閑話〈変化する感情〉
日が落ちた深夜。磨き上げられた廊下を静かに歩く。
窓から差し込む月明かりが床に影を落とし、その光景はどこか幻想的だった。
人気のない廊下を抜け、突き当たりの階段を上る。
邸内は隅々まで掃除が行き届いているが、使用者の少ないこの場所だけは薄く埃が積もっていた。
やがて低い天井の屋根裏部屋へ辿り着くと、見慣れた顔が迎えてくれる。
「お疲れ様、レイミ」
同じ孤児院出身で同期のマリだ。
風呂上がりなのか、ゆったりとしたワンピース姿でベッドに腰掛けている。
「何だか疲れた顔をしてるわね」
「疲れたなんてもんじゃないわよ。今日は特に、あの人の癇癪が酷かったの。化粧品一つで、あそこまで騒がなくてもいいでしょうに」
マリは呆れたように肩を竦める。ここ最近は毎日のようにこの調子だ。
邸の使用人が一新されて以来、彼女はレーベル公爵夫人付きの侍女を務めている。
「レーベル家なんだから仕方ないわよ」
「それを言われたら何も返せないじゃない」
苦笑するマリに、私もつられて笑った。
「夫人付きなんて大出世じゃない。もう上級使用人の仲間入りね」
「それ、絶対嫌味でしょ」
「まあまあ。給金も上がったんだし、良かったじゃない」
「それは……そうなんだけどさ」
レーベル家の使用人が一斉に辞めて以来、邸内の体制は大きく変わった。
家令は古株のエドワードさんが続投し、総料理長は中堅の料理人へ交代。家政婦長には、レーベル家分家のカミラ侯爵夫人が就任した。
ちなみに、新しい総料理長は庶家の出身だ。
典型的な貴族主義のレーベル家が平民を上級使用人へ抜擢するなど前代未聞だが、適任者が見つからず、背に腹は代えられなかったらしい。
そして、公爵夫人付きの侍女にはマリが任命された。
正確には専属侍女であるカミラ侯爵夫人の補佐役だが、その働きぶりは優秀で、家政婦長からも一目置かれているそうだ。
「そのうち私も、マリに敬語を使う日が来るかもしれないわね」
「冗談やめてよ。あんたに敬語なんて使われたら、蕁麻疹が出そう」
「酷いわね。せっかく褒めてるのに」
二人で顔を見合わせて笑う。孤児院にいた頃を思い出した。
三人で馬鹿なことばかりして、よく先生に叱られていたっけ。
今は一人欠けてしまったけれど、サラの体調もかなり回復してきた。
顔色も良くなり、昨夜は疲れた私たちのために特製のミルクティーまで淹れてくれた。
また三人で出掛けられる日も、そう遠くないかもしれない。
そんなことを考えていると、マリの表情が少し引き締まる。
「それで? あんたの方はどうなの?」
「……そうね」
言うまでもなく、お嬢様のことだ。
私は少し返答に困った後、率直な意見を口にする。
「《《お嬢様》》は……馬鹿っぽい人よ」
「……は?」
マリが間の抜けた声を漏らす。
呆気に取られた顔を見るのは久しぶりだった。
「馬鹿っぽい?」
「どこから湧いてくるのか分からない自信をいつも持っていて、勝手に空回りして、そのたびに一人で真っ赤になって怒ってるの」
「いや、私が聞きたいのは、あの悪魔の子が今日はどんな悪事を働いたのかってことなんだけど……」
「今日は勉強をものすごく嫌がっていたわ。結局、リヒト様に諭されて、渋々机に向かっていたけど」
そこまで話すと、マリは深いため息をついた。
「あの子がまともになってきたって噂、本当だったのね」
「そんな噂が流れてるの?」
「邸中で持ち切りよ。『アンジェリカお嬢様が変わった』『避けていた勉強を始めた』『料理に文句を言わなくなった』って」
知らなかった。最近は領地視察や図書館への付き添いで、邸にいる時間が少なかったからだ。
「……噂は本当よ」
「そうなの!?」
「ええ」
……少しずつ。本当に少しずつだけれど、アンジェリカは変わってきている気がする。
我が儘な性格は相変わらずだ。
それでも、もう癇癪を起こして人を叩くこともないし、権力を振りかざして誰かを陥れることもなくなった。
平民の私が窘めても素直に耳を傾けるようになり、嫌々ながらも勉学に励もうとしている。
貴族主義の考え方はまだ残っている。
けれど、公爵たちのような強烈な選民思想までは感じない。
「……そう。専属のあんたが言うなら、本当なんでしょうね」
マリは優しく微笑む。その視線はどこか生温かい。
「……何よ」
「別に? 最初の頃とずいぶん評価が変わったなって思っただけ」
「仕方ないでしょ。最初は警戒していたんだから。それに、一時的なものかもしれないし、また悪事を働く可能性だってある。第一、私はまだサラをあんな目に遭わせたことを許したわけじゃないもの」
「すっごい早口」
そう。また悪事を働くかもしれない。
改心したふりをしているだけかもしれない。
だから油断なんてできない。
動けないサラの代わりに、誰かが見張っていなければならない。
「でも、そんな子なら私も専属侍女に立候補してみようかな」
「やめておきなさい」
「何よ。妬いてるの?」
ニヤニヤ笑うマリに、私は首を横へ振った。
「違うわ。お嬢様の近くにいるには、それ相応の覚悟が必要なの」
「そ、相応の覚悟って……?」
「生意気な小娘を引っ叩きたくなる衝動を抑えたり、目の前で馬鹿なことをされても笑いを堪えたり」
「笑いを堪える?」
「そうよ。この間なんて、鼻歌を歌いながらスキップして池に落ちたのよ。足が着く浅瀬なのに、『溺れる! 早く助けなさいよ!』って大騒ぎして」
「ぶふっ!」
マリが吹き出す。
「あれだけ騒いでいたくせに、足が着くって分かった瞬間、真っ赤になって黙り込むんだもの」
「だ、駄目……あはははっ!」
マリが笑い転げる。ツボに入ってしまったらしい。
「どんな貴族令嬢よ、それ!」
「本当にね」
無邪気に笑っている姿を見ていると、私まで可怪しくなってくる。
幼馴染を傷つけられた恨みは、今も消えていない。それでも――。
(あの子は、ただ……正しく導いてくれる人が、今までいなかっただけなんじゃないかしら)
そんな考えが、ふと胸をよぎった。




