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DOUBLE SEVEN WIZARD  作者: 石楠花紫苑


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3/3

2. あの日、僕を守ってくれたのは。-The One Who Protected Me That Day.-

*** * ***


みんなで病院に行ったあと。

夕食は麻里愛の一言で決まった。


「お寿司が食べたい!」


病院を出て、駐車場へ向かっていたときのことだった。

それまで母の手を握って歩いていた麻里愛が、突然そんなことを言い出したのだ。


「お寿司?」

「うん!くるくる回ってるヤツ!」

メアリが思わず笑う。

「麻里愛、今日はずいぶん元気ね」

「だって、お姉ちゃんに会えたもん!」

そう言って、麻里愛は嬉しそうに笑った。

その無邪気な笑顔に、浩市も頬を緩める。


「そうだな。せっかくだし、今日は外で食べて帰るか」

「ほんと!?」

「ああ。ただし、食べすぎるなよ」

「はーい!」

元気いっぱいの返事に、紅麗亜が小さく吹き出した。

「絶対、食べすぎるやつだ」

「そんなことないもん!」

「この前もそう言ってなかった?」

「言ってない!」

「言ってたよ」

「言ってないもん!」

始まった姉妹の言い合いに、麗市も思わず笑みを零す。


病院に来ると、どうしても気持ちが沈んでしまう。

姉の顔を見るのは嬉しい。

けれど、何度呼びかけても返事がないことを、そのたびに思い知らされる。

だから、こうして麻里愛がいつもどおりに騒いでくれることが、今は少し有り難かった。


「麗市?」

「あ……うん。なに?」

「お前も寿司でいいか?」

父に尋ねられ、麗市は頷いた。

「うん。僕もお寿司、好きだし」

「よし。じゃあ決まりだ」

浩市はそう言って、車の運転席へ乗り込んだ。


*** * ***


「お父さん! 次、サーモン取って!」

「はいはい。自分で取れるだろう?」

「だって、そっち側なんだもん!」

「ほら、麻里愛。これでしょ?」

紅麗亜が流れてきた皿を取ると、麻里愛は嬉しそうに両手を伸ばした。

「ありがと!」

「どういたしまして」


回転寿司店は、家族連れで賑わっていた。

注文を知らせる電子音。

皿が運ばれてくる音。

あちらこちらから聞こえる笑い声。

そんな賑やかな店内で、城戸家の面々は久しぶりの外食を楽しんでいた。


「麗市、あんまり食べてないんじゃない?」

向かいに座るメアリが声をかけた。

「え? そんなことないよ」

「そう? さっきから同じお皿が置いてあるみたいだけど」

「……ああ」

麗市は手元に目を落とした。


確かに、先ほど注文した握り寿司がまだ一貫残っている。

「ちょっと考え事してた」

「絵麗奈のこと?」

「…………うん」

麗市が頷くと、メアリはそれ以上問い詰めることなく微笑んだ。

「そう。……でも、ちゃんと食べなさいね」

「うん」

「麗市が元気でいてくれないと、絵麗奈も心配するわ」


麗市はもう一度頷いて、箸を取った。

目の前の皿を見つめていると、ふと、姉のことを思い出した。

絵麗奈は、寿司が好きだった。

特に、少し値の張る皿を見つけるのが妙に上手かった。


『お父さん、これ食べてもいい?』

『……値段を見てから聞いてくれ』

『見たよ?』

『見たうえで聞くな』


そんなやり取りを、何度聞いたことだろう。

絵麗奈は決まって悪戯っぽく笑い、結局、浩市は苦笑しながら頷くのだ。

今も、すぐ隣からその声が聞こえてきそうな気がする。


「……姉さん、これ好きだったな」

ぽつりと呟いた言葉に、紅麗亜が顔を上げた。

「うん。好きだったね」

「……今度、起きたら一緒に来たいね」

言ってから、麗市は少しだけ視線を落とした。

けれど、紅麗亜はごく自然に答えた。

「うん。来ようよ」

「…………」

「そのときは、お父さんのお財布が大変だろうけど」

「おい、聞こえてるぞ」


浩市がすかさず口を挟む。

「絵麗奈が来たら、また遠慮なく高い皿を取るんだろうな」

「お父さん、絵麗奈姉さんに甘いもんね」

「お前たちにも十分甘いと思うが?」

「えー、そうかなあ?」

「そうだぞ。特に麻里愛なんか――」


「お父さん! デザート!」

「……ほらな」

絶妙なタイミングで割り込んできた末娘に、一同が笑った。


麗市も笑った。

笑いながら、ふと思った。

─────次にここへ来るときは。


そのときは、姉さんも一緒だったらいいな。

ただ、それだけを願った。


*** * ***


家に帰り着いた頃には、麻里愛はすっかり眠たそうにしていた。

「……ねむい」

「ほら、麻里愛。お風呂に入ってから寝ましょうね」

「んー……」


メアリに促され、麻里愛はふらふらと洗面所へ向かっていく。

その後ろ姿を見送って、紅麗亜が呆れたように笑った。

「さっきまであんなに元気だったのに」

「いっぱい食べたからじゃない?」

「麗市だって、最後にデザート食べてたじゃん」

「……紅麗亜も食べてたよね」

「私は平気。ベツバラだから」

「それ、理由になってないと思う」

「細かいなあ」


紅麗亜はそう言って笑うと、自分の荷物を持って階段へ向かった。

「先に部屋に戻ってるね」

「うん」


麗市も自室へ向かう。

今日も、姉は目を覚まさなかった。

それは、いつもと変わらないことだった。

呼びかけても、返事はない。

手を握っても、握り返してくれることはない。

病室で見た姉の寝顔を思い浮かべながら、麗市は静かに階段を上がった。


*** * ***


すっかりと夜も更けた。

時計の針がてっぺんを回った頃。


城戸家のリビングには浩市とメアリのふたりが残っていた。

テーブルの上には、湯気の立つマグカップがふたつ。


新婚旅行というか、メアリの故郷に行ったときに買ってきたお揃いのカップ。

このカップを使い始めたときには、まだ絵麗奈も生まれていなかった。

そんなことを思いながら、浩市はマグカップを手に取る。


ソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。


「今日は、いろいろあったな」

「そうね」


メアリは夫の隣に腰を下ろす。

「麻里愛は、ずいぶん楽しそうだったけど」

「あいつはな。……まあ、おかげで俺たちは救われる」

「ええ」


二人は小さく笑った。


だが、その笑みは長く続かなかった。

しばらくの沈黙の後、メアリが口を開いた。


「……あなた」

「ん?」

「鋭次くんの話、どう思った?」


浩市はカップを持ち上げかけた手を止めた。


「……絵麗奈のことかな?」

「ええ」

メアリは膝の上で両手を重ねた。 


「─────魔力の総量は、成長期を過ぎれば基本的に変わらない。それが定説だからな」

「ええ、そうね」

「増えるなんて聞いたことがない」


浩市はしばらく考え込んだ。

十六夜鋭次が見せてくれたモニタリングの画面にはしっかりと魔力が増大していることを示す数字が映し出されていた。


傍にあったタブレットを手に取る。


絵麗奈が中学2年生の時に行った〈魔法適性検査〉の結果があったことを思い出したからだ。

魔力というものは成長によって増えていくことはわかっている。

20歳前後でその成長は止まり、魔力の総量が変わることはない、というのが定説だ。


今日見た数字と比較しておきたかった。


絵麗奈の魔法属性は「火」。

そして魔力の総量は10,457となっていた。

〈魔法師〉として適正があると見做される基準値8,000を上回っている。

もちろん体の成長と同じで、成長に伴い魔力の総量は増える。

〈魔法師〉が評価されるときの大事に指標の一つである。


絵麗奈は現在18歳だ。数年間、成長の余地が残されている。

順調に魔力の総量が増えたとしたときの理論値は「25,487」となる。

これは〈魔法師〉が求められる魔力の総量としては一般的と言える。

モニタリングで表示されていた魔力総量は「37,892」となっていた。


理論値以上になることはまずない。

どんなに高く見積もっても魔力の総量が22,000を超えることはないはずなのに。

魔力というものは扱いが難しいからだ。

3ヶ月間意識が戻らない状態ならば、なおさらだ。

失うことはあっても増えるなんてことはありえない。


「………あなた」

考え込む浩市の肩に手を置いて、タブレットを覗き込む。


「確かにな………なにかあるのかもと考えてしまう」

「そうね」

「十六夜は現段階では断定できないと言っていた。魔力総量の増加と麗市の接触に、直接的な因果関係があるかどうかは、まだわからない」

「……そうよね」

「ただ、偶然として片づけるには、少し気になる」

「麗市が絵麗奈の手を握った直後に、さらに変化が見られた、とも言っていた」


メアリが顔を上げた。

「あなたも、そう思う?」

「ああ」


浩市は静かに口を開く。

「………絵麗奈の魔力は、これまで長い間ほとんど変化がなかった。だけどね、ある時を境に魔力が増え始めていることに僕は気づいていたけど………メアリは?」

「気づかないわけがないでしょ」


言葉にしてなくてもわかる。

ある時とは、麗市が退院をして家に帰ってきた時からだ。


「少なくとも、何かが起きていることは確かだ」

浩市はそこで言葉を切り、カップの中に視線を落とした。

「………それが………、良い兆候なのかどうかは、まだわからないがな」

メアリは小さく頷いた。


期待していないわけではない。

むしろ、期待したい。待ち続けてきたのだ。

娘が再び目を開け、家族の名前を呼んでくれる日を。

けれど、その期待が裏切られることの苦しさも、二人はよく知っていた。


「……でもね、あなた」

「ん?」

「今日の絵麗奈、少しだけ違って見えたの」

「違って?」

「ええ」


メアリは、病室で見た娘の顔を思い浮かべた。

「麗市が手を握っていたとき……なんだか、とても穏やかな顔をしていた気がするの」

「……そうか」

「もちろん、私の気のせいかもしれないわ」

そう言って、メアリは少し寂しそうに微笑んだ。

「でも、あの子にはわかっているのかもしれないわね」

「何がだ?」

「麗市が、そばにいるってこと」

「…………」


浩市は答えなかった。

ただ、妻の言葉をゆっくりと噛みしめるように、目を閉じた。

「……麗市には、まだ話さない方がいいわよね」

メアリが尋ねた。

「ああ」

浩市は迷わず答えた。

「十六夜も、まだ何が起きているのか確信を持てていない。今の段階であいつに話しても、余計な負担をかけるだけだ」

「……そうね」

「もし、自分が手を握れば絵麗奈が良くなるかもしれないと知ったら、麗市はどうすると思う?」


メアリは答えなかった。

答えなくても、わかっていた。

麗市はきっと、何度でも姉のもとへ通おうとするだろう。

それこそ、自分のことなど後回しにして。


「……あの子、優しいものね」

「ああ。優しすぎるくらいだ」

「でも、その優しさで、自分を追い詰めてしまうことがあるでしょう?」


浩市はゆっくりと息を吐いた。

思い当たることが、いくつもあった。

事故以来、麗市は変わった。

以前から物静かなところはあったが、あの日を境に、以前にも増して慎重になった。

自分の気持ちを口にすることが減り、何かを頼むときも、決まって相手の都合を先に考える。

そして、何より――。


「……まだ、自分を責めているんだろうな」

浩市の言葉に、メアリは目を伏せた。

「ええ……」


絵麗奈が事故に遭った日。

麗市もまた、あの場所にいた。

あの日のことを、家族の誰も忘れていない。

そして、麗市自身も。

「……あの子は、何も悪くないのに」

メアリの声が、わずかに震えた。

「わかっているはずなのよ。頭では、ちゃんと」

「ああ」

「でも、きっと……納得できないのね」

浩市は妻の肩にそっと手を置いた。

「……そう簡単に割り切れるものじゃないさ」

「…………」

「俺たちだって、同じだろう?」


メアリは夫を見た。

「もし、あの日こうしていれば。あのとき、別の選択をしていれば」

浩市は静かに続けた。

「そんなことを、何度考えたかわからない」

「……そうね」

「だからこそ、あの子には焦らずにいてほしいんだ」


メアリは夫の肩にそっと寄りかかった。

しばらく、二人は何も言わなかった。

家の中は静まり返っている。

子供たちの寝室からも、物音ひとつ聞こえてこない。


長い沈黙のあと、メアリが静かにカップを置いた。

「……あなた」

「ん?」

「私たち、間違ってなかったわよね」


浩市は、すぐには答えなかった。

メアリは浩市の目を見つめる。

浩市もまた、メアリの目を見つめ返す。


「……あの子を、家族に迎えたことかい?」 

「ええ」


短い沈黙。

やがて浩市が、穏やかな声で答えた。

「間違っていない。私たちは最善の選択をした。そう思っている」

「……そうね」

「今までも、これからも」

 

