1.いつもの朝に、空席がひとつ。-The Morning with One Seat Empty.-
ついに本編がスタートしました。
まだ中学3年生。日本でのエピソードです。
お楽しみいただければと思います。
*** * ***
僕には、十二歳までの記憶がない。
いや、正確には『思い出せない』と言ったほうがいいのだろう。
いわゆる記憶喪失というやつだ。
もっとも、僕の場合はそれだけではなかったらしい。
長い間、意識というものを失っていたそうだ。
医者の説明によれば、目を覚ましてからもしばらくは、自分が誰なのか、ここがどこなのか、そういったことをきちんと認識できない状態が続いていたという。
何がきっかけで元に戻ったのか。
そもそも、どうしてそんな状態になったのか。
そんなことを聞かれたところで、僕にわかるはずもない。
なにしろ、覚えていないのだから。
僕が最初にはっきりと覚えているのは、病院の白い天井だ。
消毒液の匂い。規則正しく聞こえる電子音。
それから、ベッドの傍らに掛けられていた一枚のプレート。
そこには、僕の名前が書かれていた。
─────城戸麗市。
きど、れいいち。
それが僕の名前だ。
ちなみに、父さんの名前は浩市という。
つまり、僕の名前の最後の一文字は父さんからもらったものらしい。
では、最初の『麗』はどこから来たのか。
これについては、母さんが実にあっさりと答えてくれた。
「だって、お母さん、この字が好きなんだもの」
……うん。
理由としては、非常に単純明快である。
男の子の名前に『麗』という字を使うことについて、何か思うところはなかったのだろうか。
以前、そう尋ねてみたことがある。
「あら、男の子だって綺麗な名前でいいじゃない」
とのことだった。
まあ、僕自身もこの名前は嫌いじゃない。
今では、すっかり気に入っている。
そんな僕は15歳。
現在、中学3年生。
自分自身をはっきりと認識できるようになったのは、今から2年ほど前のことだ。
それ以前のことは、ほとんど覚えていない。
何でも、十二歳の頃に大きな事故に遭ったらしい。
その事故がどんなものだったのか、僕自身にはわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
─────僕は、それから一年近く意識を取り戻さなかったのだという。
目を覚ましてからも、長い間リハビリを続けていた。
正直なところ、あれは大変だった。
何しろ、1年近く寝たきりだった身体というのは、想像以上に言うことを聞いてくれない。
立ち上がるだけでも一苦労。歩くとなれば、なおさらだ。
それでも、何とか頑張れたのは、家族のおかげだったと思う。
特に、姉の絵麗奈。
『レイ! あと三歩!』
「……エレ姉、もう無理」
『無理じゃない! 昨日はそこまで歩けたでしょ』
「いや、昨日と今日じゃ体調が……」
『はい、言い訳しなーい!』
─────鬼である。
我が姉ながら、実に容赦がない。
もちろん、担当の先生や理学療法士さんの指示を無視して無茶をさせるようなことはなかったけれど。それにしたって、もう少し優しくしてくれてもよかったんじゃないだろうか。
もっとも。
『早く帰ってきなさいよ。レイがいないと、つまんないんだから』
そう言って笑ってくれた姉の顔は、今でもよく覚えている。
妹たちも、よく病院へ顔を出してくれた。
紅麗亜は、何かにつけて僕の世話を焼こうとしたし、麻里愛は学校であったことや、その日に食べたお菓子の話なんかを、一生懸命に聞かせてくれた。
父さんと母さんも、毎日のように来てくれた。
そうして僕は、中学2年生になった4月から、ようやく学校へ通えるようになった。
今では、普通に走ることもできるし、剣道だってできる。
むしろ、剣道については少々得意なほうかもしれない。
父さんが剣道の先生だから、ということもあるのだろう。
何しろ、我が家には道場まであるのだから。
─────とまあ、僕の話はこのくらいにしておこう。
父さんと母さん。
姉が一人に、妹が二人。僕たちは六人家族だ。
賑やかで、少々騒がしくて、何かと面倒なことも多い。
けれど、僕はこの家族が好きだ。
ただ――。
今は、一人だけ足りない。
*** * ***
「……ふわぁ」
大きな欠伸が出た。
階段を下りながら、僕はまだ眠気の残る目を擦る。
時計の針は、午前6時を少し回ったところだった。
階下からは、朝食のいい匂いが漂ってくる。
焼きたてのパン。
ベーコンの香ばしい匂い。
それから、コーヒー。
うん。いつもの朝だ。
「おはよー、母さん」
「あら、おはよう、レイ」
キッチンから、母さんが顔を覗かせた。
城戸メアリ。
僕の母親である。
母さんは、いつも機嫌がいい。
いや、もちろん怒ることだってある。
あるのだけれど、基本的には明るくて、よく笑う人だ。
「今日は早いのね」
「……母さん」
「なあに?」
「それ、昨日も言ってたよ」
「あら、そうだったかしら?」
「うん。一昨日も言ってた」
「まあ。じゃあ明日は違うことを言わなくちゃね」
「……そういう問題?」
母さんは、ふふっと笑った。
「おはよう、麗市」
ダイニングから声がした。
父さんだ。
城戸浩市。
国立魔法研究所に勤める研究員で、国家公務員。
専門は風属性の魔法研究だそうだ。
それと、叡風舘道場の主である。平たく言えば剣道の先生。
もっとも、近所の人たちにとっては、研究者というよりも道場の先生という印象のほうが強いかもしれない。
「おはよう、父さん」
「今日は早いな」
「……父さんまで?」
「ん?」
「いや、何でもない」
「何だい。父さんは何かおかしなことを言ったかな?」
「母さんと同じこと言ってる」
「ほう。それは素晴らしい」
「何が?」
「長年連れ添った夫婦の、見事な意思疎通というやつだよ」
「……ただ同じこと言っただけでしょ」
「まあ、そうとも言うな」
父さんは大真面目な顔で頷き、コーヒーを一口飲んだ。
「ん?………この豆は………。母さん、いつもの豆かな」
「そうですよ」
「そうか、これはもうダメだな。淹れ方を変えてもらっていいかな」
「ご自分でどうぞ」
母さんはにっこりと笑みを浮かべて、自分でやるように促す。
父さんは見ていたタブレットを置き、カップを持ったまま立ち上がる。
「あなた、麗市をからかってばかりいないの」
「いやいや、からかっているつもりはないんだがね」
「どうだか」
「明日はもっと違う気の利いたことを言えるように考えておこうか」
……まったく。
朝から絶好調である。
どうでもいいことにクソ真面目になるのが父さんだ。
父さんはしたり顔で僕の顔を見ていた。
「研究者をなめんなよ」
母さんが笑う。
父さんも笑う。
僕も、つられて笑ってしまった。
こういう何でもないやり取りが、僕は結構好きだったりする。
朝の挨拶で………気の利いたことってなんだろうか、確かに少し興味はある。
明日の朝になったら、綺麗さっぱり忘れてるってことも十分にあるのだけど。
「紅麗亜と麻里愛は?」
「まだ上よ。そろそろ下りてくると思うけれど」
「ふうん」
僕は食卓に向かい、いつもの椅子を引いた。
六人掛けの、大きな丸いダイニングテーブル。
ダイニングテーブルの真ん中に花が生けてある。
背丈はそんなにないから顔が見えなくなることはない。
母さんは毎朝起きてすぐにこの花を生ける。
我が家では、毎朝ここに家族が集まる。
父さんと母さん。絵麗奈姉さん。僕と、紅麗亜と麻里愛。
六人で食事をすれば、それだけで賑やかなものだ。
特に、エレ姉がいるときは。
「………………」
僕は、隣の椅子に目を向けた。
そこには、誰も座っていない。
朝食の皿も、コップも置かれていなかった。
ただ、いつもの椅子が、いつもの場所にあるだけだ。
「………エレ姉、まだ起きないのかな」
思わず、そんな言葉が口をついた。
母さんが、こちらを見る。
「そうねえ」
ほんの少し間を置いて、母さんは微笑んだ。
「まったく、いつまでお寝坊しているつもりなのかしらね」
「……3ヶ月だよ?」
「そうね。ちょっと寝坊が過ぎるわね」
僕は小さく笑った。
「帰ってきたら、絶対言ってやろ」
「あら、何を?」
「寝坊にも限度があるって」
「ふふっ。それ、レイが言えることかしら?」
「……それはそれ、これはこれ」
「まあ、都合のいいこと」
父さんがコーヒーを淹れ直して戻ってきた。
「しかし、麗市」
「ん?」
「絵麗奈に寝坊の説教をするなら、相当な覚悟が必要だぞ」
「何で?」
「三倍は言い返されるからな」
「……ああ」
それは、容易に想像できた。
『寝てたんじゃない!寝かされていたの!3ヶ月もベッドが離してくんなかったの!仕方ないでしょ。レイはあたしの3倍寝てて、むっちゃ優しくしてあげたんだよ。優しくしなさいよ!』
頭の中で絵麗奈が言いそうなことが脳内再生された。
……言いそう。
ものすごく言いそう。
「父さん」
「何だい?」
「エレ姉なら、3倍くらい言い返してきそうだね」
「─────確かに」
二人で顔を見合わせて笑った。
母さんも、くすくすと笑っていた。
父さんはコーヒーを一口飲んで、顔を顰めた。
どうやら淹れ方では問題は解決しなかったようだ。
3ヶ月前。
絵麗奈が事故にあった。
正確に言えば、事故にあったのは僕たち家族全員だ。
僕たちが乗っていたのは、〈キャビネット〉と呼ばれる公共交通機関だ。
磁気浮上式の車両で、専用の軌道上を自動管制によって走行する。
人数によって車両の大きさが変わる。
四人乗り、六人乗り、八人乗り、十人乗りなどがある。
もちろん、相乗りが一番安い。
一人で乗りたいときなんかは四人乗りを予約してもさほど金額は変わらない。
その〈キャビネット〉が暴走して事故を起こした。
この時、六人乗りが予約できなかった。結局、八人乗りに乗ることになった。
〈キャビネット〉の動きに異変を感じた父さんはすぐに麻里愛を抱き寄せた。
母さんは隣に座っていた紅麗亜を。そして絵麗奈姉さんは僕のことを。
─────姉さんが僕を守ってくれた。
〈キャビネット〉は暴走し、軌道を飛び出して─────。
僕らは海に投げ出された。
エレ姉は大量の水を飲み、重体となった。
救助された後、容体が急変したのだという。
そして、意識を取り戻すことなく、今も病院のベッドで眠り続けている。
事故の直後は、家の中から笑い声が消えた。
父さんも母さんも、いつもより口数が少なくなった。
母さんはダイニングテーブルの花を生けなくなった。
それが再び食卓に戻ってきたのは、ほんの最近のことだ。
紅麗亜も、麻里愛も。
そして、僕も。─────けれど、少しずつ。
本当に少しずつだけれど、こうして笑えるようになってきた。
何も解決していない。
姉さんは、まだ帰ってきていない。
それでも、僕たちには毎日の生活がある。
「……早く帰ってこないかな、エレ姉」
そう呟くと、父さんが静かに頷いた。
「ああ。そうだな」
それ以上、父さんは何も言わなかった。
母さんも、ただ微笑んでいた。
そのときだった。
「レイ兄ぃーっ!」
2階から、やたらと元気のいい声が響いてきた。
「……ん?」
「レイ兄! 起きてるーっ!?」
末妹の麻里愛だ。
「起きてるよー!」
「ちょっと来てーっ!」
「いま、これからご飯食べようとしてるんだけどー!」
「すぐだからーっ!」
あー、……はいはい。
何となく、用件は想像できた。
「母さん」
「なあに?」
「うちの女の子たちって、どうしてこう人使いが荒いんだろう」
「あら。誰に似たのかしらねえ」
母さんは、にっこりと笑った。
父さんが、そっとコーヒーカップに視線を落とす。
「……父さん?」
「何かな?」
「今、何か言おうとしたでしょ」
「いや、何も」
「本当に?」
「父さんは家庭の平和を大切にしているからね」
「……なるほど」
僕は妙に納得してしまった。
「レイ兄ーっ! まだーっ!?」
「はいはい! 今行くー!」
椅子から立ち上がり、階段へ向かう。
母さんが背中に声をかけてきた。
「レイ、あんまり時間かけないでね。ご飯、冷めちゃうから」
「はーい!」
階段を上がる途中、庭の向こうから威勢のいい声が聞こえた。
─────めえええええんっ!
