう教えられて育ってきた。
どれも事実だった。
しかし、レイミは静かに首を横へ振る。
「事情は理解しております。お嬢様がまだ幼く、すべてをご自身の意思で行ったわけではないことも存じております」
「……」
「ですが、傷ついた側にとって、それは言い訳でしかありません」
アンジェリカはぎゅっと拳を握り締めた。
「私は……今、領地を良くしようと頑張っているわ」
「はい」
「これから償えば……」
「それも大切です」
レイミはまっすぐアンジェリカを見つめる。
「ですが、『償うこと』と『謝ること』は同じではございません」
その言葉は、胸の奥深くへ静かに突き刺さった。
「謝罪とは、自らの行いで傷つけた方と向き合うこと。償いとは、その後も責任を果たし続けることです。順番を違えてはなりません」
アンジェリカは俯く。
ここ最近、彼女なりに必死だった。
罪悪感から領民の暮らしを学び、未来のために勉学へ励み、使用人たちの待遇を改善しようと父にも掛け合った。
そうして努力を重ねれば、少しは許される気がしていた。
過去も少しずつ薄れていくのではないか、と。
だが、違った。
レイミは責めることなく、静かに続ける。
「傷つけられた方は、お嬢様が今何を思っているのか知りません」
「……」
「『ごめんなさい』という、その一言を待ち続けている方も、きっといらっしゃいます」
部屋は静まり返った。
長い沈黙の末、アンジェリカはゆっくりと息を吐く。
「……怖い」
その本音に、レイミは優しく目を細めた。
「ええ」
「もし許してもらえなかったら……」
「その可能性もございます」
「怒鳴られたら……」
「それもあるでしょう」
「物を投げつけられるかもしれない」
レイミは静かに頷く。
「それでも、お嬢様が向き合うべきことです」
「……レイミ」
「初めて名前で呼んでくださいましたね」
「……からかわないで」
弱々しく呟いたあと、アンジェリカはそっと目を閉じる。
逃げていた。
勉強という"正しいこと"に没頭し、本当に最初にやるべきことから目を背けていたのだ。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……明日。明日、サラのところへ行くわ」
震える声だった。
「許してもらえるなんて思わない。でも……ちゃんと謝る」
「それでこそ、お嬢様でございます」
レイミは柔らかく微笑んだ。
その姿はまるで、妹を諭す姉のようだった。
夕日が部屋を赤く染める。
領地を治めるための学びは、まだ始まったばかり。
だが、人の上に立つ者としての最初の一歩は、書物を開くことではない。
傷つけた相手の前に立ち、自ら頭を下げること――その勇気こそが、本当の始まりだった。




