第4話 リラ
落ちて落ちて落ちて――。
闇に飲まれる感覚を味わいながら、リオティスはただ手を伸ばした。
それは生への執念ではない。
元より、彼には生きる目的がひとつしかないのだ。
その希望に、光に向かってただ手を伸ばす。
自分が生きる意味をくれた存在。
リオティスにとって、他の何よりも大切な人。
「リラ!!」
落ちていく最中、リオティスが叫んだのは大好きな少女の名前だった。
応えるようにして少女もまた手を伸ばす。
互いを求めるように、助けるように手を伸ばす。
触れ合う手と手。伝わる温度。
そして、リオティスは少女と目を合わせて――。
◇◇◇◇◇◇
暗い地獄の底で、リオティスは目を覚ました。
(ここは⋯⋯?)
状況を思い出そうと頭を回すが、酷い頭痛で上手く考えがまとまらない。
痛みに反射して額に手を当てると、ドロリとした気持ちの悪い感触が伝わる。恐る恐る手に付着したものを確かめようとしたが、辺りが暗いため目で確認することができず、代わりに血腥い匂いが鼻を刺激した。
「⋯⋯っ」
驚きつつも、冷静に再び頭を回す。
頭痛のせいか、血が足りないせいかはわからないが、やはり回転は遅い。だが、そんなことを言っていられる場合でもなかった。
まずは傷口にもう一度触れてみる。
痛みはするが差ほどでもなく、骨にヒビは入っていないようだった。
とりあえず命に関わるほどの怪我ではないと判断したリオティスは、次に何が起きたのかを思い出す。
(迷宮内でライラックに突き落とされた。つまり、ここは〝ネスト〟の中だよな)
頭上を見上げ、落ちてしまった穴の入り口を探そうとするが全く見えない。
かなり深い所まで落ちてしまったようだが、寧ろこれだけの怪我で済んでいることが不思議だった。
(いや、今はそんなことを気にする場合じゃない。まずはリラを探すこと。これが優先だ。俺が生きていたんだ、リラが死んでいるはずがない)
そう考えたリオティスは、なんとか立ち上がって今一度辺りを見渡してみる。
闇に覆われた空間。
その中で壁や地面に埋め込まれた鉱石が、ぼんやりとした微かな光で照らしてくれている。
とにかく前に進もう、とリオティスが足を一歩踏み出すと、グチャリという音と共に何かを踏んでしまったことに気が付いた。
「なんだ? この柔らかいものは」
すぐに下を向いたがやはり薄暗くてよくわからない。と、そこでリオティスはあることを思い出した。
自身のズボンのポケットに手を突っ込むと、慌てて目当ての物を引っ張り出す。そこに握られていたのは小さな石の欠片だった。
(やっぱまだ気が動転してたか。こんな大事な物を忘れていたなんて)
リオティスは今一度冷静になるよう己に言い聞かせつつも、その小石を地面に向かって投げつける。
すると、衝撃を受けた小石が瞬く間に緑色の光を放ち始めた。
これは、迷宮の壁や地面に埋め込まれている特殊な鉱石と同じ物で、その中でもさらに発光性の高い鉱石を砕いたものだ。このようにして強い衝撃を与えると発光し、しばらくの間辺りを照らしてくれる。
とりあえずは視界の悪さは解消されたため、リオティスは再び自分の足元を見た。
刹那、自身の鼓動が跳ね上がったのがわかった。
バクバクと煩く暴れ回る心臓に、嫌な汗がダラダラと止まらない。息も荒くなり、視界がぼやける様だった。
ゴクリ、とリオティスが唾を飲み込む音が響く。
「これは、魔獣の死体⋯⋯」
もはや原型も留めていないようなそれは、確かに生き物の一部であった。
咄嗟にリオティスの目は答えを追うようにして動く。
先ほどまではわからなかったが、辺り一面は真っ赤に染まっており、肉の塊がゴロゴロと転がっていた。
頭、腕、眼球、ただの肉片。
そんな見たくもないような惨たらしい情報が、一度にリオティスの頭の中に入り込んでくる。
たまらず吐き気が込み上げてくるが、ぐっとそれを我慢して情報の整理を行う。
(これは全て魔獣の死体。もうなんの魔獣なのかさえわからないが、これだけの数だ。間違いない。ここは〝ネスト〟の中だ)
そのことは頭ではわかっていたはずだった。
だが、こうして現実を見ることで改めてそれを思い知らされた。
〝ネスト〟にはとある生物が生息している。
それは魔獣と呼ばれるもので、獣の見た目をした怪物だ。
魔獣は凶暴で、さらには特殊な能力を持つ為、何の力も無い普通の人間ならば一瞬にして食い殺されてしまうだろう。