続いて、竹刀が打ち合わされる乾いた音。
我が家の敷地には、母屋とは別に道場がある。
父さんが近所の子どもたちに剣道を教えている場所だ。
多忙すぎる父さんの代わりにお弟子さんが三人いる。
平日休日関係なく、朝早くから稽古に勤しむ脳筋三人衆だ。
「……三馬鹿、今日も朝から元気だなあ」
つい、そんな言葉が出てしまった。
別に僕が名付けたわけじゃない。
命名したのは、エレ姉である。
『あの三馬鹿トリオ! またやってる!』
姉さんは、いつもそう言って笑っていた。
そして3人は、そのたびに揃って文句を言っていた。
けれど、本気で怒っているところは見たことがない。
むしろ、姉さんにからかわれることを楽しんでいたんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、また道場から大きな声が響いてきた。
─────うおおおおおっ!
─────おりゃあっ!取ったぞーっ!
何をやっているんだろう、あの人たちは。
ときどきドカーンと音を鳴らす。
─────まあ、いつものことだ。
「レイ兄ーっ!」
「ああ、もう! 今行くって!」
僕は苦笑しながら、階段を駆け上がった。
今日も、城戸家の朝は賑やかだ。
階段を上がりきったところで、麻里愛が待ち構えていた。
「レイ兄! 遅い!」
「……呼ばれてから、まだ一分くらいしか経ってないんだけど」
「女の子を待たせちゃダメなんだよ?」
「どこでそんなこと覚えてくるんだか……」
「エレ姉が言ってた!」
「ああ、なるほど」
実に納得のいく回答だった。
我が姉ながら、妹にいったい何を教えているのだろう。
「で、何の用?」
「えへへ。これ!」
麻里愛が得意げに差し出してきたのは、ヘアブラシと何本かのヘアゴムだった。
ああ、やっぱり。
「今日はどうするの?」
「んっとね! こっちから編んで、後ろで一つにしたいの!」
「編み込み?」
「そう!それ!」
「はいはい。じゃあ、座って」
「はーい!」
麻里愛は嬉しそうに返事をすると、自分の部屋へ駆け込んでいった。
僕もその後を追う。
部屋の中は、いかにも小学生の女の子といった感じだ。
ぬいぐるみが並んだベッドに、色とりどりの小物が置かれた机。
壁には、お気に入りらしいキャラクターのポスターが貼られている。
麻里愛は鏡台の前に椅子を置き、ちょこんと腰掛けた。
「はい、レイ兄。お願いしまーす!」
「かしこまりました、お嬢様」
「えへへっ!」
僕はブラシを受け取ると、妹の髪を丁寧に梳かし始めた。
こういうことは、不思議と得意だったりする。
別に美容師を目指しているわけでもないし、誰かに習った覚えもない。
けれど、髪を編んだり、結ったりするのは、なぜだか昔からできるような気がするのだ。
実際、初めて麻里愛に頼まれたときも、さほど苦労しなかった。
指先で髪を分け、三つの束を作る。
右から左へ。
左から右へ。
少しずつ新しい髪をすくいながら、編み込んでいく。
力を入れすぎれば痛いだろうし、緩すぎれば崩れてしまう。
その加減も、何となくわかる。
「レイ兄、今日はちょっとふわふわにしてね」
「ふわふわ?」
「そう! ぎゅーってしないで、ふわって!」
「……実に抽象的なご注文で」
「えー! わかるでしょ?」
「まあ、わかるけどさ」
「じゃあ、お願い!」
「はいはい」
鏡越しに、麻里愛がにこにこと笑っている。
まったく、末っ子というのは得な生き物だ。
こうしてお願いされると、どうにも断りづらい。
「ねえ、レイ兄」
「ん?」
「今度、学校でお友達に見せたいの」
「何を?」
「髪!」
「……ああ、これ?」
「うん! この前も、すっごく可愛いって言ってもらえたんだよ!」
「そりゃよかった」
「それでね、誰にやってもらったのって聞かれたから、お兄ちゃんって言ったの!」
「ふうん」
「そしたら、みんなびっくりしてた!」
「……まあ、そうだろうね」
「なんで?」
「いや、普通は中学生の男が妹の髪を編んだりしないと思うよ?」
「えー、そうなの?」
「たぶんね」
「でも、レイ兄はできるじゃん」
「そうだねえ」
「じゃあ、普通じゃなくてもいいじゃん!」
「……それもそうか」
実に明快な理屈である。
こういうところは、母さんに似たのかもしれない。
「それにね!」
「うん?」
「レイ兄にやってもらうと、あんまり痛くないの!」
「ああ、それはよかった」
「エレ姉にやってもらったときは、すっごく痛かった!」
「……ああ」
思わず、苦笑いが漏れた。
容易に想像できる。
絵麗奈姉さんは、何事にも全力投球な人なのだ。
もちろん、悪気はない。ないのだけれど。
「エレ姉は力加減がちょっと雑だからねえ」
「そうなの! この前なんて、頭ごと引っ張られちゃった!」
「……あの人ならやりかねない」
「痛いって言ったらね、『女の子は我慢も必要なの!』って!」
「それは違うと思うなあ……」
「でしょー!」
二人で笑った。
そのとき。
「……何、朝から騒いでるの?」
部屋の入り口から、少し眠そうな声が聞こえた。
振り返ると、紅麗亜が立っていた。
城戸紅麗亜。
僕の一つ下……ではなく、二つ違いの妹で、今年から中学一年生になった。
麻里愛と違って、普段はわりと落ち着いている。
どちらかと言えば、僕の方が頭が上がらないっていうか。
学校での困り事があるといつも紅麗亜がフォローしてくれる。
紅麗亜の同級生の男子の目がすごく怖い。
「おはよ、紅麗亜」
「……おはようございます、お兄様」
「くれ姉、おはよー!」
「おはよう、麻里愛」
紅麗亜は軽く欠伸をすると、僕の手元に視線を向けた。
「……また髪やってもらってるの?」
「うん!」
「朝から元気ねえ……」
「だって、いつも可愛くいたいんだもん!」
「はいはい」
紅麗亜は呆れたように笑った。
それから、しばらく僕の手元を眺めていた。
「……お兄様は」
「ん?」
「本当にお上手ですよね、そういうの」
「そうかな?」
「うん。美容師さんみたいですよ」
「褒めても何も出ないよ?」
「別に何も期待していません」
「それは残念」
軽口を返すと、紅麗亜は小さく笑った。
僕は再び麻里愛の髪へ視線を戻す。
編み込みを少しずつ緩め、毛束をふんわりと整える。
最後に、麻里愛が選んだ水色のリボンでまとめれば完成だ。
「はい、おしまい」
「ほんと!?」
「ほら、鏡見てみな」
麻里愛は身を乗り出して鏡を覗き込んだ。
「わああっ!」
ぱっと表情が明るくなる。
同時に、麻里愛の髪に淡い青色が浮かんだ。
ブラウンの髪色の上に、水属性の色彩が淡く重なっている。
魔法適性を持つ子どもには、そう珍しくない現象だ。
「かわいい!」
「お気に召しましたか、お嬢様?」
「うんっ! すっごく!」
「それは何よりでございます」
「レイ兄、ありがとー!」
勢いよく振り返った麻里愛が、僕に抱きついてきた。
「おっと!」
「えへへ! 大好き!」
「はいはい。僕も好きだよ。……でも、せっかく編んだんだから、崩さないでね」
「はーい!」
─────まったく。
これだから、妹には甘くなってしまう。
「……ごちそうさま」
紅麗亜が、横からぼそりと呟いた。
「何が?」
「別にー」
「何だよ、それ」
紅麗亜は、ふいっと顔を背ける。
そのまま部屋を出ていくのかと思ったのだけれど、どういうわけか入り口から動こうとしない。
「……紅麗亜?」
「ん?」
「どうかした?」
「……別になんでもありません」
「そう?」
「…………」
妙な間があった。
紅麗亜は何か言いたげに口を開きかけて、また閉じる。
僕は首を傾げた。
「何? 言いたいことあるなら言ってほしいな?」
「……えっと」
「うん」
「……時間ありますか?」
「いつのこと?」
「いまです」
「今日はお休みだよね?」
「そうですね」
「………特には用事はないけど。困ることっていえば朝ごはんが冷めちゃうって母さんが怒ることくらい、かな」
また、沈黙。
何だろう。
普段の紅麗亜にしては、随分と歯切れが悪い。
「……お兄様」
「何?」
「……私も、やってもらっていいですか?」
「……へ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「髪」
「……ああ」
「……ちょっとだけ」
紅麗亜は、何となく気まずそうに視線を逸らした。
珍しい。
本当に珍しい。
紅麗亜は、普段こういうことをあまり頼んでこない。
もちろん、まったくないわけじゃないのだけれど。
自分のことは自分でする、という意識が強い。
それに髪についてはあまり人に触られたくないと思っているはずだ。
エレ姉が紅麗亜の頭をわしゃっと撫でた時、紅麗亜がブチギレたことがある。
「……何ですか?」
「いや、珍しいなあって」
「……やっぱりいいです」
「えっ、ちょっと待って!」
踵を返そうとした紅麗亜を、慌てて呼び止める。
「やるって! やるから!」
「……別に、無理にとは言ってませんから」
「無理じゃないよ。ほら、おいで」
「…………」
紅麗亜は少しだけ迷っていたようだったけれど、やがて小さく頷いた。
「……うん」
「くれ姉もやってもらうの!?」
麻里愛が嬉しそうに声を上げた。
「……何よ」
「えへへ! くれ姉もレイ兄にやってもらいたいんじゃん!」
「ち、違うし!」
「えー、だって今お願いしてたよ?」
「それは……!」
紅麗亜の頬が、ほんのり赤くなった。
「……たまには、いいかなって思っただけ!」
「ふふーん!」
「何、その顔!」
「べっつにー!」
「麻里愛!」
「はいはい、そこまで」
僕は二人の間に割って入った。
「朝から喧嘩しないの」
「だって、麻里愛が!」
「くれ姉が照れてるー!」
「照れてない!」
「はいはい。紅麗亜、こっちおいで。」
「……ん」
紅麗亜は、少しむくれた顔のまま椅子に腰掛ける。
「で、どうする?」
「……どうするって?」
「髪。どんな感じにしたいの?」
「ああ……」
紅麗亜は鏡を見つめながら、少し考えた。
「……麻里愛みたいなのじゃなくて」
「うん」
「もうちょっと、大人っぽいのがいい」
「大人っぽい?」
「……うん」
「なるほど」
僕は紅麗亜の髪を軽く持ち上げてみた。
髪の長さと量を確認する。
このくらいなら、片側から編み込んで、後ろでまとめるのがよさそうだ。
「じゃあ、横から少し編んで、後ろでまとめようか」
「……うん。それがいい」
「了解」
ブラシで髪を梳かし、指先で毛束を分ける。
麻里愛より少し細い髪。
力を入れすぎないように、丁寧に編んでいく。
「……痛くない?」
「うん」
「引っ張りすぎてない?」
「大丈夫」
「そっか」
それからしばらく、三人とも黙っていた。
といっても、気まずい沈黙ではない。
麻里愛は鏡の横から、興味津々といった様子で僕の手元を覗き込んでいる。
紅麗亜は、鏡越しに自分の髪が少しずつ形になっていくのを眺めていた。
「……お兄様」
「ん?」
「こういうのって、誰に教わったんです?」
「……さあ?」
「さあって」
「いや、本当に覚えてないんだよね」
「……ふうん」
「何となく、できちゃうんだ」
僕は苦笑した。
「不思議だよねえ」
「……そうですね」
紅麗亜は鏡の中の自分を見つめていた。
いつの間にか、髪に淡い緑色が浮かんでいる。
「……あ」
彼女は小さく息を吸った。
それから、何事もなかったように視線を戻した。
「……どうかした?」
「ううん。何でもありません」
