私はメガネに言ってやったわ!
「あ、アンジェリカお嬢様……!?」
リヒトは反射的に目を見開いた。
この日も、いつものように領民たちの農作業を手伝っていたところへ、突然レーベル公爵家の令嬢が現れたのだ。驚かない方がおかしい。
礼を取る暇もなく、アンジェリカが、ずかずかと歩み寄る。
「随分と探し回ったわよ! この私を歩かせるなんて、いい度胸じゃない!」
「わ、私を探して……? それはどういう──」
「なんで今日はメガネを掛けていないのよっ!!」
「えっ……えぇっ!?」
理不尽な怒声に、リヒトの思考は完全に停止した。
そんな困惑をよそに、近くで畑仕事をしていた農夫たちが興味深そうに集まってくる。
「おんやぁ、リヒト先生。このごっつめんこい娘っ子は知り合いでか?」
「あ、はい。この方はオックスフォードを治めるレーベル公爵家のご令嬢、アンジェリカ様です」
「おんやぁ! そりゃあ、とんでもねぇお方だ!」
農夫たちは一斉に驚き、一人の老人が人懐っこい笑顔で近づいてきた。
「アンジェリカ様ぁ、こげなへんぴな所まで、よう来なさったなぁ。てえしたもてなしはできねぇけんど、歓迎すっど」
「……は?」
アンジェリカは首を傾げる。
「何よ、お前。ちゃんと人間の言葉で喋りなさいよ」
農夫もまた、きょとんと目を瞬かせた。
「お嬢様」
隣でレイミが小さくため息をつく。
「彼がお話しされているのは、れっきとした人間の言葉ですよ」
「そうなの?」
「はい。知識の浅いお嬢様は存じないかも知れませんが、オックスフォードは辺境ですので、独特の方言を話す方が多いのです」
「そうなのね……知らなかったわ」
アンジェリカは素直に頷く。
これまで外出といえば、両親と帝都の高級菓子店へ行くか、気まぐれで領地を視察する程度だった。地方ごとに言葉が違うなど、考えたこともなかったのである。
――そこで、ふと引っかかった。
「……ちょっと待ちなさい」
じろりとレイミを見る。
「今、知識が浅いって言わなかった?」
「聞き間違いではございませんか?」
「嘘おっしゃい! ちゃんと聞こえたわよ!」
アンジェリカは腕を組む。
「それ、明らかに私への不敬よね?」
「滅相もございません」
レイミは涼しい顔で答える。
「ただ、公爵令嬢ともあろうお方が方言をご存じないとは……驚きを通り越して、畏敬の念を抱いただけでございます」
「宣戦布告ってわけね」
アンジェリカは拳を握り締めた。
「表へ出なさい。その喧嘩、買ってやるわ」
「お嬢様」
レイミは周囲を見回す。
「ここが表ですよ?」
「…………」
アンジェリカの眉間に青筋が浮かぶ。
一方のレイミは口元を押さえ、肩を小さく震わせていた。
最近では見慣れた光景だ。
しかし、その事情を知らないリヒトからすれば、ただならぬ空気にしか見えない。
慌てて二人の間へ割って入る。
「ア、アンジェリカ様! 私をお探しとのことですが、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「あっ、そうだったわ!」
アンジェリカは両手を打った。
「未開の地の住人と生意気な召使いのせいで忘れるところだったわ!」
レイミが小さく「侍女です」と呟いたが、アンジェリカの耳には届かない。
「お前――」
アンジェリカがリヒトを真っ直ぐ指差すと、胸を張って高らかに告げる。
「私の講師になりなさい!」
「…………へ?」
メガネを掛けていない青年から、間の抜けた声だけが返ってきた。