浩市は静かに微笑んだ。

「麗市は、僕たちの息子だ」

メアリも微笑んだ。

「ええ。もちろんよ」

「あなたがいてくれたから………」

「それはこっちもおんなじ」

「あなたを巻き込んでしまったって、反省したもの」

「いいや。おかげで僕らは救われたじゃないか」


やがてメアリが、小さな声で呟いた。

「魔法なんてなくなってしまえば、いいのに」

「ん?」

浩市はメアリを見つめる。

「だいぶ、お疲れのようだね」


メアリはもと〈魔法師〉。第5階梯だった魔法師。もとアルヴァーン人。

魔法師名はアメリ・メイベル・クロウリー。

アルヴァーン王国の名門魔法師族クロウリー家の娘。


「僕らは………その魔法に救われることがある」


メアリは何かを振り払うかのように頭を振った。


「また、みんなでお寿司を食べに行きたいわね」


「今度は、絵麗奈も一緒に」

そして、小さく微笑んだ。

「ああ」

少し間を置いて、付け加える。

「……そのときは、財布の中身を多めにしておかないといけないな」

「ふふっ。そうね」


メアリが笑った。

浩市も笑った。

今はまだ、叶うかどうかもわからない願い。


けれど、二人はその日が来ることを、信じたかった。


*** * ***


麗市は、まだ眠れずにいた。

部屋の明かりを消してから、もうずいぶん時間が経っている。

ベッドに横になり、天井を見つめる。


頭の中に浮かんでくるのは、今日の病室での出来事だった。


姉の寝顔。

窓から差し込む柔らかな日差し。

そして、握った手の温もり。


「…………」


麗市は布団の中から右手を出した。

暗闇の中で、掌をじっと見つめる。

今日、姉の手を握った。

それだけのことだった。

いつものように話しかけて、いつものように手を握って。

そして、いつものように返事はなかった。


それでも。

「……エレ姉」

麗市は小さく呟いた。


今日、病室で話したことを思い返す。


学校であったこと。

麻里愛がまた何かやらかしたこと。

紅麗亜にからかわれたこと。

そんな、取り留めのない話ばかりだった。

エレ姉が聞いているかどうかもわからない。

それでも、話しかけている間だけは、昔のように一緒に過ごしている気がした。


事故に遭う前は、エレ姉の方がよく喋っていた。

麗市が何かを話そうとしても、次から次へと言葉が飛んでくる。

そして、最後には決まってこう言うのだ。


『ほら、麗市。ちゃんと聞いてる?』

「……聞いてたよ」


麗市は暗闇の中で、少しだけ笑った。


今なら、いくらでも聞いていられるのに。

どんなくだらない話でもいい。

もう一度、エレ姉の声が聞きたい。


「…………」


ふと、ひとつの考えが浮かんだ。

もし、毎日会いに行ったら。

毎日話しかけていたら。

もしかしたら、エレ姉に声が届くんじゃないだろうか。

そんなことに、医学的な根拠があるのかどうかは知らない。

ただ、眠っている人に話しかけることは、決して無意味ではないと聞いたことがある。

何より、自分がエレ姉のそばにいたかった。

たとえ返事がなくても。

たとえ、今日と同じ一日が繰り返されるだけでも。

毎日会いに行けば、何かが変わるかもしれない。

「……毎日、行けたらいいな」


麗市はぽつりと呟いた。


明日も。

明後日も。

できることなら、その次の日も。

少しでもエレ姉のそばにいる時間を増やしたかった。


けれど、その直後。


麗市の頭に、ひとつの問題が浮かんだ。

病院までは、決して近くない。

車で連れて行ってもらうか、〈キャビネット〉を使わなければならない。

そして、自分は――。


「…………」


麗市は握っていた手を、ゆっくりと開いた。

狭い空間。

閉じられる扉。

外の様子がわからなくなる、あの感覚。

思い浮かべただけで、胸の奥が冷たくなる。

事故以来、麗市は一人で〈キャビネット〉に乗ることができなくなっていた。


誰かが隣にいてくれれば、何とかなる。

それでも、扉が閉まる瞬間には、身体が強張ってしまうことがあった。

ましてや、一人で乗るなんて。

「……どうしよう」


小さな呟きが、暗い部屋に溶けた。

父も母も忙しい。

毎日、病院まで車で送ってもらうわけにはいかない。

かといって、誰かに〈キャビネット〉へ付き添ってほしいと頼むのも、気が引けた。

自分の都合で、誰かの時間を使わせてしまう。

そう考えると、どうしても遠慮してしまうのだ。


「…………」


麗市は寝返りを打ち、窓の方へ顔を向けた。

カーテンの隙間から、街灯の明かりが細く差し込んでいる。

しばらく、その光を眺めていた。

─────それでも。

エレ姉に、会いたい。


ただ会うだけじゃない。

少しでも、良くなってほしい。

もし、自分にできることがあるのなら。

できる限りのことを、してあげたい。


「……明日、お父さんとお母さんに相談してみよう」


麗市は小さく頷いた。

ひとりでは、できないことかもしれない。

誰かに頼らなければ、叶わないことかもしれない。

それでも、何もしないままでいるよりはいい。


麗市は右手を胸元に引き寄せた。

「……おやすみ、エレ姉」

届くはずのない声で、そう呟く。

「また、会いに行くからね」

窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。

その夜、麗市はいつもより少しだけ遅く眠りについた。

明日、両親に何と言おうか。

そんなことを考えながら。


*** * ***


翌朝。

城戸家のダイニングには、焼きたてのパンの香りが漂っていた。


「麻里愛、ジャムつけすぎ」

「えー、これくらい普通だよ?」

「普通じゃないって。パンよりジャムの方が厚いじゃん」

「そんなことないもん!」

紅麗亜に指摘され、麻里愛は不満そうに頬を膨らませた。


そんな二人のやり取りを聞きながら、麗市は黙々と朝食を口に運んでいた。

いつもどおりの朝だった。

父さんはタブレット端末でニュースを確認し、母さんはキッチンとダイニングを行き来している。

紅麗亜は麻里愛の世話を焼きながら、自分の朝食もきちんと平らげていた。


何でもない、いつもの光景。

けれど、麗市の頭の中は、昨夜からずっと同じことでいっぱいだった。

─────どう切り出そう。


別に、難しいお願いをするつもりではない。

姉のお見舞いに行きたい。

ただ、それだけだ。


けれど、毎日となると話は違ってくる。

自分ひとりでは病院に行けないのだから。


「……麗市?」

「……え?」

顔を上げると、向かいに座るメアリがこちらを見ていた。

「どうしたの? さっきからパンを持ったまま、ずっと考え事してるみたいだけど」

「あ……ううん。何でもない」

「そう?」


メアリは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。

麗市は手元のパンを見つめる。


いま、言おうかな。


そう思ったところで、浩市がタブレット端末を置いた。


「さて。今日はどうするかな」

「あなた、午前中はお仕事じゃなかった?」

「ああ。昼過ぎには戻れると思うが」

「じゃあ、お昼は家で食べる?」

「そうだな。そのつもりだ」


両親の会話を聞いて、麗市はまた言葉を飲み込んだ。

父も母も、今日はいろいろと予定があるらしい。

やっぱり、後にした方がいいだろうか。

そう考えかけたときだった。


「……父さん」

「ん?」


気がつけば、声が出ていた。

浩市が顔を上げる。


「どうした、麗市」

「……あのね」

麗市は膝の上で両手を握った。


「ちょっと、お願いがあるんだけど」

「お願い?」

「うん」


父だけでなく、母もこちらを見る。

紅麗亜も、麻里愛のパンに伸ばしかけていた手を止めた。

家族の視線が集まったことで、麗市は少しだけ居心地が悪くなった。


「……えっと」

「どうした? 言ってみろ」


浩市の声は、いつもどおり穏やかだった。

麗市は小さく息を吸った。


「……僕、エレ姉のお見舞いに行きたいんだ」

「絵麗奈の?」

「うん」

「それなら、またみんなで行けばいいじゃない」


メアリが微笑んだ。

麗市は頷きかけてから、首を横に振った。


「……そうじゃなくて」

「ん?」

「できれば……毎日、行きたいんだ」


その言葉に、浩市とメアリは顔を見合わせた。


「毎日?」

「……うん」


麗市は俯きがちに続けた。

「昨日、エレ姉に会って……やっぱり、もっと一緒にいたいなって思ったんだ」


「…………」


「毎日話しかけてたら、もしかしたら、エレ姉にも聞こえるんじゃないかなって」


麗市はそこで少し言葉を探した。

考えてみれば、ずいぶん頼りない理由だ。

毎日会いに行けば、姉が目を覚ます。

そんな保証はどこにもない。

むしろ、今まで何度もお見舞いに行って、それでも姉は目を覚まさなかった。

だから、ただの気休めなのかもしれない。


「……もちろん、毎日行ったからって、姉さんが良くなるとは限らないんだけど」

麗市は続けた。

「でも……」

膝の上の指先に、少し力が入る。

「何もしないよりは、いいかなって」


浩市は黙って息子を見つめた。

メアリも、何も言わなかった。

「学校がある日は、終わってからになるけど……。あんまり長い時間じゃなくてもいいんだ」

「…………」

「少しだけでも、姉さんのそばにいられたら……」

言葉が小さくなっていく。

「……だめ、かな」


麗市は顔を上げた。

浩市はすぐには答えなかった。

その沈黙に、麗市は慌てて言葉を付け加える。


「あ、でも、お父さんもお母さんも忙しいのはわかってるから!毎日送ってほしいとか、そういうことじゃなくて……」

「麗市」

「……あ」

父に名前を呼ばれ、麗市は口を閉じた。

「誰も、だめだなんて言ってないだろう?」

「……うん」

「姉さんに会いに行きたいんだな?」

「……うん」

「だったら、行けばいい」


あまりにもあっさりとした返事だった。

麗市は思わず目を瞬かせた。


「……いいの?」

「もちろんだ」

浩市は微笑んだ。

「絵麗奈だって、麗市が来てくれたら嬉しいだろうさ」

「……そっか」

麗市の表情が、少し明るくなった。


けれど、メアリが穏やかに口を開いた。

「ただね、麗市」

「……うん?」

「毎日となると、どうやって病院に行くか考えないといけないわね」