「そっか」
僕も、それ以上は聞かなかった。
紅麗亜は昔から、こういうところがある。
何か考えているようで、肝心なことは口にしない。
まあ、誰にだって言いたくないことくらいあるだろう。
それに………話す時もかしこまった感じで話す。
もっと麻里愛みたいな砕けてもいいんだよ、って言っても崩さない。
いつもお兄様と呼ぶし、時折、言い間違いそうになったときには動揺している。
そんな話し方をするのは僕に対してだけだ。
「……よし。こんなところかな」
編み込んだ髪を後ろでまとめ、最後に形を整える。
「はい、完成」
「……ん」
紅麗亜は鏡を覗き込んだ。
少し首を傾げ、右を向き、左を向く。
それから、控えめに微笑んだ。
「……いい感じ、です」
「お気に召した?」
「……はい」
「そりゃよかった」
紅麗亜はもう一度、鏡の中の自分を眺めた。
「……ありがと、レイ兄様」
「どういたしまして」
僕が笑うと、紅麗亜も小さく笑い返した。
紅麗亜はレイ兄様、という時はご機嫌であることは前から知ってる。
「ねえねえ!くれ姉、かわいい!」
麻里愛が嬉しそうに言った。
「……ありがと」
「レイ兄、すごいね!」
「まあね」
「おおっ、自分で言っちゃうんだ!」
「たまには自慢したっていいでしょ」
三人で笑った。
そのとき、ふと。
鏡の中に映る妹たちを眺めながら、僕は妙なことを思った。
こうして女の子の髪を結っている時間は、何だかとても落ち着く。
どうしてなのかは、よくわからない。
ただ、髪を梳かして、編んで、結んで。
最後に、嬉しそうな顔をしてもらえる。
それが、何となく好きだった。
「……お兄様?」
「ん?」
「どうしたの?」
紅麗亜が、不思議そうにこちらを見ていた。
「いや、何でもないよ」
「……そう?」
「うん」
僕は笑って答えた。
すると、階下から母さんの声が響いてきた。
「三人ともー! そろそろいいかげんにしなさいよ!」
「あっ!」
麻里愛が時計を見る。
「もうこんな時間!」
「だから早くしようって言ったのに」
紅麗亜が呆れたように言う。
「くれ姉だってやってもらってたじゃん!」
「……それは、それ!」
「えー! ずるい!」
「はいはい、わかったから。二人とも下りるよ」
僕が声をかけると、麻里愛が元気よく返事をした。
「はーい!」
紅麗亜も立ち上がる。
そのまま部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「……お兄様」
「ん?」
「……また、お願いしてもいいですか?」
少しだけ遠慮がちな声だった。
僕は思わず笑ってしまった。
「もちろん」
紅麗亜は、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃ、またお願いします」
「はいはい。いつでもどうぞ、お嬢様」
「……なんですか!それ」
そう言いながらも、紅麗亜は笑っていた。
麻里愛が、僕の手を引っ張る。
「レイ兄! 早く!」
「わかった、わかった!」
三人で廊下へ出る。
階下からは朝食の匂いが漂ってきて、庭の向こうでは相変わらず竹刀の音が響いていた。
階段を下りながら、麻里愛が何やら楽しそうに話し始める。
紅麗亜がそれに言い返す。
そして僕が、二人の間に口を挟む。
そんな、いつもの朝。
─────エレ姉がいたら、きっともっと賑やかだったんだろうな。
ふと、そう思った。
姉さんが帰ってきたら、またみんなで騒げばいい。
あの人なら、きっと三ヶ月分の騒がしさを、一日で取り戻してしまうだろう。
……いや。
半日もあれば十分かもしれない。
そんなことを考えて、僕は小さく笑った。
早く帰っておいでよ、絵麗奈姉さん。
みんな、待ってるんだから。
*** * ***
階段を下りると、母さんがちょうど朝食を並べ終えたところだった。
「あら、やっと来た」
「お待たせー」
「もう。ご飯が冷めちゃうじゃない」
「ごめんごめん。今日は二人分だったからさ」
「二人分?」
母さんが首を傾げた。
すると、僕の後ろから紅麗亜と麻里愛が顔を覗かせた。
「おはよー、お母さん!」
「おはよう、麻里愛。……あら?」
母さんの視線が、麻里愛の髪から紅麗亜の髪へ移った。
「まあ! 今日は紅麗亜も結ってもらったの?」
「……うん」
「あらあら、珍しいこともあるものねえ」
「……別に、たまにはいいかなって思っただけ」
紅麗亜は少し気恥ずかしそうに答えた。
「ふふっ。とっても似合ってるわよ」
「……ありがと」
「ねえねえ、お母さん! 私のも見て!」
「はいはい。ちゃんと見てるわよ」
麻里愛がくるりと回ってみせる。
母さんは満足そうに頷いた。
「まあ、可愛い!」
「でしょー!」
「本当に上手ねえ、レイ」
「そう?」
「お母さんより上手なんじゃないかしら」
「……母さん、それ、自慢になってないよ」
「あら、失礼ね」
母さんが頬を膨らませる。
「お母さんだって、その気になればできるわよ?」
「じゃあ、今度やってあげれば?」
「……そうねえ」
母さんは少し考えた。
「絵麗奈が帰ってきたら、あの子の髪で練習しようかしら」
「……エレ姉で?」
「ええ」
「……じっとしててくれるかなあ」
母さんは、しばらく黙った。
「…………」
「…………」
「……やっぱり、やめておこうかしら」
「賢明な判断だと思う」
思わず笑ってしまった。
「お母さん!」
麻里愛が不服そうに声を上げる。
「私の髪で練習すればいいじゃん!」
「あら、いいの?」
「うん!」
「ふふっ。じゃあ、今度お願いしようかしら」
「やったー!」
うん。実に平和な朝である。
「さて、皆さん」
父さんが、コーヒーカップを置いた。
「そろそろ食事にしないと、危険な時間帯になっていると思うのだが」
「あら、そうね」
「父さん、お腹空いた?」
「いや、父さんはもう随分前から食べ始めている」
「……あ、本当だ」
父さんの皿には、すでにトーストが半分しか残っていなかった。
「待っててくれてもよかったんじゃない?」
「麗市。食事は温かいうちにいただくものだよ」
「……それ、さっき母さんに言われたやつ」
「実に正論だと思わないか?」
「はいはい」
僕は苦笑しながら椅子を引いた。
紅麗亜と麻里愛も、それぞれの席に着く。
こうやってみんな揃うのは休日くらいだ。
六人掛けの食卓に、五人が並んだ。
「それじゃあ、いただきましょうか」
「いただきまーす!」
麻里愛の元気な声が響く。
「いただきます」
紅麗亜も手を合わせた。
僕もそれにならう。
朝食は、トーストにベーコンエッグ、サラダとスープ。
いつもと変わらない献立だ。
けれど、母さんの作る朝食は美味しい。
これについては、家族全員の意見が一致している。
いや。
エレ姉だけは、たまに文句を言っていたっけ。
『お母さん! 今日の目玉焼き、黄身が固い!』
『あら、じゃあ明日は半熟にするわね』
『えー! 明日は固いのがいい!』
『どっちなのよ、あなたは!』
そんな会話が、しょっちゅう繰り返されていた。
僕は自分の皿に載った目玉焼きを見た。
黄身は、ちょうどいい半熟だった。
「……うん、美味しい」
「あら、ありがとう」
母さんが嬉しそうに笑った。
「ねえ、レイ兄!」
麻里愛が、スープを一口飲んでから声をかけてきた。
「ん?」
「今度ね、学校で髪型の話になったら、レイ兄のこと自慢してもいい?」
「……僕のこと?」
「うん!」
「何を自慢するの?」
「髪を結うのが上手なお兄ちゃんがいるって!」
「……それ、自慢になるのかなあ」
「なるよ!」
麻里愛は自信満々だった。
「みんな、いいなあって言ってたもん!」
「そうなの?」
「うん! お兄ちゃんがいる子も、自分のお兄ちゃんはそんなことしてくれないって!」
「まあ、普通はそうかもね」
「だからね、レイ兄はすごいの!」
「ありがと」
我が妹ながら、何ともありがたい評価である。
「それは確かに、麗市の特技と言っていいかもしれないな」
父さんが口を挟んできた。
「そうかな?」
「ああ。少なくとも父さんにはできない」
「……父さんは、そもそもやったことないでしょ」
「息子よ。父さんはちゃんと父なんだぞ。やったことがあるに決まっているじゃないか」
「えっ?」
意外な回答だった。
「誰の?」
「絵麗奈だよ」
「……エレ姉の?」
「ああ。まだ小さかった頃にな」
父さんは、どこか遠い目をした。
「結果は?」
「……聞かないでくれ」
「…………」
「…………」
「……何があったの?」
「麗市。世の中には、知らないほうが幸せなこともあるんだよ」
「大げさだなあ」
母さんが、くすくすと笑い始めた。
「あなた、あのときは大変だったわねえ」
「メアリ、勘弁してくれ」
「絵麗奈ったら、鏡を見た途端に大泣きしちゃって」
「……ええっ!?」
「だって、左右で結ぶ高さが全然違うんだもの。絵麗奈には申し訳ないけど。面白かったわ」
「……父さん」
「何だい?」
「それはひどい」
「父さんもそう思う」
あっさり認めた。
「その後、絵麗奈にはしばらく髪を触らせてもらえなかったな」
「……でしょうね」
僕がそう言うと、紅麗亜が小さく吹き出した。
「……お父さん、意外と不器用だよね」
「紅麗亜。それは少し違うぞ」
「何が?」
「父さんは、剣を扱うことに関しては器用なんだ」
「……髪の毛は?」
「専門外だな」
「ふふっ」
紅麗亜が笑った。
「じゃあ、お父さんには頼まないようにしよ」
「それが賢明だろう」
自分で言っちゃうんだ。
まったく、父さんという人は。
「専門外っていうものには、容易く手を出すもんじゃないぞ」
「普通は手を出すことなんてないよね?出来ないんだから」
「人間っていうのはね、ほんの少しの見栄っ張りで大失態をやらかすもんなんだ。少しはいいところを見せようと思ってしまうとな。まあ髪は麗市の専門だからいくらでもやるといい」
メアリがくすりと笑う。
「あのとき、おばあちゃんがアルヴァーンから来ていたのよ」
父さんは話を広げすぎたと思ったのか、なんとも言えない表情になった。
そして、話を変えた。
「そういえば、紅麗亜」
食事が半分ほど進んだ頃、父さんが妹に声をかけた。
「ん?」
「今度、学校で魔法適性の測定があるんだったね」
「ああ、うん。来週」
「そうか。もうそんな時期か」
父さんは感慨深げに頷いた。
魔法適性の測定。
僕たちにとっては、それほど珍しいものではない。
この世界には、魔法が存在する。
そして、その魔法を扱うための適性を持つ人間がいる。
いわゆる〈魔法師〉というやつだ。
もっとも、魔法適性があるからといって、誰もが〈魔法師〉になるわけではない。
適性を持ちながら、普通の仕事に就いている人も大勢いる。
父さんは研究者であると同時に〈魔法師〉でもあるけれど、母さんは違う。
母さんは昔、〈魔法師〉だったらしい。
何でも、結婚するときにすっぱり辞めてしまったそうだ。
理由を尋ねたことがある。
『だって、お父さんと結婚したかったんだもの』
……とのことだった。
実に母さんらしい。
「くれ姉、また一番になるの?」
麻里愛が尋ねた。
「……別に、順位を決めるものじゃないから」
「でも、この前もすごかったんでしょ?」
「まあ……」
「先生が褒めてたって、お母さん言ってたよ!」
「……麻里愛、声大きい」
紅麗亜は少し照れたように俯いた。
我が妹ながら、紅麗亜の魔法適性は非常に優秀らしい。
特に、風属性。父さんと同じ属性だ。