そんな魔獣が巣くうのが〝ネスト〟。
迷宮にしか出現しない怪物たちの住処。そこに今、リオティスは立っていた。
本来であればすぐにでも逃げ出さなくてはならない状況だ。
ましてやリオティスは無能力者。まず間違いなく魔獣に殺されてしまうだろう。
だが、リオティスは逃げるわけにはいかなかった。
(この魔獣達を殺したのは間違いなくリラだ。早く合流しないと)
リオティスは自身が投げつけた鉱石の欠片を回収すると、その光を頼りに先へと進んだ。
魂をすり減らすようにして一歩一歩前に進む。
その先ではやはり魔獣が死んでいて、むせ返るような獣の血の匂いが鼻を衝く。
死の匂いが充満する中、それでもリオティスは歩みを止めなかった。
苦しくても、逃げたくても、その先に会いたい人が居るからこそ前に進むことができていた。
リラの笑顔が見たい。リラのくだらない話が聞きたい。ただその一心で――。
そうして歩いた先で、何やら音がすることにリオティスは気が付いた。
肉を切るような音と、硬い物がぶつかるような音。
それを聞いたリオティスは、無我夢中でその場所へと走り出す。
辿り着いた地獄の果て。
そこにはリオティスが求めていた少女が立っていた。
「リラ!!」
嬉しさのあまり、リオティスは叫んでリラの元へと駆け付けようとした。だが――、
「⋯⋯リオティス」
今にも消えそうなか細い声。
その声を聞いてしまったリオティスの足は自然と止まっていた。
背中を向いたまま振り向こうとしないリラ。
彼女とは残り数メートルという距離だったが、何故かその先にリオティスは進めないでいた。
ボロボロの服。傷だらけの肌。
そして、足元に広がるありえないほどの血の量。
全ての情報を処理し終えた脳が導き出した答えは、リオティスにとっては到底受け入れることのできないものだった。
「リラ⋯⋯?」
認めたくない。
何かの間違いだ。
そう信じて、リオティスはリラの名前を呼んだ。
すると、リラは初めて後ろを振り向いた。
「ごめんね」
悲しい目をしたリラはそう言うと、次の瞬間にはリオティスの視界から消えていた。
代わりに現れたのは、全長五メートルは優に超えているであろう巨大な四足歩行の魔獣。リオティスの知る限りでは熊がもっとも近しい見た目をしていたが、それ以上の危機感を全身が発していた。
黒い毛皮に覆われ、体の所々に禍々しい闇を思わせるように不気味に輝く鉱石が埋め込まれている。特に前足部分は殆ど鉱石の塊といっても過言ではなく、その腕を振れば全てを破壊することができるだろう。だが、そんな凶悪さを持つ腕は既に振り終わった後であった。
ぐしゃり、と何かがリオティスの傍に落ちる。
見るな。
リオティスの脳がそのように指示するが、ついその方向を見てしまう。
壁に寄りかかる青色の髪をした少女。その自慢の綺麗な髪の殆どが赤く染まっている。そして、ぐったりと倒れたまま動く気配がない。
「オイ、嘘だよな? リラ」
やっとの思いで振り絞った声は震えていた。
「ま、また、俺をからかってるんだろ? なぁ?」
悲しみに枯れた喉は限界を迎えていたが、リオティスは声を止めることができない。
「なぁ、なぁ!! そうなんだろ!?」
だが、無慈悲にも、その声がもう届くことは無かった。
「ぐ、うぅぅ⋯⋯」
歩み寄って、リラの体を触ってようやくリオティスは理解することができた。
「ぅ⋯⋯ぅ⋯⋯」
消えていく温度。
強く握っても握り返さない手。
そうだ。もうリラは死んでしまっているのだ。
「うあああああああああぁぁぁっ!!」
リオティスの叫びが木霊する。
意味がないとわかっていても、それでも魂が揺れ続け叫ぶことがやめられない。
抱きしめるリラの体は本当に軽く、小さい。
こんな体で今まで戦ってきたのかと疑うほどに。
リラは少女だった。
恋をして、笑ったり怒ったり泣いたりするだけのただの少女だった。
そのことに、リオティスはようやく気が付いたのだ。
泣き叫ぶリオティスの元に、リラを殴り殺した魔獣が迫る。
その目には意思が感じられず、深い黒色の闇を宿すだけ。魔獣は本能に従い、次なる獲物に向かって腕を振り上げた。
リラを抱きかかえるリオティスはそれを見つめるだけで、もう何もするつもりはなかった。
(リラが死んだ今、俺が生きる意味なんて⋯⋯)
リオティスから完全に生気が剥がれ落ちた時、目前には既に魔獣の手が迫っていた。