「…………」


麗市の表情が曇った。

わかっていた。

問題は、そこなのだ。

病院へ行く方法なら、いくつかある。

父か母に車で連れて行ってもらう。

あるいは、〈キャビネット〉を利用する。

けれど、車での送迎を毎日頼むことは難しい。


そして─────。

「キャビネット、だよね」


麗市が呟くと、浩市は静かに頷いた。

「ああ。あれを使えば、病院まで行くのにそれほど時間はかからない」

「…………」

「ただ……」


浩市はそこで言葉を切った。

麗市の顔を見れば、続きを口にする必要はなかった。


〈キャビネット〉。

それは、もはや一般的な移動手段として広く利用されている公共交通機関のひとつだ。

小型の車両で、目的地を指定することで、離れた場所へ移動できる。

便利で、安全性も高い。

少なくとも、普通に利用する分には。


しかし、麗市にとっては違った。

事故以来、あの狭い空間に一人で入ることができない。

扉が閉まる。周囲が遮断される。

逃げ場のない空間に取り残される。

そう考えただけで、息が詰まりそうになるのだ。


誰かが一緒なら、何とか耐えられる。

けれど、一人では。

「……僕」

麗市は俯いた。

「やっぱり、一人じゃ……」

その先が続かなかった。


父も母も、その理由を知っている。

だからこそ、無理に言わせようとはしなかった。


「麗市」

メアリが優しく声をかける。

「お父さんかお母さんが送れる日は、車で行きましょう。それ以外の日も、何か方法を考えればいいわ」

「……でも」

「毎日必ず行かなきゃいけない、なんて思わなくてもいいのよ?」

「…………」

「姉さんは逃げたりしないんだから」


麗市は小さく頷いた。

その通りだ。

無理をしてまで毎日行く必要はない。

けれど。

できることなら、毎日会いたかった。


今日も。

明日も。

明後日も。


たとえ少しの時間でも。

そんな麗市の様子を見ながら、浩市が口を開きかけた。

そのときだった。


「…………」


すっ、と。

手が上がった。

あまりにも自然な動作だったので、最初は誰も気づかなかった。

最初に視線を向けたのは、麻里愛だった。

「……紅麗亜お姉ちゃん?」

「ん?」


紅麗亜は、右手を挙げたまま首を傾げた。

「どうした?」

浩市が尋ねる。

「あたし、行けますから」

「……え?」

麗市が顔を上げた。


紅麗亜は、何でもないことのように言った。

「私が兄様と一緒に行く」


「…………」

「学校が終わってからなら、だいたい時間あるし」


そう言って、紅麗亜はようやく手を下ろした。

その態度は、あまりにも普段どおりだった。

何か特別なことを申し出たという様子もない。

ただ、誰かが困っていたから手を挙げた。

そんなふうに見えた。


「……紅麗亜」

麗市は妹を見つめた。

「でも、毎日だよ?」

「うん」

「……大変じゃない?」

「別に?」

紅麗亜は平然と答えた。

「どうせ帰ってからヒマですし、」

「……でも」

「それに、私も絵麗奈姉さんに会いたいし、」

「…………」

「一緒に行けばいいじゃないですか」


麗市は言葉に詰まった。

紅麗亜は、〈キャビネット〉のことには一言も触れなかった。

麗市が一人で乗れないことは、もちろん知っている。

けれど、だから付き添ってあげる、とは言わなかった。

ただ、一緒に行く。

それだけだった。


「……本当に、いいの?」

「いいって言ってます」

「……毎日でも?」

「毎日でも」

「…………」

「兄様は私と一緒じゃ嫌なんですか?」

「ち、違うよ!」

麗市が慌てて否定すると、紅麗亜はニヤリと笑う。


「じゃあ決まりですね」

「……うん」

「ただし!」


紅麗亜が人差し指を立てた。

「帰りに寄り道したい時があります。そのときにはお付き合いくださいね」

「……寄り道?」

「そう。甘いものとか」

「……それ、お見舞いと関係ないよね?」

「あります。付き添いの報酬とさせていただきます」

「……報酬なんだ」

「当然では?」


あまりにも堂々とした物言いに、麗市は思わず笑ってしまった。

紅麗亜も笑う。


その様子を見て、浩市とメアリも自然と表情を緩めた。

「……紅麗亜」

メアリが声をかける。

「なあに?」

「ありがとう。でも、無理はしないでね」

「うん。大丈夫」

「予定がある日は、ちゃんと言うのよ?」

「わかってるって」


紅麗亜は軽く手を振った。

浩市も頷く。

「そうだな。紅麗亜が行けない日は、俺か母さんができるだけ都合をつけよう」

「……うん」

「それでも難しい日は、無理せず休めばいい」

麗市は父の言葉に頷いた。

「……ありがとう、父さん」

「何を言ってる」


浩市は笑った。

「家族なんだから、遠慮するな」

その言葉に、麗市は少しだけ俯いた。

家族だから。

そう言ってもらえることが、嬉しかった。

けれど、それと同じくらい、少し申し訳なくもあった。

自分が一人で〈キャビネット〉に乗れさえすれば、こんなふうに誰かの手を借りる必要はないのに。

そう考えかけて、麗市は首を横に振った。

今は、そんなことを考えても仕方がない。


まずは、姉さんに会いに行こう。

紅麗亜が一緒に来てくれる。

それだけで、今は十分だった。


「……紅麗亜」

「ん?」

「ありがとう」


麗市がそう言うと、紅麗亜は一瞬だけ目を丸くした。

それから、少し照れくさそうに笑う。

「……どういたしまして」

そして、すぐにいつもの調子に戻った。

「じゃ、今日から行く?」

「……え?」

「だから、今日。学校終わったら」

「……いいの?」

「だから、いいってば」

紅麗亜は呆れたように笑った。

「お兄様は、ほんと遠慮しすぎです」

「……そうかな」

「そうだよ」

そう言って、紅麗亜は残っていたパンを口に運んだ。

その隣で、麻里愛が勢いよく手を挙げる。

「はいっ!」

「……麻里愛?」

「麻里愛も行く!」

浩市が苦笑した。

「お前もか?」

「うん! お姉ちゃんに会いたい!」

「そうかそうか」

「でも、毎日は学校もあるでしょう?」

メアリが言うと、麻里愛は少し考え込んだ。

「……じゃあ、お休みの日!」

「それならいいわね」

「やった!」

麻里愛は両手を挙げて喜んだ。

そんな妹の様子に、紅麗亜が笑う。

「じゃあ、お休みの日は三人で行こうね」

「うん!」

麗市も、自然と笑みを浮かべていた。

─────今日も、姉さんに会える。

そう思うだけで、朝から少し嬉しくなった。


*** * ***


朝食を終え、麗市は自室へ戻っていた。

学校へ行く準備をしながら、机の上に置かれた写真立てに目を向ける。

そこには、まだ絵麗奈が元気だった頃の家族写真が収められていた。

笑顔の父と母。

無邪気にはしゃぐ麻里愛。

少し得意げな顔をした紅麗亜。

そして、麗市の隣で満面の笑みを浮かべる絵麗奈。

写真の中の姉は、麗市の肩に腕を回していた。


「…………」


麗市は写真立てを手に取った。

あの日から、何度この写真を見ただろう。

写真の中では、姉はいつも笑っている。

けれど、病室で会う姉は、ずっと眠ったままだ。


「……エレ姉」


麗市は写真の中の姉に、そっと語りかけた。

「今日も、会いに行くよ」


返事はない。

けれど、今日は少しだけ気持ちが違った。

昨日までは、次にいつ会いに行けるかわからなかった。

けれど、これからは。


「……毎日、行くからね」

麗市はそう言って、写真立てを元の場所へ戻した。

そして、鞄を肩に掛ける。

部屋を出ようとしたところで、廊下から声がした。


「お兄様!………そろそろ行きましょう」

紅麗亜だった。

「うん! 今行く!」


麗市は返事をして、扉を開けた。

廊下では、紅麗亜が鞄を肩に掛けて待っていた。


「遅い」

「……まだ時間あるよ?」

「余裕持って行くんです」


「……紅麗亜がそれ言うんだ」

「何か言いましたか?」

「……何でもない」

紅麗亜は満足そうに頷くと、くるりと踵を返した。

「行きましょう」

「うん」


麗市はその後を追った。

階段を下りながら、ふと思う。


自分は、いつも誰かに助けられている。

父に。母に。そして、妹たちに。

もちろん、姉さんにも。

自分が何かをしたいと思っても、結局は誰かの手を借りなければならない。

そのことが、少し情けなく感じることもあった。


けれど。

いまは素直に頼ってもいいのかもしれない。

「……紅麗亜」

「はい?」

「……今日、よろしくね」

紅麗亜は振り返らなかった。

ただ、軽く右手を挙げた。

「お任せください、お兄様」

その何でもない仕草に、麗市は小さく笑った。


─────いつか。

自分も、こんなふうに誰かの力になれるだろうか。

そんなことを考えながら、麗市は妹の後を追って玄関へ向かった。

その日から。

麗市と紅麗亜の、病院通いが始まった。


*** * ***


「お兄様!準備できましたか?」

「うん! 今行くよ!」


自室の扉を開けると、廊下にはすでに紅麗亜が立っていた。

肩には鞄を掛け、片手には小さな紙袋を提げている。

「……それ、何?」

「ん? これ?」

紅麗亜は紙袋を軽く持ち上げた。

「お母さんから。絵麗奈姉さんのところに置いてきてって」

「着替え?」

「うん。それと、病室に飾るお花」

「そっか」


麗市は頷いて、紅麗亜の隣に並ぶ。

学校から帰宅して、制服を着替えて。

それから二人で病院へ向かう。


そんな生活が始まって、今日で五日目になる。

「じゃ、行こっか」

「うん」


二人は階段を下り、玄関へ向かった。

「お母さーん! 行ってくるね!」

紅麗亜が声をかけると、キッチンからメアリが顔を出した。

「はーい。気をつけてね」

「うん!」

「麗市」

「なあに?」

「無理はしない。………わかってるわよね」

「うん。大丈夫」


麗市は小さく微笑んだ。

その返事に、メアリは少しだけ心配そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

「帰りは、あまり遅くならないようにね」

「はーい!」


紅麗亜が元気よく返事をする。

麗市も「行ってきます」と告げて、玄関を出た。


*** * ***


最寄りの〈キャビネット〉の乗り場。