僕には専門的なことはよくわからないけれど、学校の先生からも随分と期待されているようだった。
「紅麗亜は、将来が楽しみだな」
父さんが穏やかに言った。
「……まだ決めてないよ」
「ん?」
「魔法師になるかどうか」
「ああ、そうか」
父さんは頷いた。
「別に、まだ決めなくてもいいんじゃない?」
僕が言うと、紅麗亜はこちらを見た。
「……兄様は、どう思う?」
「うん。だって、まだ中一でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
「やりたいことなんて、これからいくらでも変わるだろうし」
「そうね」
母さんが、僕の言葉に頷いた。
「お母さんも、そう思うわ」
それから、紅麗亜に向き直る。
「〈魔法師〉になりたくなったら、なればいいのよ」
「……うん」
「別に、魔法に人生を捧げなきゃいけないなんてこと、ないんだから」
母さんは、実にあっさりと言った。
「でも、せっかく才能があるんだからって、先生は……」
「それは先生の考えでしょう?」
「……うん」
「紅麗亜の人生は、紅麗亜のものよ」
母さんは微笑んだ。
「才能があることと、それを仕事にしなければならないことは、別の話だもの。嫌でもその道しかないという人生はある意味窮屈よ」
紅麗亜は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……ありがと、お母さん」
「どういたしまして」
母さんは満足そうに笑った。
「まあ、父さんとしては、才能を活かしてくれたら嬉しいとは思うけれどね」
父さんが何気なく口を挟んだ。
すると。
「あなた?」
母さんが、にっこりと笑っていたが、どこかピリッとしている。
「……も、もちろん、本人が望むなら、という話だよ」
「そうよね?」
「ああ。まったくそのとおりだ」
……早い。実に素早い軌道修正だった。
「父さん」
「何だい?」
「今の、ちょっと怖かった?」
「……麗市」
「うん?」
「父さんから一つ、人生の先輩として助言しておこう」
「何?」
「家庭の平和は、何物にも代えがたいものだよ」
「……なるほど」
母さんが、さらに緊張感を醸し出す。
「あなた?」
「……はい」
紅麗亜が吹き出した。
麻里愛も笑い始める。
僕も、とうとう堪えきれなくなった。
「父さん、弱いなあ!」
「何を言う、麗市」
父さんは大真面目な顔をした。
「父さんは、これでもそこそこ強いんだぞ」
「知ってるよ」
「ならば、なぜ弱いなどと」
「母さんには勝てないじゃん」
「……それとこれとは話が別なんだよ」
「何が違うの?」
「夫婦というものは、勝ち負けではない」
「……あ、逃げた」
「逃げてはいない。これは戦略的な撤退だ」
「撤退してるじゃん!」
食卓に笑い声が広がった。
母さんも、紅麗亜も、麻里愛も。
父さんまで、声を上げて笑っていた。
こういうところは、本当に変わらない。
どれだけ大変なことがあっても。
どんなに落ち込んだ日があっても。
父さんは、くだらない冗談を言うし、煙に巻くようなことも言う。
母さんは、それに笑いながら言い返す。
そして、僕たちも笑う。
いつもの城戸家だ。
こんなとき、エレ姉がいたら、きっと真っ先に父さんをからかっていただろう。
『お父さん、相変わらずお母さんには勝てないね!』
─────そんな声が、今にも聞こえてきそうだった。
*** * ***
「……あ」
ふと、麻里愛が顔を上げる。
「ねえねえ、お母さん!」
「なあに?」
「今日、エレ姉のところ行くの?」
「ええ。午後から行くつもりよ」
「私も行きたい!」
「あら、そう?」
「うん!」
麻里愛は大きく頷いた。
「この髪、エレ姉に見せたい!」
「ふふっ。そうね。きっと喜ぶわ」
「……私も行っていい?」
紅麗亜が、小さく尋ねた。
「もちろんよ」
「……うん」
母さんは、それから僕を見た。
「レイはどうする?」
「もちろん僕も行くよ」
答えるまで、少しも迷わなかった。
「今日は道場で稽古するつもりだけど、午後なら大丈夫だと思う」
「そう。じゃあ、みんなで行きましょうか」
「はーい!」
麻里愛が元気よく手を挙げた。
「あなたは?」
母さんが父さんに尋ねる。
「僕は少し仕事があるからね。終わり次第、合流しよう」
「わかったわ」
父さんは頷いた。
そして、いつもと変わらない穏やかな表情で言った。
「絵麗奈に、みんなが元気にしているところを見せてやろう」
「……うん」
僕は頷いた。
姉さんは、まだ眠っている。
声をかけても、返事はない。
いつ目を覚ますのかも、わからない。
けれど、僕たちは今日も病院へ行く。
学校であったこと。
家であったこと。
道場の三馬鹿トリオが、また何かしでかしたこと。
そんな、どうでもいい話をたくさん持って。
……エレ姉なら、きっと呆れるだろうな。
『ちょっと! あたしが寝てる間に、そんな面白いことしてたの!?』
なんて。
そう言って、いつものように騒ぎ始めるのだろう。
僕はそんなことを思いながら、残っていたトーストを口に放り込んだ。
窓の向こうから、道場の竹刀の音が聞こえてくる。
今日も、いつもどおりの朝が過ぎていく。
六人掛けの食卓には、五人。
空いた椅子は、変わらずそこにあった。
姉さんが帰ってきたとき、いつでも座れるように。
*** * ***
朝食を終えて、自分の部屋に戻る。
机の脇に置いてあった道着を手に取り、手早く着替えを済ませた。
今日は学校が休み。
平日なら今頃は登校の準備で慌ただしいところだけれど、休日ともなれば少しくらいはのんびりできる。……できるはずなのだが。
うるさい。
「だああああっ!」
「甘いっ!」
「うおおおおおっ!?」
窓の向こうから、朝っぱらから景気のいい叫び声が聞こえてきた。
続いて、竹刀が打ち合わされる乾いた音。
……うん。
今日も元気だ。
「まったく、あの人たちは……」
思わず苦笑してしまう。
城戸家の敷地には、母屋とは別に一棟の道場がある。
父さんが近所の子どもたちに剣道を教えている場所だ。
道場自体はなかなか立派なもので、板張りの稽古場に更衣室、道具置き場なども備わっている。
休日ともなると、近所の小学生や中学生が稽古にやってくる。
中には、魔法適性を持っている子もいる。
とはいえ、ここで教えているのは、基本的には普通の剣道だ。
魔法を使って相手を吹き飛ばしたり、竹刀から炎を出したりする道場ではない。
そんなことをしたら、道場がいくつあっても足りないだろう。
もっとも、父さんは〈魔法剣士〉というものでもある。
剣術と魔法を組み合わせて戦う〈魔法師〉のことだ。
父さんの場合、風属性の魔法を得意としていて、その腕前は相当なものだと聞く。
歯切れが悪くなるのは、僕自身が父さんの本気の戦いを見たことがないからだ。
ただ、稽古をつけてもらえば、その凄さは嫌というほどわかる。
何しろ、まったく当たらない。
こちらがどれだけ頑張っても、ひょいひょいとかわされてしまうのだ。
……あれは、ちょっと反則だと思う。
そんな父さんのもとには、三人の弟子がいる。
安住さん、吉田さん、石倉さん。
三人とも階梯を持つ、れっきとした〈魔法師〉だ。
当然、剣術の腕もそれなりに立つ。
それなりに、という言い方は失礼かもしれないけれど。
何しろ、この三人。
姉さんからは、揃って『三馬鹿トリオ』と呼ばれている。
……しかも、本人たちも特に否定しないし。
いや、一応は抗議している。
するのだけれど、最後には何となく丸め込まれてしまうのだ。
どうやら、この道場には父さんを頂点とする剣術の序列とは別に、姉さんを頂点とする謎の序列が存在しているみたいだ。
もちろん、僕はその序列について深く考えないことにして、関わらないことにした。
心の平和というものは大切だからね。
「おはようございまーす」
道場の引き戸を開けて声をかける。
途端に。
「おおっ! 坊っちゃん!」
「来たか、レイ!」
「おはようさん!」
三方向から声が飛んできた。
相変わらず賑やかな人たちである。
「おはようございます。安住さん、吉田さん、石倉さん」
「おう!」
最初に返事をしたのは安住さんだった。
三人の中では、比較的まとめ役に近い人だ。
─────年長者ということもあり、本人はそう思っているはずだ。
少なくとも僕は、そういう認識でいる。
実際にまとまっているかどうかは、また別の問題なのだけれど。
「稽古するのか?」
「はい。少し身体を動かしておこうと思って」
「いい心がけじゃねえか!」
安住賢吾さん、である。
歳は29歳。独特な空気を纏っている。
独身貴族だと言っているが─────。単にモテないのかもしれない。
ドレッドヘアである。剣道の先生には絶対に見えない。
「ぐはっはっは」
吉田さんが豪快に笑う。
「若いうちは、身体を動かしてなんぼだぞ!」
「それ、昨日も聞きましたよ」
「おっ、そうだったか?」
「一昨日もです」
「……お前、こまけーなー!」
「吉田さんが毎回同じこと言うからですよ」
「はっはっは!」
……笑ってごまかされた。
吉田麟太郎さん。26歳。
この三人の中では一番年長者っぽい雰囲気なのだ。
30代半ばくらいかと思ったら、安住さんより3つ下だった。
筋肉のつき方が異常である。
「で、レイ」
石倉さんが竹刀を肩に担ぎながら近づいてきた。
「今日は誰とやる?」
「え?」
「稽古だよ、稽古」
この人は石倉陽日さん。24歳。
明らかに二人よりも若い。名前が女性っぽい名前だがれっきとした男性。
そのことで弄ると本気で怒り出す。そして、喧嘩を吹っかける名人らしい。
どういうことかというと喧嘩を吹っかけておいて、気づいたら喧嘩しているのは先輩たち二人になっているらしい。先輩たちが喧嘩しているのを笑って見ているらしい。
3人とも階梯持ちの立派な〈魔法師〉だ。
父さんのような魔法剣士を目指しているらしい。
腕前も相当なものだと聞いている。
……聞いてはいるのだけれど。
安住さん、吉田さん、石倉さん。
僕は三人を見渡した。
うん。
誰を選んでも、あまり変わらないような気がする。
「じゃあ、安住さんで」
「おっ、俺か!」
安住さんが嬉しそうに笑った。
「いいだろう! 胸を貸してやる!」
「よろしくお願いします」
「ただし、手加減はしねえぞ?」
「……ほどほどでお願いします」
「何を言う! 稽古で手を抜いてどうする!」
……この人たちは、どうしてこう暑苦しいのだろう。
もちろん、嫌いではない。
むしろ、僕はこの三人が結構好きだった。
いつも明るくて、騒がしくて。
何より、僕を特別扱いしない。
僕が長い間入院していたことも、記憶がないことも知っている。
それでも、道場に来れば普通に稽古相手として扱ってくれる。
最初の頃は、随分と気を遣わせていたらしいけれど。
今では、遠慮というものがほとんどなくなっていた。
……いや。
もう少し遠慮してくれてもいいんじゃないかと思うことは、たまにある。
「よし、レイ! 防具をつけろ!」
「はーい」
僕は道場の隅へ向かった。
「始め!」
吉田さんの声が響いた。
僕と安住さんは、互いに竹刀を構える。
道場の床を、裸足の足裏で確かめる。
すっと息を吸った。
向かい合う安住さんの竹刀が、わずかに動く。
「……ふっ!」
踏み込んできた。
速い。
僕は半歩、身体を引いた。
安住さんの竹刀が、目の前を通り過ぎる。
「おっと!」
