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閑話〈講師となる者〉


「私がアンジェリカ様の講師……ですか?」

「そうよ!」


 それは、あまりにも唐突な申し出だった。


 聞き間違いか、人違いではないかと疑う。

 しかし、ぼやけた視界の先にいる令嬢の表情は至って真剣だった。


 つい先日まで、私は三大貴族レーベル公爵家に仕える文官だった。

 ――過去形なのは、今の自分が文官と呼べる立場ではないからだ。


 アンジェリカ様の不興を買い、公爵閣下から左遷を命じられた結果、私はこの辺境オックスフォードで領主代理を務めることになった。


 名目こそ領主代理だが、実態は便利な代役に過ぎない。


 給金は文官時代より大幅に減り、休日手当もない。それでいて仕事量だけは何倍にも増えた。

 文官時代に培った知識があるから何とか回せているものの、本音を言えば、早く辞めて別の主君に仕えたい。


 しかも、ここオックスフォードは帝都から遠く離れた辺境の農村だ。

 なぜ十歳の少女の機嫌を損ねただけで、ここまで重い処分を受けなければならないのか。理不尽としか思えなかった。


 だが、そんな生活にも救いはあった。

 オックスフォードの領民は、皆温厚で実直な人ばかりだったのだ。

 彼等は、まだ領地経営の経験が浅い私を責めることなく、親身になって支えてくれた。


 方言は強いが、その人柄は温かい。

 彼らと接するうち、荒んでいた心も少しずつ癒えていった。


 ――こんな生活も悪くない。

 そう思い始めた矢先に、目の前の公爵令嬢である。


「えっと……アンジェリカ様。講師をお探しなのは分かりましたが、なぜ私なのでしょうか?」

「お前は文官だったでしょう? だったら講師にぴったりじゃない」

「いえ……そういうことではなく……」


 言葉に詰まる。

 礼儀作法なら教えられる。社交の経験もある。しかし、もっと適任はいくらでもいるはずだ。


 しかも相手は、公爵閣下が目に入れても痛くないほど溺愛している令嬢。

 男の私が教育係など、火種になる未来しか見えない。


 断りたい。

 だが断れば、今度こそ何をされるか分からない。


 ……胃が痛い。


「お嬢様」


 横から、アンジェリカ様付きの侍女が口を開いた。前任の方ではない。

 確か、レイミさんだったか。

 面識はないが、以前担当していた領地で労務管理をしている際、使用人名簿に名前と顔が載っていたのを覚えている。


「講師を探している理由を、きちんと説明なさってください。リヒト様も困っておられます」

「あ、それもそうね」


 ――いえ、最初から困惑しっぱなしなのですが……。

 その一言は胸の内にしまっておく。


「実は私、領地経営の勉強をしようと思っているの」

「へっ!?」


 思わず変な声が出た。


 あのアンジェリカ様が勉強を?

 しかも、領地経営の──?


「何よ、その反応」

「あ、いえ……あまりにも予想外でしたので」

「まあ、そう思うのも無理はないわ。今まで勉強なんて避けてきたもの。でも、本気なの」


 冗談を言っているようには見えなかった。


 おそるおそる、彼女に聞いてみる。


「……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「何?」

「どうして急に勉強を?」

「だって、ここは私の領地でしょう?」


 アンジェリカ様は真っすぐ私を見る。


「将来、この領地を治めるのは私なんだから。今から学んでおいて損はないと思ったの」


 それは、以前の彼女からは想像もできない言葉だった。


「でも、一人じゃ何から始めればいいか分からないの。だから誰かに教えてもらおうと思って」


 彼女が少し照れくさそうに続ける。


「それで考えたら、お前しか思い浮かばなかったの。お父様の領地を任されていたし、優秀なのも知っているもの」

「おっふ……」


 また妙な声が漏れてしまった。


 今、褒められたのだろうか。

 あのアンジェリカ様に……?

 明日は槍でも降るのではないか?


「……どう? やっぱり、駄目……かしら」


 不安そうな声と表情だった。

 私は迷う。つい先日までの彼女を知っているからだ。

 だからこそ、簡単には信用できない。


 だが──目の前の少女は違った。


 返事を急かすこともなく、怒鳴ることもなく、ただ静かに私の答えを待っている。その姿からは命令ではなく、必死な願いだけが伝わってきた。


 ――彼女は変わろうとしているのだ。


 過ちに気付き、前へ進もうとしている。

 その勇気に応えない理由はなかった。


 私は右胸に手を当て、泥の地面へ片膝をつく。


「承知いたしました。このリヒト・カーティス、これよりアンジェリカお嬢様の講師として、持てる知識のすべてをお授けすることをお誓いいたします」

「本当!?」


 アンジェリカ様が、ぱっと花が咲くように笑う。


「ありがとう!」


 その笑顔は年相応で、どこまでも無邪気だった。


 ――彼女なら、この領地を良い方向へ導けるかもしれない。

 その助けになれるのなら、私も全力を尽くそう。


「あ、それから」


 アンジェリカ様は何かを思い出したように言う。


「次からは、ちゃんとメガネを掛けておきなさいね」


 ……どうやら、そのこだわりだけは最後まで理解できそうになかった。


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