平たく言えば「駅」である。駅までは歩いて十分かからない。


夕方の街には、学校帰りの学生や買い物客の姿が行き交っている。

紅麗亜は麗市の少し前を歩きながら、今日学校であった出来事を楽しそうに話していた。


「それでね、先生がまた間違えたの」

「……また?」

「そう。三回目」

「三回も?」

「うん。もうみんな笑っちゃって」


紅麗亜は思い出したように笑った。

麗市もつられて笑う。


「それは、先生も大変だったね」

「そうなの。最後には先生も笑ってた」

他愛のない会話を交わしながら歩いていると、やがて目的の建物が見えてきた。


外観だけを見れば、ごく普通のショッピングセンターにしか見えない。

大きなガラス扉の向こうに改札があり、その奥に複数の〈キャビネット〉が並んでいる。

人々が次々と出入りし、目的地へ向かっていた。

誰もが当たり前のように利用する交通手段。


けれど、麗市にとっては、今でも少し特別な場所だった。


「…………」

建物が近づくにつれ、麗市の歩幅がわずかに小さくなる。

紅麗亜は、何も言わなかった。

ただ、自然と歩く速さを落とした。


「……今日さ」

「ん?」

「帰り、ちょっと寄りたいところがあるんだけど」

「……どこ?」

「ケーキ屋さん」

「また?」

「またって何よ」

「一昨日も行ったよね」

「あれは一昨日。今日は今日」

「……それ、理由になってる?」

「なってる」


紅麗亜は当然のように答えた。


「今日はこの前のケーキ屋とは違うお店。新しいケーキが出るんだって」

「……詳しいね」

「当たり前でしょ。ちゃんと調べてるんだから」

「そうなんだ……」

麗市が苦笑すると、紅麗亜も笑った。


そうして話しているうちに、二人は改札へ辿り着いていた。

麗市は小さく息を吸う。


ここまで来れば、あとは〈キャビネット〉に乗るだけだ。

それだけのこと。

そう自分に言い聞かせる。


「……行こっか」

紅麗亜が言った。

「うん」


二人は歩みを進める。


*** * ***


〈キャビネット〉は、一見すると少し大きめのエレベーターのようなものだった。

内部は明るく、清潔で、壁面には行き先を指定するための操作盤が設けられている。

利用者はその中へ入り、目的地を選ぶ。

あとは扉が閉まり、移送処理が完了するのを待つだけだ。

通常であれば、ほんの短い時間で済む。


しかし――。


「…………」


麗市は開いた扉の前で、ほんの一瞬、足を止めた。

奥行きのある小さな空間。

四方を囲む壁。

閉じられる扉。

頭ではわかっている。

ここは安全だ。

事故が起きるわけではない。

何度も利用しているし、紅麗亜も一緒にいる。


それでも、身体は簡単には納得してくれなかった。

胸の奥が、きゅっと縮む。


「……お兄様?」


紅麗亜が振り返った。

「……うん。大丈夫」

麗市は小さく頷いた。

紅麗亜は何も言わずに、先に中へ入った。

そして、操作盤の前に立つ。


「ほら」

「……うん」


麗市は一歩を踏み出した。

それだけで、少しだけ呼吸が浅くなる。

けれど、隣には紅麗亜がいる。


その姿を確かめてから、もう一歩。

麗市が中に入ったのを確認すると、紅麗亜は目的地を指定した。

病院の最寄りにある〈キャビネット〉。


画面に表示された行き先を確認し、操作を完了する。


『目的地が登録されました』

案内音声が流れた。

『扉が閉まります』

「…………」


麗市の肩が、わずかに強張った。

扉がゆっくりと閉じていく。

外の景色が細くなり、やがて完全に見えなくなる。


かちり、と。

小さな施錠音が響いた。

麗市は無意識に両手を握りしめた。

喉の奥が、少し詰まる。


そのとき。


「ねえ、お兄様」

「……な、何?」

「さっきのケーキ屋さんですけど」

「……うん」

「新作、限定なんですって」

「……そうなの?」

「売り切れてたらどうしましょうか」

紅麗亜は操作盤の表示を眺めながら、いつもと変わらない調子で話している。

「……別のにすればいいんじゃない?」

「お兄様、それは違います」

「……え?」

「新作を食べるって決めたら、新作を食べるの」

「……そんなに大事?」

「大事」


紅麗亜は真顔で答えた。

麗市は思わず笑ってしまった。

「……紅麗亜らしいね」

「お兄様、紅麗亜だけじゃないですよ?………女子はみんなそうですから。気をつけてくださいね。兄がノンデリなんて言われるのはごめんですからね」


その瞬間。

『移送が完了しました』

案内音声が流れた。


扉が開く。

目の前には、病院の最寄り施設の通路が広がっていた。


「はい、到着」

紅麗亜が何でもないように言った。


「……うん」

麗市は小さく息を吐いた。

いつの間にか、握りしめていた手の力が緩んでいた。


「……ありがと」

「ん?」

「……何でもない」

「変なの」


紅麗亜は笑って、先に歩き始めた。

麗市もその後を追う。

妹は、いつもこうだった。


怖くないかと、何度も尋ねたりしない。

頑張れとも、無理するなとも、必要以上には言わない。

ただ隣にいて、いつもどおり話しかけてくれる。

それが、どれほどありがたいことなのか。

麗市は、きっと紅麗亜が思っている以上に、よくわかっていた。


*** * ***


「姉さん、こんにちは」

病室の扉を開け、麗市はいつものように声をかけた。

窓際のベッドには、絵麗奈が静かに横たわっている。


穏やかな寝顔。

規則正しく上下する胸。

今日も、何も変わっていない。


「今日も来たよ」

麗市は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。

紅麗亜は持ってきた紙袋を棚の上に置くと、花瓶の水を替え始めた。


「お母さんから、お花預かってきたよ」


紅麗亜が明るく言う。


「今日はね、絵麗奈姉さんが好きそうなのにしたんだって」


花瓶に生けられた花を見て、麗市は小さく微笑んだ。

「きれいだね」

「でしょ?」

「エレ姉、喜ぶかな」

「喜ぶよ、きっと」


紅麗亜はそう答えて、花の向きを少し整えた。

その間に麗市は、絵麗奈の手をそっと握った。


「……姉さん」


温かい。

いつもと同じ温もりだった。


「今日はね、学校でちょっと面白いことがあったんだ」

麗市はゆっくりと話し始めた。

授業中にあった出来事。

友達との会話。

昼休みに見かけた、少し変わった光景。


どれも大した話ではない。

けれど、麗市はひとつひとつ、丁寧に言葉にしていった。

絵麗奈が聞いているかどうかは、わからない。


それでも。

もし、声が届いているのなら。

何かひとつでも、姉に伝わればいい。


「……それでね、先生がすごく困った顔をして」


麗市は少し笑った。

「姉さんだったら、きっと大笑いしてたと思う」

返事はない。

それでも、麗市は話し続けた。


*** * ***


それからの日々は、思っていた以上に穏やかに過ぎていった。


学校が終わる。

家に帰る。

紅麗亜と一緒に〈キャビネット〉に乗る。

病院へ行き、姉に話しかける。

帰りには、ときどき寄り道をする。


そんな毎日が、少しずつ当たり前になっていった。


月曜日には、学校であった出来事を話した。

火曜日には、麻里愛が描いた絵を持っていった。

水曜日には、紅麗亜が買ってきた新しい花を飾った。

木曜日には、特別な話題が何もなくて、麗市は少し困った。


「……今日は何を話そうかな」

そう呟くと、紅麗亜が横から口を挟んだ。

「別に、何も話さなくてもいいんじゃない?」

「……え?」

「一緒にいるだけでもいいでしょ」

「…………」


麗市はエレ姉の顔を見つめた。

ただ、そばにいるだけ。

それでもいいのだろうか。


「……そうかもしれないね」


麗市は小さく笑った。

それからしばらく、何も話さずに姉の手を握っていた。

窓から差し込む午後の日差し。

静かな病室。

遠くから聞こえる、廊下を行き交う人々の足音。

それだけの時間だった。

けれど、不思議と嫌ではなかった。


*** * ***


ある日のこと。

「……麗市くん」


病室に入ってきた看護師が、少し驚いたような顔をした。


「あら、今日も来てくれたのね」

「こんにちは」

麗市が挨拶すると、看護師は柔らかく微笑んだ。


「本当に毎日来てくれるのね」

「……はい」

「お姉さん、きっと喜んでるわよ」

「…………」


麗市は少し照れくさそうに笑った。


「……そうだと、いいんですけど」


看護師は絵麗奈の様子を確認しながら、穏やかに言った。

「声をかけてもらうことは、決して無駄じゃないと思うわ」

「……本当ですか?」

「ええ。ただ、どこまで聞こえているかは、私たちにもわからないの」

「……はい」

「でも、麗市くんがお姉さんを大切に思っていることは、よく伝わってくるわ」


麗市は姉の手に目を落とした。

「……僕、何もできないので」

「そんなことないわ」

看護師は静かに首を横に振った。

「こうして会いに来て、声をかけてあげる。それも、あなたにできることのひとつでしょう?」

「…………」

「もちろん、麗市くん自身の生活も大事にしてね。無理をする必要はないんだから」


麗市は小さく頷いた。

「……はい」

看護師が病室を出ていくと、麗市はしばらく黙っていた。


そして、絵麗奈の顔を見つめる。

「……エレ姉」


握った手に、ほんの少しだけ力を込めた。


「僕の声、聞こえてる?」

返事はない。

「……聞こえてたら、嬉しいな」

麗市はそう呟いて、微笑んだ。


*** * ***


日々を重ねるうちに、麗市には小さな変化が生まれていた。

〈キャビネット〉への恐怖がなくなったわけではない。

扉が閉まる瞬間には、今でも胸が苦しくなる。

ときには、乗る直前に足が止まってしまうこともあった。

それでも、紅麗亜が隣にいてくれれば、何とか乗ることができた。


以前より少しだけ、落ち着いていられる日も増えてきた。


ただ、それは〈キャビネット〉に慣れたというより、紅麗亜と一緒に行くことに慣れたのかもしれなかった。


彼女が先に乗り込み、いつものように話しかけてくれる。

それだけで、麗市は次の一歩を踏み出せた。


そんなある日の帰り道。


「………お兄様」

「ん?」

「最近、ちょっと元気になりましたね」