すかさず、こちらも踏み込む。
竹刀を返し、相手の小手を狙う。
しかし。
「甘い!」
安住さんは素早く竹刀を引き、僕の一撃を受け止めた。
乾いた音が響く。
そのまま鍔迫り合い。
「……くっ!」
「どうした、レイ! その程度か!」
「……重いんですよ!」
「はっはっは! 鍛え方が足りねえな!」
「まだ中学生ですから!」
「言い訳するな!」
……どこかで聞いた台詞だ。
まったく。
どうして僕の周りには、こういう人ばかりいるのだろう。
姉さんといい、安住さんといい。
少しは優しくしてほしいものである。
もっとも。
こうやって全力で相手をしてもらえるのは、悪い気分ではない。
僕は足を引き、間合いを取り直した。
安住さんが竹刀を構え直す。
その刹那。
相手の重心が、ほんのわずかに前へ傾いた。
……来る。
そう思ったときには、身体が動いていた。
踏み込みに合わせて、斜めに身をかわす。
竹刀を払うのではなく、相手の攻撃線から外れる。
同時に、手首を返した。
「……っ!」
竹刀の先が、安住さんの小手へ伸びる。
だが。
「うおっ!?」
安住さんは、とっさに腕を引いた。
僕の竹刀が空を切る。
……惜しい。
「ちょっ、待て待て!」
安住さんが大きく距離を取った。
「……え?」
「今の何だ!?」
「何って……小手ですけど」
「いや、そうじゃねえ!」
安住さんは、妙に興奮していた。
「お前、今どうやって動いた!?」
「……どうって言われても」
僕は首を傾げた。
「普通にかわしただけですけど」
「普通じゃねえよ!」
横で見ていた吉田さんが笑い出した。
「はっはっは! また変な動きしたな、レイ!」
「……変ですか?」
「変だな!」
「即答しないでくださいよ!」
石倉さんも腕を組んで頷いた。
「いや、でも今のは面白かったな」
「そうですか?」
「ああ。踏み込みの方向と、竹刀の返し方がちょっと独特だ」
「……そうなんですか」
言われても、いまいちピンとこない。
何しろ、僕自身は普通に動いているつもりなのだ。
「誰に教わったんだ、あんな動き?」
安住さんが尋ねてきた。
「……さあ?」
「さあって、お前」
「いや、本当にわからないんです」
僕は苦笑した。
「何となく、身体が動くっていうか」
「……何となく?」
「はい」
三人は顔を見合わせた。
「……師匠の倅だからなあ」
吉田さんが、妙に納得したように言った。
「血は争えないってことか?」
石倉さんも頷く。
「いやいや、それにしたって、ちょっと変わってるぞ」
安住さんは、まだ納得していないらしい。
「……でも、面白いな」
そう言って笑った。
「もう一本やろうぜ!」
「ええっ!?」
「何だよ、もう疲れたのか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
「じゃあ、決まりだ!」
……やれやれ。
どうやら、今日も長くなりそうだ。
「安住」
そのとき、道場の入り口から声がした。
「おっ、師匠!」
三人が揃って振り返る。
父さんだった。
朝食のときと同じ、飄々とした表情で道場へ入ってくる。
「おはようございます、師匠!」
「おはようございます!」
「おはようございます!」
「うん、おはよう」
父さんは軽く手を上げた。
「朝から元気だねえ、君たちは」
「もちろんです!」
「若さが売りですから!」
「朝稽古は最高っす!」
……三人とも、実に元気である。
「それは結構」
父さんはにこにこと笑った。
「ところで、安住」
「はい!」
「今のは、少し踏み込みすぎだね」
「……え?」
「初撃で決めようとしすぎている。相手にかわされたとき、次の動作が遅れる」
「……あっ」
「麗市のように、正面から受けずに外へ動く相手には、少し分が悪いかな」
「……なるほど」
安住さんが真剣な顔で頷いた。
父さんは、今度は僕に向き直った。
「麗市」
「はい」
「お前も、最後は少し無理があったね」
「……あ、やっぱり?」
「うん。相手の重心をよく見ていたのはいい。ただ、あそこから小手を狙うなら、もう少し身体を残しておくべきだった」
「身体を残す?」
「ああ。かわすことを優先しすぎると、その後の攻撃につながらなくなるからね」
「……なるほど」
僕は小さく頷いた。
「もう一度、同じ動きをやってごらん」
「はい」
竹刀を構え直す。
安住さんが軽く踏み込む。
僕は先ほどと同じように、斜めに身体を移動させた。
そのまま、竹刀を返す。
「……ふむ」
父さんが、顎に手を当てた。
「……父さん?」
「いや、何でもないよ」
「変だった?」
「そうだね。剣道の動きとしては、少し独特かな」
「……やっぱり」
「ただ、理に適っていないわけではない」
父さんは、穏やかに続けた。
「相手の力を正面から受けず、流れを利用している。悪くない動きだよ」
「……そう?」
「ああ」
父さんは頷いた。
「でも、道場では剣道の稽古をしているからね。まずは基本を大切にしなさい」
「はーい」
「返事は元気よく」
「はいっ!」
「よろしい」
……まったく。
父さんまで、時々妙に厳しい。
「しかし、師匠」
石倉さんが口を開いた。
「レイのああいう動きって、昔からなんですか?」
「ん?」
「何というか、剣道とは少し違う気がするんですけど………」
「そうだねえ」
父さんは、しばらく考えた。
「本人にも、理由がわからないんだからね」
「ああ……」
「まあ、無理に矯正する必要もないだろう」
「そうなんですか?」
「剣には、その人なりの身体の使い方というものがあるからね」
父さんは僕を見た。
「ただし、基本を疎かにしていいという意味ではないよ、麗市」
「……わかってるって」
「本当かな?」
「本当だよ!」
父さんは、楽しそうに笑った。
「なら、結構」
そして、三人の弟子たちに向き直る。
「さて。せっかくだから、少し見てあげようか」
「本当ですか!?」
「お願いします!」
「よっしゃあ!」
……あ。
まずい。
非常にまずい。
僕は嫌な予感がした。
「父さん」
「何だい?」
「……今日は午後から、エレ姉のお見舞いに行くんだよね?」
「ああ、そうだね」
「だから、あんまり長くならないように……」
「もちろん」
父さんは、にっこりと笑った。
「午前中には終わらせるよ。父さんだって仕事もある」
「…………」
午前中。
今は、まだ九時前。
……つまり、あと三時間近くあるわけで。
「……父さん」
「何だい?」
「それ、全然安心できないんだけど」
「大丈夫。父さんに任せなさい」
……この人の『大丈夫』は、あまり信用できない。
「よし! レイ!」
吉田さんが勢いよく竹刀を構えた。
「次は俺だ!」
「いやいや、次は俺だろ!」
石倉さんが割って入る。
「待て待て! 俺との勝負がまだ終わってねえ!」
安住さんまで声を上げた。
「……ちょっと、三人とも!」
僕は思わず抗議した。
「一人ずつお願いしますよ!」
「おう! もちろんだ!」
「順番にな!」
「逃げるなよ、レイ!」
「逃げませんって!」
……まったく。
朝から、何でこんなに元気なんだろう。
僕は小さくため息をついた。
すると父さんが、楽しそうに言った。
「麗市」
「……何?」
「人気者だねえ」
「……代わってくれてもいいんだよ?」
「いやいや。若い者同士、仲良くやりなさい」
「……ずるい!」
「はっはっは!」
父さんが笑う。
三人も笑う。
僕も、とうとう笑ってしまった。
……こういうところは、嫌いじゃないんだけどね。
しばらくして、稽古が一区切りついた。
僕は道場の端に腰を下ろし、タオルで汗を拭った。
「……疲れたー」
「お疲れさん!」
安住さんが、スポーツドリンクの入ったボトルを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「おう!」
受け取って、一口飲む。
冷たい飲み物が、火照った身体に染み渡った。
「いやあ、レイも随分動けるようになったなあ」
吉田さんが、僕の隣に腰を下ろした。
「そうですか?」
「ああ。最初の頃なんて、まともに竹刀を振るのも大変だったろ?」
「……まあ、そうですね」
確かに、そうだった。
病院を退院して、少しずつ身体を動かせるようになって。
父さんに剣道を教わり始めた頃は、本当にひどいものだった。
竹刀を構えるだけで腕が疲れたし、足運びも思うようにいかなかった。
それでも、何となく。
剣を握ること自体には、違和感がなかった。
まるで、昔からそうしてきたかのように。
「……不思議ですよねえ」
思わず呟いた。
「ん?」
「いや、僕、昔のことはほとんど覚えてないじゃないですか」
「ああ」
「なのに、剣を握ると、何となく身体が動くんですよ」
「……へえ」
吉田さんは感心したように頷いた。
「身体が覚えてるってやつか?」
「……そうなんですかね」
「まあ、そういうこともあるんじゃねえか?」
石倉さんが、横から口を挟んだ。
「自転車だって、一度乗れるようになったら、なかなか忘れねえだろ?」
「ああ、確かに」
「それと似たようなもんじゃねえの?」
「……なるほど」
言われてみれば、そんな気もする。
「しかし、お前も頑張ったよなあ」
安住さんが、しみじみと言った。
「最初は歩くだけでも大変だったってのに」
「……まあ、エレ姉が厳しかったですから」
「ああ……」
三人が、ほとんど同時に頷いた。
……何だろう。
この妙な一体感は。
「絵麗奈ちゃん、容赦なかったもんなあ」
吉田さんが苦笑した。
「『レイを甘やかさないで!』って、俺たちまで怒られたし」
「……ああ、ありましたね」
僕は思わず笑った。
病院から外出許可が出た頃だっただろうか。
父さんの道場へ顔を出した僕を、三人は随分と気遣ってくれた。
椅子を持ってきてくれたり、飲み物を用意してくれたり。
あれこれ世話を焼いてくれたのだ。
すると、姉さんが怒った。
『ちょっと! 三馬鹿!』
『何だよ、絵麗奈ちゃん!』
『レイを甘やかさないでよ!』
『いやいや、まだ病み上がりだろ!?』
『だからって何でもやってあげたら、いつまでたっても自分でできるようにならないでしょ!』
……ごもっとも。
ごもっともなのだが。
『ほら、レイ! 自分で取りに行く!』
『……エレ姉、僕、今来たばっかりなんだけど』
『大丈夫!歩けるでしょ!』
……ほんと鬼である。
まあ、今となっては笑い話だけれど。
「……絵麗奈ちゃん、まだ目ぇ覚まさないのか?」
安住さんが、少しだけ声を落とした。
「……はい」
僕は頷いた。
「まだ、眠ったままです」
「……そっか」
短い沈黙が落ちた。
普段は騒がしい三人も、この話になると少し静かになる。
それが何だか、ありがたかった。
「……でも」
僕は、ボトルの蓋を閉めながら言った。
「今日、午後からみんなでお見舞いに行くんです」
「おう」
「だから、三人のことも話してきますよ」
「……俺たちの?」
「はい」
僕は笑った。
「今日も朝から三馬鹿トリオが大騒ぎしてたって」
「おい!」
安住さんが声を上げた。
「何でそうなる!」
「いや、事実ですし」
「俺たちは真面目に稽古してただろ!」
「真面目に騒いでましたよね」
「お前なあ!」
吉田さんが吹き出した。
「はっはっは! そりゃ違いねえ!」
「吉田! 笑ってる場合か!」
「いやいや、安住さん。今のはレイが正しいですよ」
「石倉まで!」
三人のやり取りに、僕も笑った。
それから、ふと思いついた。
「あ、そうだ」
