私は勉強なんてキライよ!
「もう嫌よ……」
机に突っ伏しながら、アンジェリカは盛大にため息をついた。
目の前には分厚い歴史書。横には経営学の問題集。さらに、その隣には外国語の教材まで積み上がっている。
「お嬢様、リヒト様がお待ちです」
「……急病ということにできないかしら?」
「昨日も同じことを仰っていました」
「なら、記憶喪失ということにして頂戴」
「朝食でパンを五つ召し上がったことまで覚えていらっしゃる方がですか?」
レイミに逃げ道を塞がれ、アンジェリカは観念したように肩を落とした。
「……分かったわ。今行く」
「お急ぎください。すでに紅茶を三杯おかわりされています」
「どれだけ飲んでるのよ、あのメガネ……」
処刑場へ向かう囚人のような足取りで、アンジェリカは勉強部屋へ向かった。
部屋へ入ると、リヒトが穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、アンジェリカ様。本日は歴史から始めましょう」
「歴史なんて昔の話でしょう? 終わったことを学ぶ必要があるの?」
リヒトは分厚い歴史書を手に取り、静かに答えた。
「人は過去を知らなければ、同じ失敗を繰り返します。より良い未来を築くためにも、先人たちの知恵を学ぶことは大切なのです」
机の上には、最新の歴史書が置かれていた。最近の出来事までまとめられた最新版だ。
「私は天才だから失敗しないもの。失敗しそうなことは最初からしないわ」
「そう言って、先週は二時間寝坊されましたよね?」
「……前日に少し夜更かししただけよ」
「散歩中に池へ落ちたとも伺いましたが?」
「……あれは池の方から近づいてきたのよ」
何でそんなことまで知っているのよ。
レイミの口の軽さに文句を言いたくなったが、その気力すら残っていなかった。
「では、始めましょう」
そうして今日の授業が始まる。
領地経営に必要な知識は膨大だった。
経営学、地政学、行政法、歴史、外交、税制。学ぶことはいくらでもある。
正直なところ、ここまで大変だとは思っていなかった。
何度も逃げ出したくなった。
それでも踏みとどまれたのは、アンジェリカ自身の矜持があったからだ。
高貴な者は、一度始めたことを簡単には投げ出さない。
その意地だけが、彼女を机へ向かわせ続けていた。
もちろん、勉強は嫌いである。
五分おきに時計を見て、十分おきに紅茶を要求し、二十分おきに「少し休憩しましょう」と口にした。
それでもリヒトは一度も怒らなかった。
むしろ楽しそうに話を続ける。
「この時代の皇帝陛下は、戦争をせずに国を豊かにしたのですよ」
「戦争をしないで?」
「ええ。交易を発展させ、税制を改革したのです」
「ふーん……」
奪うことなく国を豊かにする。
そんなことが本当にできるのだろうか。
気付けば、アンジェリカは自然と身を乗り出していた。
「それで? その後はどうなったの?」
「興味がおありですか?」
「ち、違うわよ。ただ続きが気になっただけ」
リヒトは小さく笑う。
「では、その辺りも分かりやすくご説明しましょう」
そうして始まった話は、予定より少し長く続いた。
◇ ◇ ◇
それから数週間後。
「もう勉強なんて嫌よ……」
相変わらず、アンジェリカは勉強が嫌いだった。
授業中に脱走を図ることもある。
机へ突っ伏して嘆くこともある。
それでも、以前とは一つだけ違うことがあった。
「リヒト。この問題なのだけど……」
分からないところがあれば、自分から質問するようになったのだ。
ある日、公爵ウィリアムが娘へ尋ねた。
「アンジェリカ。勉強は好きになったかい?」
「いいえ!」
即答だった。
「最近は熱心に取り組んでいるから、もしやと思ったんだが……」
「勉強を好きになるなんて有り得ないわ。毎日大変で、うんざりしているもの」
「そ、そうか……」
苦笑する父を見て、アンジェリカは少しだけ視線を逸らす。
「でも……」
「ん?」
「知らないことを知るのは、少しだけ面白いかもしれないわ」
その一言に、ウィリアムは穏やかに笑った。
勉強を好きになる必要はない。嫌いなままでも構わない。
何をしても長続きしなかった娘が、自分の意志で学び続けている。
その事実だけで十分だった。
今日もアンジェリカは机へ向かう。
「まったく……何でこの私が勉強なんてしなくちゃいけないのかしら」
そうぼやきながらも、その手は迷うことなく次のページをめくっていた。