紅麗亜が唐突に言った。


「……そうかな?」

「うん。前より笑うようになった気がします」

「……そう?」

「そうだよ」


紅麗亜は軽く頷いた。


「やっぱり、絵麗奈姉さんに会えてるからかな」

「…………」


麗市は少し考えた。


確かに、毎日病院へ通うようになってから、以前ほど気持ちが沈まなくなったような気がする。

姉の容体に、目立った変化があるわけではない。

目を覚ます兆しが見えたわけでもない。

それでも、今日も会えた。

今日も話しかけることができた。

その積み重ねが、麗市にとって何か大切なものになっていた。


「……うん。そうかもしれない」

麗市は頷いた。

「それに……」

「ん?」

「紅麗亜が一緒に来てくれるから、かな」

紅麗亜が足を止めた。

「……え?」

「毎日、付き合ってくれてるでしょ」

「……まあ、それはそうですけど」

「だから、ありがとう」


麗市は少し照れくさそうに笑った。

紅麗亜は一瞬、何も言わなかった。

それから、ふいっと顔を逸らす。


「……別に」

「……紅麗亜?」

「私も行きたいから行ってるだけだし」

「……うん」

「それに、帰りにいろいろ寄れるし」

「……それが目的だったりする?」

「半分くらい?」

「……半分も?」


麗市が思わず笑うと、紅麗亜も吹き出した。


「冗談だってば」

「……ほんと?」

「ほんとほんと」


そう言って、紅麗亜は麗市の少し前を歩き始めた。


「ほら、帰るよ」

「うん」

麗市はその後を追った。


夕暮れの街に、二人の影が長く伸びていた。


*** * ***


その日の夜。

麗市は机に向かい、開いたノートを見つめていた。

そこには、ここ数日のお見舞いで話したことが、簡単に書き留められている。


学校のこと。

家族のこと。

姉に聞いてほしかったこと。


何も話すことが思いつかない日には、ノートを見返して、前に話した出来事の続きを考えることもあった。


いつの間にか、それが小さな習慣になっていた。


「……明日は、何を話そうかな」


麗市はペンを指先で回した。

ふと、机の上の写真立てに目が留まる。

写真の中では、絵麗奈が満面の笑みを浮かべていた。

麗市の肩を抱き、何かを言いかけているような表情。


「……姉さん」


麗市は写真を見つめた。

毎日会いに行くようになって、少しだけ気持ちは楽になった。

けれど、心の奥にある思いが消えたわけではない。


もし、あの日。

自分がもっとしっかりしていたら。

もし、自分に姉を守れるだけの力があったなら。


「…………」


麗市はペンを置いた。

あの日のことを考えると、今でも胸が苦しくなる。

そして、どうしても思い出してしまう。


姉が最後に、自分へ向けてくれた言葉を。

『あともう少し……!』

その声が、耳の奥に蘇った。


「…………」


麗市は目を閉じた。

思い出そうとすると、記憶の中の景色が少しずつ輪郭を帯び始める。


狭い空間。閉じられた扉。息苦しいほどの恐怖。

そして、姉の声。


『麗市!』


「……っ」

麗市は思わず目を開けた。

心臓が、少し速く打っている。

手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。


「……大丈夫」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

ここは自分の部屋だ。

あの日の場所ではない。


扉も開けられる。

窓の外には、いつもの街の明かりが見える。

それでも、しばらくは胸のざわつきが収まらなかった。

麗市はゆっくりと息を吐いた。


「……エレ姉」


写真の中の絵麗奈は、変わらず笑っている。

麗市はその笑顔を見つめながら、小さく呟いた。


「……僕、まだ怖いよ」


誰にも言えなかった言葉だった。

紅麗亜が一緒にいてくれる。

父も母も、無理をしなくていいと言ってくれる。

それでも。

本当は、いつまでも誰かに頼ってばかりではいたくなかった。


「……いつか、一人でも行けるようになれたらいいな」


麗市はそう呟いた。

けれど、それがいつになるのかは、わからなかった。

そもそも、本当にそんな日が来るのかさえ。

今の麗市には、想像できなかった。


そのとき。

こんこん、と。

部屋の扉が軽く叩かれた。


「お兄様?」

「……紅麗亜?」

「起きてる?」

「うん。どうしたの?」

「ちょっといい?」

「いいよ」


扉が開き、紅麗亜が顔を覗かせた。

手には、小さな袋を持っている。


「これ、あげる」

「……何?」

「今日、帰りに買ったやつ」


袋の中には、個包装の焼き菓子が入っていた。


「……僕に?」

「うん」

「どうして?」

「別に。美味しそうだったから」

紅麗亜はそれだけ言って、麗市の机の上に袋を置いた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

紅麗亜は笑った。


それから、机の上に開かれたノートへ目を向ける。

「……明日の話、考えてたの?」

「……うん」

「そっか」

紅麗亜は少しだけ考えた。


「……お兄様」

「ん?」

「絵麗奈姉さんってさ」

「……うん」

「麗市が毎日来てくれるの、嬉しいと思います」

「…………」

「だから、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃない?」


麗市は紅麗亜を見つめた。

「……難しく、考えてるかな」

「考えてる」


即答だった。


「お兄様はなんでもかんでも、ちゃんとしようとしますよね」

「……そうかな」

「そうです」


紅麗亜は笑った。


「お見舞いなんだから、ただ会いに行けばいいんです」

「…………」

「話すことがなかったら、一緒にぼーっとしてればいいし」

「……ぼーっと?」

「そう。絵麗奈姉さんだって、たまには静かにしたいかもしれないでしょ?」


麗市は思わず笑った。


「……エレ姉が?」

「うん」

「……それは、あんまり想像できないな」

「例えを間違ってしまいましたね」


二人は顔を見合わせて笑った。

紅麗亜は満足そうに頷くと、扉の方へ向かった。


「じゃ、おやすみ」

「……うん。おやすみ」


扉が閉まる。

麗市は机の上に置かれた焼き菓子の袋を見つめた。

それから、開いたままのノートに目を落とす。


明日、何を話すか。

何を持っていくか。 

どうすれば、姉が喜んでくれるか。

そんなことばかり考えていた。


けれど。


「……ただ、会いに行けばいいんだよね」


麗市は小さく呟いた。

そして、ノートを閉じた。

明日も、姉さんに会いに行く。

それだけでいい。

そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


それから、さらに数日が過ぎた。

麗市と紅麗亜の病院通いは、すっかり日常の一部になっていた。

学校から帰ると、二人は自然と玄関で待ち合わせる。


紅麗亜が少し遅い日もあれば、麗市の準備が間に合わない日もある。


そんなときは、どちらかが声をかける。


そして、いつものように並んで歩き始める。

麗市にとって、それはとてもありがたい時間だった。

紅麗亜がいてくれる。


だから、〈キャビネット〉に乗れる。

だから、姉に会いに行ける。

いつの間にか、その流れが当たり前になっていた。


けれど。

当たり前だと思っていたものが、いつまでも続くとは限らない。

それを麗市が思い知るのは、もう少し先のことだった。


*** * ***


「……ごめんなさい、レイ兄様」


その日、学校から帰ってきた紅麗亜は、珍しく申し訳なさそうな顔をしていた。

玄関で靴を脱ぎながら、いつものように出迎えた麗市に向かって、両手を合わせる。

「今日、ちょっと一緒に行けなくなっちゃった」

「……え?」

「先生に頼まれてたこと、すっかり忘れててさ。今日中に片づけないといけないんだって」

「……そうなんだ」

「うん。だから、病院……」

「ああ、うん。大丈夫だよ」


麗市は慌てて笑顔を作った。


「紅麗亜にも予定があるんだから、仕方ないよ」

「……でも」

「気にしないで。いつも付き合ってもらってるし」

紅麗亜は少しだけ眉を寄せた。


「……お兄様」

「ん?」

「無理して行こうとか、考えていませんよね?」

「…………」


麗市は一瞬、言葉に詰まった。

その反応を見て、紅麗亜は小さくため息をつく。


「ほら、やっぱり」

「……まだ、何も言ってないよ」

「顔に書いてあります」

「……そんなに?」

「うん。すっごく」


紅麗亜は腕を組んだ。

「別に、一日くらいお休みしてもいいんですよ?」

「……うん」

「絵麗奈姉さんだって、怒ったりしません」

「……わかってる」


麗市は頷いた。

それは、本当にわかっていた。

毎日お見舞いに行くと決めたのは、自分だ。


誰かに頼まれたわけでも、約束したわけでもない。

一日行かなかったからといって、エレ姉の容体が悪くなるわけでもないだろう。


それでも。


「……お父さんかお母さんに、聞いてみるよ」

麗市はそう答えた。

「もし送ってもらえそうなら、行ってくる」

「……そう?」

「うん。無理そうだったら、今日はお休みするから」


紅麗亜はしばらく麗市の顔を見つめていた。

それから、小さく頷く。

「……わかりました」

そして、いつものように笑った。

「じゃあ、明日は一緒に行こうね」

「うん」

「約束」

「……うん。約束」

麗市が答えると、紅麗亜は安心したように笑い、自分の部屋へ向かった。

その背中を見送りながら、麗市は小さく息を吐いた。


─────今日は、一緒に行けない。


わかっていたことなのに、改めてそう考えると、胸の奥が少しだけ重くなった。


「……そう。紅麗亜、今日は用事があるのね」

キッチンで夕食の下ごしらえをしていたメアリは、麗市の話を聞くと手を止めた。


「うん。だから、お母さんかお父さんに送ってもらえないかなって……」

「そうねえ……」


メアリは壁の時計を見上げた。

「ごめんなさい、麗市。お母さん、今日はこれから外せない用事があるの」

「……そっか」

「お父さんも、今日は帰りが遅くなるって言っていたし……」

「……うん」