「ん?」
「三人からも、何か伝えておきます?」
そう尋ねると、三人は顔を見合わせた。
「……そうだなあ」
安住さんが、少し考えた。
「じゃあ、早く戻ってこいって伝えてくれ」
「はい」
「また俺たちを三馬鹿呼ばわりしてもいいからよ」
吉田さんが笑った。
「……いや、それはどうなんです?」
「いいんだよ」
石倉さんも頷いた。
「絵麗奈ちゃんがいねえと、何か調子が狂うしな」
「……そうですね」
僕は、小さく笑った。
「伝えておきます」
「おう。頼んだぞ」
三人は、いつものように笑っていた。
けれど、その笑顔は、ほんの少しだけ寂しそうだった。
エレ姉は、本当にいろんな人から好かれてるんだね。
本人に言ったら、間違いなく調子に乗りそうだけれど。
まあ、それもいいか。
目が覚めたら、いくらでも調子に乗ってくれていい。
そして、またいつものように。
あの三人を、思いっきりからかってやってほしい。
*** * ***
「麗市」
「ん?」
「少しいいかい?」
「うん。何?」
父さんは、手に竹刀を持っていた。
「最後に、一本だけ付き合ってくれるかな」
「……父さんと?」
「ああ」
僕は思わず時計を見た。
まだ、午前十時を少し回ったところだった。
「……一本だけ?」
「一本だけ」
「本当に?」
「もちろん」
父さんが、にっこりと笑う。
……怪しい。非常に怪しい。
「……わかった」
僕は竹刀を握り直した。
「お願いします」
「ああ。こちらこそ」
互いに一礼する。
父さんが、静かに構えた。
それだけで。
道場の空気が、ほんの少し変わったような気がした。
……やっぱり。
この人は、何かが違う。
安住さんたちも強い。
それは間違いない。
けれど、父さんと向かい合ったときに感じるものは、それとは少し違っていた。
静かだ。
空気の密度が詰まったような感じ。─────風が無くなるんだ。
どこにも力が入っていないように見える。
なのに、どこから踏み込んでも届かないような気がする。
「……麗市」
「はい」
「遠慮はいらないよ」
「……わかってる」
僕は竹刀を構えた。
息を整える。
父さんの動きを見る。
肩。
腕。
足。
視線。
……動かない。
いや。
動かないのではなく、動く必要がないのだろう。
そんな気がした。
「……っ!」
僕は踏み込んだ。
正面から、面を狙う。
その瞬間。
父さんの姿が、視界の中心から消えた。
「……え?」
次の瞬間には、竹刀の先が僕の小手に触れていた。
ぱしん、と軽い音。
「……一本」
父さんが、穏やかに言った。
「…………」
僕は、自分の手元を見つめた。
……何が起きた?
「……父さん」
「何だい?」
「今、どうやって動いたの?」
「普通に動いただけだよ」
「……絶対、普通じゃない」
「そうかな?」
「そうだよ!」
父さんは楽しそうに笑った。
「まあ、今のは少し意地悪だったかな」
「……少し?」
「ああ。少しだけね」
……この人は。
僕は大きくため息をついた。
「まったく、敵わないなあ……」
「焦ることはないさ」
父さんは竹刀を下ろした。
「麗市は、まだ十五なんだから」
「……うん」
「これから、いくらでも強くなれる」
父さんは、穏やかに微笑んだ。
「ただし、強くなることだけを目的にしてはいけないよ」
「……どういうこと?」
「そうだねえ」
父さんは少し考えた。
「剣というものは、誰かを傷つけるためだけにあるわけではない、ということかな」
「………守るためにも使えるってこと?」
「それは安直すぎる答えだね。我が国の象徴たる剣は、人を斬るためのものではない」
「どういうこと?」
「〈剣〉というものを一つの概念に固定すべきではない、ということだ。大切なのは、何のために剣を振るうのか、ということだよ」
「……何のために」
「その答えを父さんだって掴んじゃいないんだ。掴むために歩みを進める。それが道というものだ」
僕は、小さく繰り返した。
三ヶ月前の事故。
あの日、姉さんは僕を守ろうとした。
自分が大怪我をするかもしれないことなんて、きっと考える暇もなかったのだろう。
ただ、僕を守るために動いた。
……もし。
あのとき、僕がもっと動けていたら。─────強かったなら。
姉さんを守れたのだろうか。
「……麗市」
父さんの声がした。
顔を上げる。
「強くなりたいと思うことは、悪いことじゃない」
「……うん」
「でもな」
父さんは、僕の肩にそっと手を置いた。
「何もかも、自分一人で背負う必要はないんだ」
「…………」
「レイには、家族がいる」
父さんは、静かに微笑んだ。
「それに安住、吉田、石倉もいる。私に代わって道場を守ってくれている。レイの周りには頼っていい大人たちがたくさんいる。それを、忘れないでほしいな」
「……うん」
僕は頷いた。
父さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、いつものように僕の頭を軽く撫でた。
「さて」
そして、すぐに表情を変える。
「そろそろ終わりにしようか」
「……え?」
「何だい?」
「いや、一本だけって、本当だったんだなあって」
「おや。父さんを信用していなかったのかい?」
「……ちょっとだけ」
「それは悲しいなあ」
父さんが、わざとらしく肩を落とした。
「父親としての威厳が、ますます失われていく」
「最初からそんなにあったっけ?」
「……麗市」
「何?」
「それは言わない約束だよ」
僕は吹き出した。
父さんも笑った。
道場の外では、風が木々の葉を揺らしていた。
穏やかな、休日の午前。
僕は竹刀を収め、父さんと並んで母屋へ向かった。
午後には、姉さんに会いに行く。
今日も、たくさん話をしてこよう。
三馬鹿トリオのこと。
紅麗亜と麻里愛の髪を結ったこと。
それから、父さんに一本取られたこと。
……最後の話は、きっと笑われるだろうなあ。
エレ姉なら、間違いなくこう言うはずだ。
『レイ、まだまだだねえ!』
まったく。
目を覚ましたら、絶対に言い返してやろう。
*** * ***
午後一時を少し回った頃。
僕たちは、至善会仙台総合病院へ向かっていた。
母さんの運転する車の後部座席には、僕と紅麗亜、麻里愛の三人。
父さんは仕事をやっつけてから行くといっていた。
休日だというのに、実にご苦労なことである。
もっとも、父さんの場合、休日だからといって研究を休むような人ではない。
気になることがあると、いつまでも調べ続けている。
……そのあたりは、僕も少し似ているのかもしれない。
「ねえ、レイ兄!」
「ん?」
隣に座っていた麻里愛が、僕の袖を引っ張った。
「エレ姉、今日こそ起きるかな?」
「……どうだろうね」
「起きるといいなあ」
「そうだね」
僕は笑って頷いた。
「起きたら、まず何て言おうか?」
「えーっとねえ……」
麻里愛は真剣な顔で考え始めた。
「おはよう!」
「……普通だね」
「えー! だって、寝てるんだよ?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、レイ兄は何て言うの?」
「僕?」
「うん!」
……そうだなあ。
「寝坊助、かな」
「えーっ!」
麻里愛が笑い出した。
「エレ姉、絶対怒るよ!」
「だろうね」
「『レイのくせに生意気!』って言うよ!」
「……ああ、言いそう」
僕も笑ってしまった。
「くれ姉は?」
麻里愛が、今度は紅麗亜に尋ねる。
「……私?」
「うん!」
「そうだねえ……」
紅麗亜は窓の外を見ながら、少し考えた。
「……おかえり、かな」
「おかえり?」
「うん」
紅麗亜は小さく頷いた。
「だって、ずっと待ってるんだもん」
「……そっか」
麻里愛は、少しだけ静かになった。
「じゃあ、私もおかえりって言おうかな」
「おはようは?」
「両方言う!」
「欲張りだなあ」
「いいでしょ!」
「はいはい」
笑いながら答えると、運転席の母さんが口を開いた。
「お母さんはねえ」
「うん?」
「まず、ぎゅーって抱きしめるわ」
「……母さんらしいね」
「あら、そう?」
「うん」
「だって、3ヶ月も抱きしめてあげられていないんだもの」
母さんは、前を向いたまま微笑んだ。
その声は、いつもと変わらず明るかった。
「きっと、あの子ったら文句を言うわよ」
「何て?」
「『お母さん、苦しい!』って」
「……ああ」
それも、容易に想像できる。
「そしたら、もっとぎゅーってしてあげるの」
「……エレ姉も、大変だなあ」
「ふふっ。そうね」
母さんが笑った。
僕たちも笑った。
車内には、いつものような賑やかな空気が流れていた。
……ただ。
誰も、いつ目を覚ますのかという話はしなかった。
そればかりは、誰にもわからないからだ。
*** * ***
至善会仙台総合病院。
仙台市内にある、大きな総合病院だ。
外来診療から高度な専門治療まで幅広く行っているらしく、建物も設備も相当な規模を誇っている。
僕にとっては、少し特別な場所でもある。
何しろ、ここは僕が長い間入院していた病院なのだ。
記憶を失い、一年近く意識を取り戻さなかった僕が、ようやく目を覚ました場所。
リハビリをして、歩けるようになって、学校へ通えるようになるまで、随分と世話になった。
そして今は、姉さんがここにいる。
……何とも、不思議な巡り合わせだと思う。
「レイ兄、早く!」
「はいはい」
駐車場から病院の入り口へ向かう途中、麻里愛が僕の手を引いた。
「そんなに急がなくても、エレ姉は逃げないよ」
「わかってるけど!」
「けど?」
「早く会いたいんだもん!」
「……そっか」
僕は小さく笑った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
自動ドアを抜けると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
消毒液の匂い。
行き交う職員たち。
受付の向こうで聞こえる、穏やかな案内の声。
……懐かしい。
いや、懐かしいというのも少し変か。
つい三ヶ月前から、また頻繁に通うようになった場所なのだから。
「こんにちは、城戸さん」
受付の職員さんが、母さんに声をかけた。
「こんにちは。いつもお世話になっています」
「絵麗奈さんのお見舞い、ですね」
「ええ。今日は子どもたちも一緒に」
「承知しました。担当の方に確認しますね」
母さんが受付を済ませる間、僕たちは少し離れた場所で待っていた。
「……お兄様」
「ん?」
紅麗亜が、僕の袖を軽く引いた。
「……十六夜先生、今日いるかな」
「ああ、どうだろうね」
「この前、お話したいことがあるって言ってたから」
「ふうん」
十六夜先生。
十六夜鋭次先生。
僕と姉さんの主治医を務めている先生だ。
名前だけ聞くと、何だかものすごく強そうな人を想像するかもしれない。
けれど、実物はまったく違う。
ひょろりと背が高く、細身で、白衣が妙に似合う。
いつもにこにこしていて、冗談ばかり言っている。
……いや。
冗談ばかり、というのは少し失礼かもしれない。
腕のいい先生なのは間違いない。
僕自身、随分と世話になったわけだし。
「おや?おや?おやおや?おやおや?」
そんなことを考えていると。
「これはこれは。城戸家の皆さんではありませんか」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
そこには、白衣を着た細身の男性が立っていた。
「……噂をすれば」
「おや、私の噂ですか?」
十六夜先生が、にやりと笑った。
「悪口でなければよろしいのですが」
「残念ながら、先生の悪口です」
「おやおや。それは困りましたねえ」
先生は大げさに肩を落とした。
「この病院での私の評判が、ますます悪くなってしまいます」
「元からそんなに悪いんですか?」
「いやあ、どうでしょう。少なくとも、看護師さん方からは『もう少し真面目にしてください』と頻繁に言われますねえ」
「……それ、自業自得じゃないですか」
「実に手厳しい」
先生は、楽しそうに笑った。
「お久しぶりだね、麗市君」
「こんにちは、先生」
「お元気そうで何より」
「おかげさまで」
「剣道のほうは、どうです?」
「ぼちぼちです」
「ほう。ぼちぼち」
先生は、僕の肩から腕にかけて視線を移した。
「以前より、随分と筋肉がつきましたねえ」
「そうですか?」
「ええ。実に結構」
先生は満足そうに頷いた。
「いやあ、あの頃を思い出しますね」
「……あの頃?」
「リハビリを始めたばかりの頃ですよ」
「ああ……」
「最初は立ち上がるのも大変でしたからねえ」
「……そうでしたね」
思い出しただけで、少し気が重くなる。
あの頃は、本当に大変だった。
「それが今では剣道までできるとは」
先生は、しみじみと言った。
「いやはや。人間の生命力というものは、実に素晴らしい」
「……先生の治療のおかげですよ」
「おや」
先生が目を丸くした。
「珍しく素直なことを言いますね」
「……珍しくって何ですか」
「いやいや、失礼」
先生は笑った。
「でも、麗市君。君が頑張ったからこそですよ」
「……はい」
「それと、ご家族の皆さんもね」
先生は紅麗亜と麻里愛に視線を向けた。
「お二人も、随分と頑張りましたね」
「えへへ!」
麻里愛が嬉しそうに笑った。
「私、いっぱいお見舞いに来たよ!」
「ええ。覚えていますとも」
「レイ兄にいっぱいお話したの!」
「そうでしたねえ」
先生はにこにこと頷いた。
「紅麗亜さんも、よく来てくれましたね」
「……はい」
紅麗亜が小さく頭を下げた。
「……先生」
「はい?」
「……お姉ちゃんのこと、今日もお願いします」
先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。
けれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。
「もちろんです」
先生は、静かに頷いた。
「私たちも、できる限りのことを続けています」
「……はい」
「焦らず、待ってあげましょう」
紅麗亜は、小さく頷いた。
そこへ受付を済ませた母さんが戻ってきた。
「あら、鋭次先生」
「これはこれは、メアリさん」
先生は軽く会釈した。
「今日もお美しいです」
「あら、ありがとう」
「いえいえ。事実を申し上げたまでです」
「ふふっ。相変わらずお上手ねえ」
「……先生」
僕が口を挟む。
「何でしょう?」
「そういうことばっかり言ってるから、看護師さんに怒られるんじゃないですか?」
「……麗市君」
「はい」
「世の中には、言わなくてもいい真実というものがあるのですよ」
「……またそれですか」
母さんが楽しそうに笑った。
……まったく。
この先生も、父さんに負けず劣らずの人である。
病棟へ向かう途中、十六夜先生が僕たちに同行してくれた。
エレベーターを降り、静かな廊下を進む。
この辺りは、外来の待合室とは随分と雰囲気が違う。
人の声も少ない。
聞こえてくるのは、看護師さんたちの足音と、時折響く医療機器の電子音くらいだ。
「……先生」
僕は、隣を歩く十六夜先生に声をかけた。
「はい?」
「エレ姉、どうですか」
先生は、すぐには答えなかった。
少しだけ歩調を緩める。
「……そうですね」
いつもの冗談めいた調子ではなかった。
「意識の回復は、まだ確認できていません」
「……そうですか」
「ただ、全身の状態は管理できています。今のところ、新たな大きな問題は生じていません」
先生は、僕の顔を見た。
「もちろん、楽観できる状況ではありませんが」
「……はい」
「私たちも、慎重に経過を見ています」
僕は頷いた。わかっている。
三ヶ月も、こうして病院へ通っているのだ。
先生たちが懸命に治療してくれていることも。
簡単には答えが出ないことも。それでも、聞かずにはいられなかった。
「……先生」
「はい」
「エレ姉、目を覚ましますよね」
自分でも、少し困った質問だと思った。
医者にそんなことを尋ねても、確実な答えなんて返ってこない。
わかっている。わかっているけれど。
十六夜先生は、僕をじっと見つめた。
「……麗市君」
「はい」
「私は医者ですから、無責任に『絶対に大丈夫』とは言えません」
「……はい」
「ですが」
先生は、穏やかに続けた。
「可能性がある限り、私たちはそのためにできることを続けます」
「…………」
「君も、そうだったでしょう?」
「……僕?」
「ええ」
先生は、小さく微笑んだ。
「君も、長い間眠っていましたからね」
「……ああ」
そうだった。
僕自身、約一年もの間、意識が戻らなかったのだ。
「君が目を覚ましたときは、私も驚きましたよ」
「……先生でも?」
「もちろん」
先生は、少しおどけたように肩をすくめた。
「いやあ、医者を長くやっていると、驚かされることも多いものです」
「……そうなんですね」
「ええ。医者はみんなそう思っていると思いますよ。人間の体をわかってるなんて烏滸がましいんです。ただでさえ神秘なのに………、魔法がこれに加わったらどうでしょうか?魔法が人体に与えている影響なんてわかってないことだらけなんですよ」
先生は大きく息を吐いた。
「だから、今は待ってあげてください」
「……はい」
「ご家族の声が、届いているかどうかはわかりません。でも、話しかけてあげることには意味があると私は思います」
先生は、そう言った。
僕は、もう一度頷いた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ」
先生は、いつもの笑顔に戻った。
「それが私の仕事ですから」
*** * ***
病室の前で、母さんが足を止めた。
「……さて」
小さく息を整える。
「みんな、準備はいい?」
「うん!」
麻里愛が元気よく返事をした。
「……うん」
紅麗亜も頷く。
僕も、二人に続いた。
「大丈夫」
母さんは、にっこりと笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
静かに扉が開かれる。
白い病室。
窓から差し込む、柔らかな午後の日差し。
そして。
ベッドの上に、姉さんがいた。
「……絵麗奈姉さん」
思わず、小さく名前を呼んだ。
城戸絵麗奈。
僕の姉さん。
いつも元気で、やたらと騒がしくて。
何かと僕をからかっては、楽しそうに笑っていた人。
その姉さんが、今は静かに眠っている。
ベッドの傍らには、医療機器が並んでいた。
規則正しい電子音が、静かな室内に響いている。
姉さんの顔色は、以前より随分とよくなったように見えた。
けれど、目は閉じられたままだ。
「エレ姉!」
麻里愛が、ベッドのそばへ駆け寄った。
「来たよー!」
元気な声。
いつもと変わらない、麻里愛の声だ。
「見て見て! 今日ね、レイ兄に髪やってもらったの!」
妹は、姉さんの顔が見えるように少し屈んだ。
「可愛いでしょ?」
返事はない。
それでも、麻里愛は楽しそうに話し続けた。
「くれ姉もやってもらったんだよ!」
「……麻里愛」
紅麗亜が、少し恥ずかしそうに声をかけた。
「いいじゃん! 見せようよ!」
「……もう」
紅麗亜は小さく笑い、ベッドの反対側へ回った。
「……お姉ちゃん」
静かに声をかける。
「……今日も来たよ」
それから、少しだけ顔を近づけた。
「……髪、兄様にやってもらった」
姉さんの反応はない。
紅麗亜は、しばらくその顔を見つめていた。
「……どうかな」
小さな声だった。
「……似合ってる?」
やはり、返事はなかった。
僕は、二人の後ろに立っていた。
何となく、すぐには声をかけられなかった。
……3ヶ月。
姉さんが眠り続けて、もう三ヶ月になる。
最初の頃は、病室に入るのが怖かった。
目を閉じたままの姉さんを見ると、どうしても事故のことを思い出してしまうからだ。
あの日。
あの瞬間。
姉さんは、僕を守ろうとした。
それだけは、はっきりと覚えている。
けれど。
どうして、あんな事故が起きたのか。
なぜ、姉さんがあそこまでの怪我を負うことになったのか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
本当に、ただの事故だったのだろうか。
そんな疑問が、時折頭をよぎる。
けれど、今は。
「……エレ姉」
僕は、ゆっくりとベッドに近づいた。
「僕もいるよ」
返事はない。
「……あのさ」
少しだけ笑ってみせる。
「今日、三馬鹿トリオが朝から大騒ぎしてたんだ」
姉さんは、相変わらず静かに眠っている。
「相変わらずだよ、あの人たち」
僕は椅子を引き、ベッドの傍らに腰掛けた。
「安住さんなんて、朝から僕を相手に張り切っちゃってさ」
ゆっくりと話し始める。
「吉田さんも石倉さんも、全然変わらない」
返事はない。
それでも、僕は話し続けた。
「それでね」
少しだけ身を乗り出す。
「三人から、伝言を預かってるんだ」
僕は笑った。
「早く帰ってこいって」
姉さんの顔を見つめる。
「……また三馬鹿って呼ばれてもいいから、ってさ」
自分で言いながら、少しおかしくなった。
「あの人たち、相当寂しいみたいだよ」
麻里愛が、隣から口を挟んだ。
「私も寂しい!」
「……うん」
紅麗亜も、小さく頷いた。
「……私も」
母さんは、そんな僕たちを静かに見守っていた。
姉さんの手を、そっと握っている。
「……エレ姉」
僕は、母さんが握っていないほうの手に、そっと触れた。
もう一度名前を呼んでみる。
「……覚えてるかな?」
返事はない。
「僕がリハビリしてた頃さ」
あの頃。
歩くことさえ、まともにできなかった僕に。
姉さんは、いつもこう言っていた。
『レイ! あと三歩!』
『ほら、頑張って!』
『もうちょっとだから!』
……本当に、容赦がなかった。
「……あのときは、散々しごかれたよね」
僕は、小さく笑った。
「正直、鬼かと思った」
麻里愛が、くすっと笑った。
紅麗亜も、少しだけ口元を緩めた。
「……でもさ」
僕は、姉さんの手に視線を落とした。
「エレ姉のおかげで、僕、歩けるようになったんだよ」
声が、少しだけ小さくなった。
「学校にも行けるようになったし」
息を吸う。
「剣道だって、できるようになった」
そして。
「……今度は、僕の番かな」
姉さんの顔を見つめた。
「ほら、エレ姉」
少しだけ、声を明るくする。
「あと三歩!」
返事はない。
「……って言っても、今はまだ無理か」
自分で言って、苦笑した。
「じゃあ、まずは目を開けるところからだね」
姉さんの手に、そっと触れた。
「……ゆっくりでいいからさ」
少しだけ、指先に力を込める。
「帰ってきてよ」
白いカーテンが、空調の風にわずかに揺れた。
規則正しい電子音。
窓から差し込む午後の日差し。
姉さんは、静かに眠り続けている。
「……エレ姉」
僕は、小さく笑った。