麗市は小さく頷いた。


「じゃあ、今日は無理かな」

そう言って笑おうとしたが、うまくいかなかった。

メアリは息子の様子を見て、少しだけ表情を曇らせる。


「……麗市」

「ん?」

「今日は、お休みにしたらどうかしら」

「…………」

「毎日行ってあげたい気持ちはわかるけれど、無理をする必要はないのよ」

「……うん」

「明日は紅麗亜も一緒に行けるんでしょう?」

「……うん」

「だったら、明日また会いに行きましょう」


麗市は頷いた。

母の言うことは、もっともだった。

何も間違っていない。


「……わかった」


麗市はそう答えた。


「今日は、お休みにする」

メアリは安心したように微笑んだ。

「ええ。そうしましょう」

「……うん」

麗市はキッチンを後にした。


*** * ***


自室に戻った麗市は、机の前に腰を下ろした。

開きかけていたノートを閉じる。

今日、姉に話そうと思っていたことが、そこにはいくつか書いてあった。


学校であったこと。

麻里愛が朝から妙なことを言い出したこと。

昨日、紅麗亜と帰り道に見つけた店のこと。


どれも、明日になれば話せる。


一日遅れたところで、何かが変わるわけではない。


「…………」


麗市は椅子の背にもたれた。

窓の外には、まだ明るい空が広がっている。

病院へ向かうには、十分な時間があった。

ただ、行く手段がない。


─────いや。


正確には、行く手段がないわけではない。

「……キャビネット」


小さく呟く。

〈キャビネット〉を使えば、病院へ行くことはできる。

いつも紅麗亜と一緒に利用している、あの移送設備。


利用方法は、もちろん知っている。

目的地の指定も、操作手順も、何度も見て覚えている。

難しいことなど、何ひとつない。

ただ、ひとつだけ。


一人で乗れない。


「…………」


麗市は自分の両手を見つめた。

思い出すのは、閉じていく扉。

四方を囲む壁。

わずかな振動。

外の世界から切り離されるような感覚。

そして――。


「……っ」


胸の奥が、急に苦しくなった。

麗市は慌てて顔を上げる。

ここは自分の部屋だ。

扉も開いている。

窓からは、夕方の光が差し込んでいる。

何も怖がる必要はない。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせる。

ゆっくり息を吸って、吐く。

何度か繰り返すうちに、胸の苦しさは少しずつ和らいでいった。


「…………」


麗市は机の上の写真立てを手に取った。

そこには、事故に遭う前の絵麗奈が笑っている。

何の心配もなさそうな、いつもの笑顔。


「……エレ姉」


麗市は写真の中の姉に語りかけた。


「今日は、行けないかもしれない」


もちろん、返事はない。


「……ごめんね」


謝る必要なんてない。

それも、わかっている。

エレ姉が自分を責めるはずがないことくらい、誰よりもよく知っている。

それでも、口から出たのは謝罪の言葉だった。

麗市は写真立てを机に戻した。

そして、しばらく目を閉じていた。


………一人で、乗れたら。

そう思った。


もし、一人でも〈キャビネット〉に乗れるようになったら。

紅麗亜に予定がある日も。

父や母が忙しい日も。

誰にも迷惑をかけずに、姉のところへ行ける。

いつでも、会いたいときに会いに行ける。


「…………」


麗市は、ゆっくりと目を開けた。

机の上には、病院へ持っていくつもりだった小さな紙袋が置いてある。

中には、エレ姉に見せようと思っていた写真が入っていた。


麗市はそれを見つめた。

それから、そっと手を伸ばす。


「……行ってみようかな」


口に出した途端、心臓が大きく跳ねた。


怖い。考えただけで、怖い。

けれど。


………ずっと、このままなのかな。


麗市は唇を噛んだ。

この先も、ずっと誰かに頼らなければならないのだろうか。

エレ姉に会いたいと思っても、一人では会いに行けない。


そんな自分のままで、いいのだろうか。


「…………」


麗市は立ち上がった。

紙袋を手に取る。

足は、まだ少し震えている。


「……とりあえず」


自分に言い聞かせるように呟く。


「……行くだけ、行ってみよう」


〈キャビネット〉の前まで。

そこまで行って、どうしても無理だったら帰ってくればいい。

それなら、できるかもしれない。

そう考えて、麗市は部屋を出た。


*** * ***


「……レイ?」


玄関で靴を履いていると、メアリが声をかけてきた。


「どこか行くの?」

「……うん」


麗市は少し迷った。

母には、今日はお見舞いを休むと伝えていた。

その約束を破るつもりではなかった。


ただ、自分がどこまでできるのか、確かめてみたくなったのだ。

「……ちょっと、キャビネットのところまで」


メアリの表情が変わった。


「……一人で?」

「……うん」

「レイ……」

「乗れるかどうかは、わからないけど」


麗市は正直に答えた。

「でも、行ってみようかなって」

できる限りの笑顔を母に向ける。


「…………」

「無理だったら、ちゃんと帰ってくるから」


メアリはしばらく何も言わなかった。

驚きと心配が、その表情に浮かんでいる。

事故以来、麗市が自分から一人で〈キャビネット〉に向かおうとしたことなど、ほとんどなかった。


「……麗市」

メアリは息子の前にしゃがみ、目線を合わせた。

「本当に、大丈夫?」

「……わからない」

麗市は小さく首を横に振った。

「正直、怖いよ」

「…………」

「でも……」


麗市は手にした紙袋を見つめた。

「姉さんに、会いに行きたいんだ」


メアリは息子の顔を見つめた。


そこにあるのは、強い決意というよりも、恐怖と迷いを抱えたまま、それでも前へ進もうとする小さな勇気だった。


「……そう」


メアリは静かに頷いた。

少し考えてから、続ける。


「じゃあ、ひとつ約束して」

「……何?」

「無理だと思ったら、すぐにやめること」

「……うん」

「怖くなったら、途中でも帰ってきていいのよ」

「……うん」

「それから、何かあったら必ず連絡すること。いい?」

「……わかった」


メアリは麗市の頬にそっと手を添えた。


「……気をつけてね」

「うん」


麗市は小さく頷いた。


それから、玄関の扉を開けた。

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい」

母の声に見送られ、麗市は家を出た。


*** * *** 


〈キャビネット〉の利用施設へ向かう道は、いつもと同じだった。


見慣れた街並み。

通い慣れた歩道。

夕方の柔らかな日差し。


何も変わっていない。

けれど、今日は隣に紅麗亜がいない。


「…………」


普段なら、妹が何かしら話しかけてくる。

学校での出来事。

帰りに寄りたい店。

新しく発売されたお菓子。


そんな他愛のない会話をしながら歩く道。

今日は、自分の足音ばかりが耳についた。

麗市は少しだけ歩く速度を上げた。

考える時間が長くなると、怖くなってしまいそうだったから。


やがて、見慣れた建物が見えてきた。


ガラス張りの入口から、何人もの利用者が出入りしている。


麗市は駅の前で立ち止まった。


「…………」


ここまでは、来られた。

問題は、ここからだ。

麗市は小さく息を吸った。

そして中へ入った。


駅の中はいつも通りだった。

行き先を確認する利用者。

開閉を繰り返す〈キャビネット〉の扉。

誰もが当たり前のように、その中へ入っていく。

麗市は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。


扉が開く。

利用者が乗り込む。

扉が閉まる。


そして、しばらくすると別の利用者が現れる。 

何度も見てきた光景。

それなのに。 


「…………」


足が動かない。ピクリとも動かない。

胸の奥が、きゅっと縮む。 

手のひらに汗が滲む。

頭ではわかっている。


危険なことなど、何もない。

紅麗亜と一緒に、何度も利用してきた。

ただ、今日は一人なだけだ。

それだけの違いなのに。


「……っ」

麗市は思わず一歩後ずさった。 

呼吸が浅くなる。

心臓が、嫌な音を立てている。

 

─────無理だ。

そんな言葉が、頭に浮かんだ。

やっぱり、無理だ。

一人では、乗れない。


麗市は俯いた。

帰ろう。

今日は、もう十分頑張った。

ここまで来られただけでも、今までとは違う。


そう思おうとした。

けれど。

そのときだった。


『……あと、もう少しの我慢だから、大丈夫!』


不意に、声が聞こえた気がした。

懐かしい声。ずっと昔から知っている声。

麗市は顔を上げた。

もちろん、そこには誰もいない。

周囲には、〈キャビネット〉を利用する人々がいるだけだ。


「…………」


その声だけは、はっきりと覚えていた。

エレ姉の声だった。


あの日。

あの事故の日。

僕のことを最後まで離さず、頭を抱えてくれたエレ姉。

スピードが上がっていくキャビネットの中で何度もかけてくれた言葉。


『最強の姉ちゃんが一緒なんだから!大丈夫!大丈夫!』


「………エ、エレ姉」


麗市の唇が、かすかに動いた。

あの日の記憶が、胸の奥から浮かび上がってくる。


狭い空間。

閉じられた扉。

息ができないほどの恐怖。

そして、僕を強く抱きしめてくれた姉。


『レイ、姉ちゃんに捕まってろよ』


絵麗奈は、最後まで諦めなかった。

きっとエレ姉だって怖かっただろう。 

自分が苦しくても。

弟を離さなかった。


「…………」


麗市は、ゆっくりと右手を握りしめた。

苦しくて辛いとき、誰かがこの手を握ってくれた。

エレ姉も、父さんも、母さんも、紅麗亜も、麻里愛も。

今は、誰も握っていない。

その温もりを、まだ覚えている。


「……あと、もう少し、なんだ」


麗市は小さく呟いた。

姉が言ってくれた言葉を、今度は自分自身に向けて。

怖い。今でも、どうしようもなく怖い。

それでも。

あと、もう少し。

もう一歩だけ。 

麗市は、ゆっくりと足を踏み出した。


*** * *** 


目の前の〈キャビネット〉が、静かに扉を開いた。

 