「早く帰ってこないと、つまんないよ」
かつて、姉さんが僕に言ってくれた言葉。
今度は、僕が姉さんに返した。
……返事は、まだない。
それでも。
いつか、きっと。
あの騒がしい声が、また聞こえてくる。
僕は、そう信じていた。
*** * ***
しばらくして、麻里愛と紅麗亜が母さんに連れられて病室を出た。
麻里愛が喉が渇いたと言い出したので、飲み物を買いに行くことになったらしい。
「レイは?」
母さんが尋ねた。
「……僕、もう少しここにいる」
「そう」
母さんは頷いた。
「じゃあ、あとで迎えに来るわね」
「うん」
病室の扉が閉まる。
静かになった。
僕は、姉さんのベッドのそばに腰掛けたまま、窓の外を眺めた。
街並みが見える。遠くに見える建物。
午後の空は、穏やかに晴れていた。
「……ねえ、エレ姉」
僕は、ぽつりと呟いた。
「僕さ」
少しだけ、言葉を探す。
「……あの事故のこと、時々考えるんだ」
返事はない。
「本当に、ただの事故だったのかなって」
僕は、自分の手元を見つめた。
「……変だよね」
小さく笑う。
「新聞にもニュースにも、事故だって書いてあったのにさ」
それでも。
どうしても、気になることがある。
事故が起きる前。
僕は、インターネットでいろいろなことを調べていた。
魔法師のこと。
昔の事件のこと。
外国の魔法事情。
それから、ある有名な〈魔法師〉に関する報道。
どれも、普通に検索すれば出てくる情報だった。
……少なくとも、最初はそう思っていた。
けれど、調べれば調べるほど、妙なことに気がついた。
情報が途中で途切れていたり。
記事の内容が、別の報道と食い違っていたり。
それまで閲覧できていたページが、突然消えていたり。
もちろん、そんなことはインターネットでは珍しくない。
僕だって、それくらいはわかっている。
だから、ただの偶然なのかもしれない。
でも。
「あの事故も、偶然だったのかな」
僕は、小さく呟いた。
姉さんの顔を見つめる。
「……もしさ」
喉の奥が、少しだけ詰まった。
「もし、僕が余計なことを調べてたせいだったら……」
そこまで言って、口を閉じた。
……何を言っているんだろう。
証拠なんて、何もない。
ただの思い込みかもしれない。
それなのに、姉さんにこんな話をしてどうする。
「……ごめん」
僕は、首を振った。
「変なこと言った」
姉さんは、何も答えない。
それが、少しだけ寂しかった。
以前だったら、きっと。
『レイ! また一人で難しいこと考えてる!』
なんて、笑い飛ばしてくれただろうに。
「……エレ姉」
僕は、姉さんの手をそっと握った。
「早く起きてよ」
声が、ほんの少し震えた。
「……また、叱ってくれていいからさ」
沈黙。
姉さんの指先は、温かかった。
それが、何だか嬉しかった。
生きている。ここにいる。
ただ、眠っているだけなのだ。
……そう思いたかった。
僕は、しばらくその手を握っていた。
ベッドの傍らでは、医療機器が規則正しく電子音を刻んでいる。
その音が、一瞬だけ変わったような気がした。
けれど、すぐに元へ戻った。
……気のせいだろうか。
僕は、もう一度姉さんの顔を見つめた。
*** * ***
「麗市君」
不意に、背後から声がした。
振り返る。
病室の扉が、少しだけ開いていた。
十六夜先生だった。
「………十六夜先生」
「お邪魔してもいいですか?」
「はい」
先生は静かに室内へ入り、ベッドの反対側へ回った。
姉さんの様子を確認し、モニターに視線を向ける。
それから、僕の手元に一瞬だけ視線を落とす。
僕はまだ、姉さんの手を握っていた。
「少し、疲れましたか?」
「……え?」
「顔色が、少し優れないようなので」
「……そうですか?」
「ええ」
先生は、穏やかに微笑んだ。
「無理をしていませんか?」
「……別に」
僕は、曖昧に笑った。
「ただ、ちょっと考え事を」
「ほう」
「……はい」
先生は、しばらく僕を見つめていた。
それから、椅子を引いて腰を下ろした。
「……麗市君」
「はい」
「君は、昔から考えすぎるところがありますね」
「……昔から?」
「ええ」
先生は、少しだけ笑った。
「リハビリをしていた頃も、そうでした」
「……そうでしたっけ」
「覚えていませんか?」
「……あんまり」
「ふふっ。まあ、そうでしょうね」
先生は、静かに続けた。
「一つできるようになると、次はもっと上手くやろうとする。できなければ、どうしてできないのか考える」
「……ああ」
何となく、心当たりがあった。
「悪いことではありませんよ」
先生は言った。
「むしろ、素晴らしいことです」
「……そうですか?」
「ええ。ただし」
先生は、人差し指を一本立てた。
「考えすぎて、自分を追い詰めてはいけません」
「…………」
「君は、まだ15歳なんですから」
僕は、思わず苦笑した。
「……今日、父さんにも似たようなこと言われました」
「おや」
先生が目を丸くした。
「浩市さんに?」
「はい」
「それは、それは」
先生は、楽しそうに笑った。
「珍しく意見が一致しましたねえ」
「……珍しく?」
「ええ。あの人とは、意見が合うこともあれば、まったく合わないこともありますから」
「……そうなんですか」
「ふふっ。浩市さんとはながーい付き合いですのでね」
先生は、姉さんの顔を見た。
そして、静かに言った。
「……絵麗奈さんも、君がそんな顔をしていたら、心配するでしょう」
「……そうですね」
「だから、今日はもう少し笑ってあげてください」
「……はい」
僕は、姉さんを見つめた。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「……エレ姉」
いつものように、声をかける。
「先生にまで心配されちゃったじゃんか」
返事はない。
「まったく、僕はまだまだ、だ」
十六夜先生が、くすっと笑った。
「……そうですね」
「……先生?」
「いえいえ」
先生は、首を振った。
「君は、随分と立派になりましたよ」
「……ありがとうございます」
「でも、もう少し甘えてもいいと思いますけどね」
「……誰にですか?」
「ご家族に、ですよ」
先生は微笑んだ。
「君には、素敵なご家族がいるのですから」
「……はい」
僕は頷いた。
確かに、そうだ。
父さんがいて。
母さんがいて。
紅麗亜と麻里愛がいて。
そして、絵麗奈姉さんがいる。
今は、少しだけ離れた場所にいるけれど。
それでも、僕たちは家族だ。
六人家族。
「……エレ姉」
僕は、もう一度姉さんの手を握った。
「帰ってきたらさ」
少しだけ笑う。
「また、みんなでご飯食べようね」
窓から差し込む午後の日差しが、姉さんの頬を柔らかく照らしていた。
返事は、まだない。
それでも。
僕は、いつかまた六人で食卓を囲める日が来ることを、信じていた。
*** * ***
十六夜鋭次は、手元の端末に表示された記録を見つめていた。
絵麗奈の魔力量は、ある時間帯を境に著しく増加していた。
その時間、彼女の手を握っていたのは麗市だった。
偶然、と片づけるには、あまりにも興味深い。
以前から気になっていた紅麗亜の魔法適性の変化。
そして、今日の絵麗奈。
鋭次は、端末を閉じた。
「……まったく」
小さく呟いて、苦笑する。
「君という子は、本当に……」
その先の言葉は、口にしなかった。
「鋭次くん………」
子どもたちが病室を離れた後、メアリは静かに声をかけた。
「はい」
「絵麗奈のこと、聞いていいかしら?」
十六夜鋭次は、いつもの柔和な表情のまま頷いた。
「もちろんです」
病室の扉が静かに閉まる。
室内には、メアリと十六夜。そして絵麗奈がいる。
「容体はどうなのかしら?」
メアリが尋ねる。
「大きな変化はありません」
十六夜は、手元の端末に視線を落とす。
「全身の状態は安定しています。ただし、意識の回復については、まだ何とも申し上げられません」
「……そうなのね」
ドアをノックする音。どうやら遅れて到着した浩市が病室に入ってくる。
「先輩─────」
鋭次が声をかける。
浩市は小さく頷き、そのままベッドで眠る娘の元に近寄って顔を覗きこむ。
「寝坊助だな、絵麗奈は」
浩市が戯けていった。
「……3ヶ月、もね」
メアリは眠る娘を見つめた。
ぽつりと呟く。
「もう3ヶ月も経つのね」
「ええ」
十六夜は静かに答えた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……十六夜」
やがて、浩市が声を上げた。
「麗市のことなんだが………」
十六夜の視線が、浩市へ向いた。
「……何でしょう」
「最近、また調べ物を始めているようなんだ」
「そうですか」
十六夜は、少しだけ目を細めた。
「相変わらず、好奇心の強い少年ですね」
「ええ。困ったことに」
浩市は苦笑した。
「誰に似たのやら」
「あら、あなたでしょう?」
メアリが、すかさず口を挟んだ。
「いやいや、僕はあそこまで無鉄砲ではないよ」
「そうかしら?」
「……メアリ」
「ふふっ」
ほんの少し、いつもの夫婦の空気が戻る。
十六夜も小さく笑った。
けれど、浩市の表情はすぐに静かなものへ変わった。
「……また、同じことが起きるかもしれない」
「……ええ」
メアリが頷いた。
「わかっているわ」
そして、眠る娘の手をそっと握った。
「でも、あの子から取り上げるつもりはないわ」
「……メアリさん」
「麗市には、自分の人生を生きてほしい」
メアリは静かに言った。
「魔法師になるかどうかも、どんな道を選ぶのかも」
それから、夫を見た。
「私たちが決めることじゃないもの」
浩市は、ゆっくりと頷いた。
「ああ。そうだね」
十六夜は、二人を見つめていた。
その表情からは、いつもの冗談めいた雰囲気が消えていた。
「……お二人とも」
静かな声。
「くれぐれも、ご無理はなさらないでください」
浩市が小さく笑った。
「鋭次くんに心配されるとはね」
「医師として当然のことです」
「……そうだったな。君は医者だった」
浩市は、眠る絵麗奈へ視線を向けた。
「今度こそ、守らなければなりませんから」
メアリも、娘の手を握ったまま頷いた。
「そろそろ………次の手を考えておかないといけません」
「何ができる?」
「絵麗奈ちゃんは………徹底的に調べてもらう方が良さそうです」
「どういうことだ?」
「〈聖地〉崑崙に移送できれば、と思っています。同盟本部も前向きに考えてくれています。話を進めてよろしいでしょうか?─────もちろん私も同行するつもりです」
十六夜にはわかる。
これはメアリが嫌がることである、と。
「魔法から離れて暮らすっていうのはとっても難しいわね」
メアリが宙を見つめながらひとりごちた。
十六夜は意を決して、手元の端末を二人に見せた。
「実は、絵麗奈ちゃんに少し興味深い変化が確認されたんです」
十六夜は端末を操作した。
「魔法医学的には、快方に向かっていると考えられる数値が出ています。ただ、説明のつかない点も多い」
「……それは、どういうこと?」
「まずは、こちらを見てください」
画面には、絵麗奈の魔力量の推移が表示されていた。
その数値は、ある時刻を境に急激な上昇を示している。
「……この時間は?」
浩市が尋ねる。
「麗市君が、絵麗奈ちゃんの手を握っていた時間です」
十六夜は、静かに答えた。
窓の外では、午後の日差しが少しずつ傾き始めていた。