『ご利用いただけます。』


機械的な案内音声が流れる。 

麗市は、開いた扉の前に立った。 

中には、誰もいない。

いつもなら、そこに紅麗亜がいる。

操作盤の前に立って、何でもないことを話しかけてくれる。

けれど、今日は違った。


「…………」


麗市は唇を噛んだ。

足が、動かない。

それでも、引き返さなかった。

右足を、ゆっくりと持ち上げる。


一歩。

〈キャビネット〉の中へ。

続いて、左足。

両足が、床を踏みしめた。


「……入れた」


小さな声が漏れた。

それだけで、心臓が激しく打っていた。

麗市は操作盤へ手を伸ばす。

指先が、震えている。


画面に表示された目的地の一覧。

病院の最寄りの駅を選ぶ。


確認画面が現れる。

いつも紅麗亜がしている操作。

難しいことなど、何ひとつない。

それでも、決定ボタンに指を伸ばすまでに、ずいぶん時間がかかった。


「…………」

麗市は一度、目を閉じた。

そして。

「……エレ姉」


小さく呟く。


「僕、行くよ」

決定ボタンに触れた。

『目的地を確認しました』

案内音声が流れる。

『扉が閉まります』

「……っ!」

麗市の身体が強張った。


扉が動き始める。

ゆっくりと。

確実に。

外の景色が、狭くなっていく。


胸の奥から、強烈な恐怖が込み上げてきた。


逃げたい。

今すぐ、外へ出たい。

扉を止めたい。

そんな衝動が、全身を駆け巡る。


「……っ、は……」


呼吸が乱れた。

指先が冷たくなる。

視界の端が、少し暗くなった気がした。


それでも。


『あともう少し!レイ』


記憶の中の姉の声が、蘇る。


「……うん」

麗市は震える声で答えた。

「……あと、もう少し」


扉が閉じる。

かちり、と施錠音が響いた。

麗市は反射的に目を閉じる。


両手を強く握りしめる。

呼吸が苦しい。

胸が痛い。


怖い。

怖い。

怖い。


けれど――。


エレ姉に会いに行きたい。


「……会いに行くんだよ」


麗市は、そう呟いた。

誰に聞かせるでもなく。

ただ、自分自身に言い聞かせるように。

その直後。


『ご注意ください。動きます』


低い駆動音が響く。

麗市は目を閉じたまま、じっと耐えた。

時間の感覚が、曖昧になる。


一秒が、何十秒にも感じられる。

身体が、わずかに揺れた。

─────お願い。

早く。


早く、開いて。


麗市は心の中で何度も繰り返した。


そして。


『到着しました。お忘れ物のないようにご注意ください』

案内音声が響く。


「…………!」


扉が開いた。

目の前に、見慣れた通路が広がる。


病院の最寄り駅だ。


「……っ、はあ……!」


麗市はよろめくように〈キャビネット〉から出た。

壁際まで歩き、手をつく。

膝が震えていた。

呼吸も、まだ落ち着かない。

額には汗が滲んでいる。


「……はぁ……はぁ……」


しばらく、その場から動けなかった。

通りかかった人が心配そうに視線を向けたが、麗市は小さく首を横に振った。


大丈夫。

少し休めば、大丈夫ですから。


そう伝えたかったが、うまく声にならなかった。


麗市はゆっくりと呼吸を整えた。


一度。

二度。

三度。


少しずつ、心臓の音が落ち着いていく。

やがて、麗市は顔を上げた。

そこには、いつも紅麗亜と歩いている通路が広がっていた。

何度も見た景色。

けれど、今日は少し違って見えた。


「……来られた」


ぽつりと呟いた。

一人で。

〈キャビネット〉に乗って。

ここまで来ることができた。


「…………」


麗市は、震える右手を見つめた。


まだ、指先は冷たかった。

恐怖が消えたわけではない。

次も同じことができるかと聞かれたら、正直、自信はない。


それでも。

「……姉さん」

麗市は小さく微笑んだ。


「……僕、来られたよ」


そう言って、ゆっくりと歩き始めた。

エレ姉が待つ病院へ。


*** * ***


病室の扉の前に立ったとき、麗市は少しだけ足を止めた。

ここへ来るまでに、何度も深呼吸をした。

ようやく呼吸は落ち着いたが、まだ身体の奥に疲労が残っている。

それでも、扉の向こうにエレ姉がいると思うと、不思議と足取りが軽くなった。


麗市はそっと扉を開けた。

「……姉さん」


いつもと同じ病室。

いつもと同じベッド。

そして、いつもと変わらない寝顔。

麗市はゆっくりと近づき、椅子を引き寄せた。


「……こんにちは」


静かに声をかける。

返事はない。

けれど、今日は少しだけ違った。

麗市はベッド脇に腰を下ろし、姉の手をそっと握る。

温かい。

その温もりに触れた途端、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「……エレ姉、だ」


麗市は、少しだけ笑った。

「今日ね……」


そこで言葉が詰まった。


何を話そうか。

学校であったこと。

家族のこと。

いつものように、そんな話をすればいい。


けれど。

今日は、どうしても伝えたいことがあった。


「……僕ね」


麗市は姉の手を両手で包み込んだ。

「一人で、来たんだ」

その声は、少し震えていた。

「紅麗亜が今日は用事で来られなくて……。お父さんもお母さんも忙しかったから」

麗市は小さく息を吸った。

「……だから、一人でキャビネットに乗ったんだ」

返事はない。

「……すごく、怖かった」

その言葉を口にすると、胸の奥に残っていた恐怖が、少しだけ蘇った。

麗市は姉の手を握り直した。

「途中で、帰ろうと思ったんだ」

声が小さくなる。

「やっぱり無理だって……。僕にはできないって」

麗市は俯いた。

「……でも」

少しだけ顔を上げる。


「姉さんの声を、思い出したんだ」

閉じられた扉。

狭い空間。

あの日の恐怖。

その中で、何度も聞こえた姉の声。


『あともう少しだよ、麗市!』

「……あのとき、姉さんが言ってくれたこと」

麗市は微笑んだ。

「あともう少し、って」

そして、少し照れくさそうに続けた。

「……だから、もう少しだけ頑張ってみようって思ったんだ」

姉の手は、温かかった。

握り返してくれることはない。

けれど、その温もりは確かにそこにあった。

「……姉さん」

麗市はゆっくりと顔を上げた。

「僕、少しは頑張れたかな」

返事はなかった。

それでも、麗市はしばらく姉の顔を見つめていた。

もし、姉が起きていたら。

きっと、いつものように笑ってくれただろう。


『すごいじゃん!すごいじゃん!すごいじゃん!』


そんな声が、聞こえてきそうだった。


「…………」


麗市は少しだけ目を伏せた。

そして、握った手にそっと額を寄せた。

「……エレ姉」


小さく、呟く。

「……今度は、僕が守れるようになりたいな」

それは、誰に聞かせるためでもない言葉だった。

ただ、ずっと胸の奥にあった思いが、自然と口から零れただけだった。


あの日。

姉は、自分を守ってくれた。

怖くても。

苦しくても。

最後まで、手を離さずにいてくれた。

だから、今度は。

自分も、誰かを守れるようになりたい。


「…………」


麗市はゆっくりと身体を起こした。

そして、少しだけ笑った。


「……また、明日も来るね」


病室には、静かな時間が流れていた。

窓の外では、夕日が傾き始めている。

その光が、白いシーツを柔らかく照らしていた。

麗市は姉の手を握ったまま、しばらくそこに座っていた。

今日、初めて一人でここへ来られたこと。

その小さな勇気を、もう少しだけ姉に伝えていたかった。


*** * ***


「……あら、麗市くん?」


病室の扉が静かに開いた。

顔を覗かせたのは、絵麗奈の担当看護師だった。

確か………三上さん、という看護師さんだ。

小柄な可愛らしい人で丸い縁の眼鏡が印象的な人だ。


「あら。今日は紅麗亜ちゃんと一緒じゃないのね」

「あ……はい。今日は紅麗亜、用事があって」

「そうなの。じゃあ、お父さんかお母さんに送ってもらったの?」

麗市は少しだけ迷ってから、小さく首を横に振った。

「……今日は、一人で来ました」

「えっ?」


三上の手が止まった。


「一人で?」

「……はい」

「もしかして、〈キャビネット〉で?」


麗市が頷くと、三上は驚いたように目を丸くした。


この病院では麗市はちょっとした有名人だ。

事故に遭って何度も入院している。

しかも長い間、意識が戻らなかった。

その間に麗市のお世話をしてくれた人が本当にたくさんいる。

だから麗市が知らなくても看護師さんたちは麗市のことをよく知っているのだ。

そして〈キャビネット〉の事故の後、麗市のPTSDを診断したのはこの病院の先生だ。

当然、一人で〈キャビネット〉に乗れなくなったことを知っている。


これまでのお見舞いでも、必ず家族の誰かが付き添っていたからだ。


「……すごいじゃない、麗市くん」

「……いえ、そんな」

麗市は照れくさそうに笑った。

「ものすごく怖かったですし……着いてからも、しばらく動けなくて」

「そうだったのね」

「……だから、別に大したことじゃないんです」

すると、三上は少しだけ眉を下げた。

「大したことじゃない、なんて言わなくていいのよ」

「……え?」

「怖かったでしょう?」

「……はい」

「それでも、ここまで来られたのね」

「…………」


麗市は俯いた。

自分では、そんなふうに考えていなかった。

周りの人にとっては、当たり前にできることだ。


〈キャビネット〉に乗って、目的地へ行く。

それだけのこと。

むしろ、こんなことで怖がっている自分の方がおかしいのではないかと、ずっと思っていた。


「……でも」

麗市は小さく呟いた。

「みんな、普通にできることですから」

三上は麗市を優しく見つめる。

それから、ゆっくりと首を横に振る。

「人によって、怖いものは違うでしょう?」

「…………」

「麗市くんが苦手なことを、ほかの人が平気でできるからって、気にしなくていいの」

三上は微笑んだ。

「それにね、怖いのを我慢することだけが、頑張ることじゃないのよ」

「……そうなんですか?」

「ええ。怖くなったら助けを呼んでもいいし、途中でやめたっていいの。今日はここまでって決めることも、大切なことよ」


麗市は少し考え込む。


「麗市君。大丈夫よ。私にも怖いモノあるから。足が竦んで、呼吸が荒くなって、その場から逃げ出したくなるモノ、あるんだから!」

「………え、そうなんですか?」

「ええ、ありますとも。黒くて………カサカサ動いて………、下手すると飛ぶヤツ」

「それって………」

麗市がその名を口にしそうになった。

三上さんはおっかない顔をしたので、口を噤む。

「よろしい。名を言ってはダメよ、呼ばれたと思って出てきちゃうんだから、アレは」


三上さんがにっこりと笑った。


「ところで、帰りはどうするの?」

「……あ」


麗市は思わず声を漏らした。

行きのことで頭がいっぱいで、帰りのことをほとんど考えていなかった。

もちろん、帰るにはもう一度〈キャビネット〉に乗らないといけない。

それに気づいた途端、胸の奥に小さな不安が広がった。


「……そっか。………帰りも、乗らないといけないんだ」

「でも、一人で帰らなくてもいいのよ?」

「……え?」

「お母さんに連絡してみたらどうかしら。誰か迎えに来られるかもしれないでしょう?」


麗市は、少しだけ考えた。

一人で来られたからといって、帰りも同じようにできるとは限らない。

正直に言えば、もう一度あの扉の前に立つことを想像しただけで、少し怖かった。

「……そうですね」

麗市は小さく頷いた。

「お母さんに、連絡してみます」

「ええ。そうしてね」

「今日は初めて一人で来たんだもの。帰りまで無理をしなくてもいいと思うわ」


三上は安心したように微笑むと、絵麗奈の様子を確認し始めた。


麗市はポケットから携帯端末を取り出した。

母から連絡が入っていないか確認すると、先ほどのメッセージが残っていた。


(麗市、無事に着いたら連絡してね。無理しないでね)


「……あ」


そういえば、出かけるときに約束していた。

麗市は慌ててメッセージを入力した。


(お母さん、連絡遅くなってごめんなさい。無事に病院に着きました。今、姉さんのところにいます)


送信して、少し待つ。

ほどなくして返信が届いた。


(よかった! 心配していたのよ。帰りはどうする?)


麗市は少し迷ってから、正直に打ち込んだ。


『帰りはちょっと怖いから、迎えに来てもらってもいいかな』

返信は、すぐに来た。

『もちろんよ。お父さんにも連絡してみるわ。今日はゆっくり絵麗奈と過ごしていらっしゃい』

「…………」


麗市は画面を見つめた。

胸の奥にあった不安が、少しだけ和らいだ。


『ありがとう、母さん』


そう返信して、端末をしまう。

すると、ベッドの向こうから三上さんが声をかけてくれる。


「大丈夫そう?」

「……はい。迎えに来てもらえるみたいです」

「それなら安心ね」

「はい」

麗市は微笑んだ。


「面会時間が過ぎてもお父さんが来るまで、のんびりしてていいからね」

「はい」

「きっとよく頑張りました、って絵麗奈ちゃんも思ってると思うわ」


三上は麗市の頭を軽く撫でるとそのまま病室を出ていった。


麗市はもう一度姉の手を握る。

「……姉さん」


窓の外では、夕日が少しずつ傾き始めている。


「今日はね、帰りは迎えに来てもらうことにしたんだ」

もちろん、返事はない。

それでも麗市は、少しだけ照れくさそうに続けた。

「……やっぱり、まだ怖くて」

姉の手を見つめる。

「でも、今日、一人で来られたのは本当だから」

麗市は小さく笑った。

「……少しだけ、褒めてほしいな」


絵麗奈は、静かに眠っていた。

その寝顔を見つめながら、麗市はしばらく何も言わなかった。

 

*** * ***


その頃。

城戸家のキッチンで、メアリは携帯端末を手にしていた。

画面には、先ほど麗市から届いたメッセージが表示されている。


『無事に病院に着きました』


その文字を何度も読み返して、メアリは小さく息を吐いた。


「……本当に、一人で行けたのね」


息子が家を出てから、ずっと気が気ではなかった。

〈キャビネット〉の前まで行って、怖くなって帰ってくるかもしれない。

それなら、それでよかった。

むしろ、無理をして乗ってしまうことの方が心配だった。

あの日以来、麗市があの狭い空間をどれほど怖がっているか、メアリはよく知っている。


だからこそ。


「……よく頑張ったわね」


誰もいないキッチンで、そう呟いた。

少しだけ目頭が熱くなる。

だが、すぐに表情を引き締め、夫へ連絡を入れた。

数回の呼び出し音のあと、浩市が応答した。


『どうした、メアリ?』

「あなた、今ちょっといい?」

『ああ。何かあったのか?』

「麗市のことなんだけど」

『麗市?』

「今日ね、あの子、一人で〈キャビネット〉に乗ったの」


一瞬、通話の向こうが静かになった。


『……一人で?』

「ええ」

『本当に?』

「今、病院にいるわ。本人から連絡があったの」

『…………』


浩市はしばらく何も言わなかった。

やがて、低い声で尋ねる。


『……大丈夫だったのか?』

「怖かったみたい。でも、無事に着いたって」

『そうか……』


通話の向こうから、長い息が聞こえた。


『……そうか』


同じ言葉を、もう一度。

その声に込められたものを、メアリはよく理解していた。


「……ねえ、あなた」

『ん?』

「帰り、迎えに行ってあげられる?」

『ああ。もちろんだ』


返事は早かった。


『仕事は、もう少しで片づくよ。病院まで車を回そう』

「ありがとう」

『いや……』


浩市は少しだけ言葉を切った。

『……俺も、顔を見てやりたいからな』

メアリは静かに微笑んだ。


「ええ。そうね」


*** * ***


「……麗市」

「……ん?」


病室の椅子に座り、絵麗奈の手を握っていた麗市が振り返る。

扉のところには、浩市が立っていた。


「あ……父さん」

「迎えに来たぞ」

「……うん」


麗市は少し驚いたように目を瞬かせた。

「お父さん、今日は遅くなるんじゃなかったの?」

「予定が少し早く片づいてな」

「……そうなんだ」

浩市は病室へ入り、絵麗奈の顔を覗き込む。


「絵麗奈。父さんも来たぞ」

そう言って、娘の髪をそっと撫でる。

それから、麗市へ視線を向けた。


「……聞いたぞ」

「……え?」

「一人で来たんだってな」


麗市は少しだけ俯いた。


「……うん」

「怖かっただろう?」

「…………」


麗市は少し考えてから、正直に答えた。


「……うん。すごく、怖かった」

「そうか」

「途中で帰ろうとも思ったんだ」

「……うん」

「でも……」


麗市は絵麗奈の手を見つめた。

「エレ姉に会いたかったから」

「…………」

「それで、もう少しだけ頑張ってみようって」


浩市は黙って息子の話を聞いていた。

「……そしたら、乗れたんだ」

麗市は少し照れくさそうに笑った。

「……びっくりしたよ、僕も」


浩市は、その笑顔をしばらく見つめていた。

それから、麗市の頭に大きな手を置く。


「……そうか」

くしゃり、と。

優しく髪を撫でる。

「頑張ったな、麗市」

「…………」

麗市は目を瞬かせた。


「……お父さん」

「よく来たな」


その言葉は、驚くほど穏やかだった。

麗市は俯いた。


「……うん」

短く答えた声が、少しだけ震えた。

浩市はそれ以上、何も言わなかった。

ただ、息子の頭をもう一度撫でた。

それから、隣の椅子を引き寄せて腰を下ろす。


「さて。せっかく来たんだ。父さんも少し絵麗奈と話していこうかな」

「……うん」


麗市は微笑んだ。

父と二人で、眠る姉を見つめていた。


*** * ***


帰りの車の中。

麗市は助手席に座り、窓の外を流れる景色を眺めていた。

運転席では、浩市が静かにハンドルを握っている。

しばらく、二人とも何も話さなかった。


やがて、浩市が口を開いた。


「……麗市」

「ん?」

「今日、一人で〈キャビネット〉に乗ったことなんだが」

「……うん」

「父さんは、嬉しかったよ」


麗市は父を見た。


「……嬉しかった?」

「ああ」

「……どうして?」


浩市は前を向いたまま、小さく笑った。


「お前が、誰に言われたわけでもなく、自分で決めてやってみようと思ったからだよ」

「……………」

「怖いのは、簡単にはなくならないだろ?」

「……うん」

「だから、明日も一人で乗れとは言わない」


麗市は黙って父の言葉を聞いていた。


「無理をする必要もなんかない。紅麗亜と一緒に行けばいいし、俺たちが送れる日なら送ってやる」

「……でも」

「ん?」

「……僕、いつまでも誰かに頼ってばかりでいいのかな」


浩市は少しだけ目を細めた。


「……どういうことだ?」

「だって……」

麗市は膝の上で両手を握った。

「紅麗亜が一緒に来てくれなかったら、僕は姉さんに会いに行けないんだ」

「…………」

「お父さんもお母さんも、忙しいのに」

麗市の声が小さくなる。 


「……僕が、もっとちゃんとしてたら」

そこで言葉が途切れた。

浩市は少しの間、黙っていた。

それから、静かに口を開く。


「……麗市」

「……うん」

「誰かに頼ることは、悪いことじゃない」

「…………」

「父さんだって、母さんに助けてもらうことはある。仕事でも、誰かに助けてもらうことはしょっちゅうだ」

「……そうなの?」

「ああ。父さん一人で何でもできるわけじゃないからな」


浩市は笑った。

「それに、紅麗亜だって、麗市に助けてもらうことがあるだろう?」

「……ある、かな」 

「あるさ。お前が気づいてないだけかもしれないぞ」

「…………」


麗市は少し考え込んだ。

紅麗亜はいつも元気で、自分よりずっとしっかりしているように見える。

少なくとも、自分が妹の助けになっているという実感はあまりなかった。


「……麗市」

父の声に、顔を上げる。


「今日、お前は一人で病院まで行った」

「……うん」

「でも、帰りは父さんに迎えに来てほしいと頼んだ。そうだな?」

「……うん」

「それでいいんだ」

「……え?」

「一人でできることは、一人でやってみればいい。難しいことは、誰かに頼ればいい」


浩市は穏やかに続けた。

「大事なのは、全部を一人でやることじゃない」

「…………」

「自分に何ができて、何が難しいのか。それをちゃんとわかっていることだ」


麗市は、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと頷いた。

「……そっか」

「ああ」

「……じゃあ、今日は」

「ん?」

「……行きは一人で頑張って、帰りはお父さんに助けてもらった、ってことだね」

浩市は笑った。


「そういうことだ」

麗市も、少しだけ笑った。

「……ありがとう、お父さん」

「どういたしまして。父さんはね、こういう出来事が忘れ難い思い出になるものだと思うんだ」


車はすっかりと暗くなった道を走り続けた。


*** * ***


「レイ兄!」

帰宅して玄関を開けると、紅麗亜が勢いよく駆け寄ってきた。

「……紅麗亜?」 


「ちょっと! 一人で行ったって本当!?」

「……あ、うん」

「もう!」

紅麗亜は腰に手を当てた。

「なんで言ってくれなかったの!」

「……え?」

「行くなら連絡して!」

「……ごめん」

麗市が謝ると、紅麗亜は少しだけ口を尖らせた。

「……心配したんだからね」

「…………」

「お母さんから聞いて、びっくりしたんだよ?」

「……うん。ごめんね」

「もう」


紅麗亜は小さくため息をついた。

それから、麗市の顔をじっと見つめる


「……怖くなかった?」

「……怖かったよ」

「……そっか」

「すごく、怖かった」

麗市は少しだけ笑った。

「でも、何とか乗れたんだ」


紅麗亜は一瞬、目を丸くした。

それから、ゆっくりと表情を緩める。

「……そっか」

「……うん」

「……じゃあ」

紅麗亜は、にやりと笑った。

「お祝いだね」

「……え?」

「初めて一人で乗れたお祝い」

「……お祝い?」

「うん。何か美味しいもの食べようよ」

「……紅麗亜、それ自分が食べたいだけじゃない?」

「半分くらい?」

「……また半分?」

麗市が笑うと、紅麗亜も笑った。

「冗談だってば」


そう言って、紅麗亜は麗市を抱き締める。

「え………」

麗市は思わず体を反らすが、お構いなしにぎゅーっとしてくる。


紅麗亜がボソリと呟く。

「紅麗亜とハグするの嫌なの?」

「そ、そんなことないよっ!」

「………心配したんだからね!本当に。………でも」

「ん?」

「ほんと、頑張ったんだね」


紅麗亜の目が潤んでいるのを見て、何も言えなくなる。


「…………」


紅麗亜がようやく麗市から離れる。

麗市は少しだけ目を伏せた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

紅麗亜は満足そうに頷く。

「じゃ、明日は一緒に行こうね」

「……うん」

「約束!」

「うん。約束」


麗市は微笑んだ。

明日も、紅麗亜と一緒に病院へ行く。

それでいい。

今日、一人で乗れたからといって、明日も一人で乗れるとは限らない。

でも、それを情けないと思う必要はないのかもしれない。

少なくとも、今は。


「─────父さんは何を見さられているんだろうか」

背後に父さんが立っていた。

丁度、車を置いて家に入ってきたら、麗市と紅麗亜がハグをしていたのを目の当たりにしてしまったようだ。

麗市は何かを言おうと考えたが………まとまらず声に出来ない。

紅麗亜はにっこりと笑みを浮かべながら言った。

「お父さんとお母さんの真似をしているだけよ」

「………また一本取られたな」


父さんはそう呟いて靴を脱いだ。


*** * ***


その日の夜。

麗市は自室の机に向かっていた。

開いたノートには、今日の出来事が書き留められている。


学校でのこと。

姉に話したこと。

そして、一人で〈キャビネット〉に乗ったこと。

麗市はペンを止め、最後の一行を見つめた。


『今日は、一人で病院に行けた。』


たった、それだけの文章。

けれど、書き終えたとき、不思議と胸が温かくなった。


「…………」


麗市は机の上の写真立てに目を向けた。

写真の中では、絵麗奈がいつものように笑っている。

「……エレ姉」

麗市は小さく呟いた。

「今日ね、ちょっとだけ頑張れたよ」


もちろん、返事はない。

それでも、麗市は微笑んだ。

「……でも、まだ怖いんだ」

正直な気持ちだった。

今日のことを思い返すだけでも、胸の奥がざわつく。


扉が閉まる瞬間。

外の景色が消える瞬間。

あの感覚を、今でもはっきり覚えている。

もし、明日また一人で乗れと言われたら。

きっと、足が止まってしまうだろう。


「……それでも」

麗市は写真立てを手に取った。

絵麗奈の笑顔を見つめる。


「……いつか、もっと強くなれたらいいな」


誰かに頼らず、何でもできるようになりたい。

そんなことを、以前は考えていた。

けれど、今日、父に言われた言葉を思い出す。


『大事なのは、全部を一人でやることじゃない』


「…………」


麗市は少し考えた。

そして、小さく頷いた。


「……そうだね」

今は、まだ誰かの助けが必要だ。

紅麗亜がいてくれなければ、〈キャビネット〉に乗るのは難しい。

父や母にも、たくさん助けてもらっている。

それでも。いつか。

いつか、自分も誰かを助けられるようになりたい。


守られるばかりではなく。

守ることのできる人間になりたい。


「……エレ姉」


麗市は写真の中の姉に語りかけた。

「僕、少しずつ頑張ってみるよ」


その声は、まだ小さかった。

けれど、確かな思いが込められていた。

「……いつか、エレ姉みたいに」

麗市は少しだけ笑った。

「……誰かを守れるようになりたいな」


写真の中の絵麗奈は、いつものように笑っていた。

麗市は写真立てを元の場所へ戻し、ノートを閉じた。


明日も、学校へ行く。

そして、紅麗亜と一緒に病院へ行く。

姉の手を握り、今日あったことを話す。

そんな日々が、これからも続いていく。


けれど。


今日という日を、麗市はきっと忘れない。

怖くても、一歩を踏み出せたこと。

そして、帰る場所には、自分を待っていてくれる人たちがいること。

それを、初めて実感した一日だったから。


*** * ***


─────あの日。


エレ姉は、僕を守ってくれた。

自分だって怖かったはずなのに。

最後まで、僕を離さずにいてくれた。

あのときの僕には、何もできなかった。

ただ、エレ姉にしがみつくことしか、出来なかった。


それが、ずっと悔しかった。

今だって、何かが変わったわけじゃない。


エレ姉は、まだ眠ったままだ。

僕は、相変わらず怖がりで。

誰かに助けてもらわなければ、できないことがたくさんある。


それでも。

今日、ほんの少しだけ、前へ進めた気がする。

だから、エレ姉。


いつか。

いつか、僕も。

あの日のエレ姉みたいに、誰かの手を引いてあげられるようになりたい。


─────あと、もう少し。

あの日、エレ姉がくれた言葉を胸に。


僕は、もう一歩だけ、前へ進んでみようと思うんだ。

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