第2話 リオティス②
迷宮内に取り残されたリオティスとリラ。
二人の間に居心地の悪い沈黙が流れるが、それを嫌ったリオティスは移動するべく立ち上がろうとした。だが、
「危ない!」
足の力が抜け、崩れ落ちるようにして倒れかけたリオティスの体をリラが慌てて受け止めた。
先ほどまで握っていた短剣も落とし、その小さな両手で支えている。彼女の優しさが、温もりが、匂いがリオティスを包み込み、少しの安堵と罪悪感を与えた。
そんな彼女に触れていたいという甘い欲望をグッと堪え、リオティスは自身の力で今度こそ立ち上がると、申し訳なさそうに俯いた。
「悪い、ちょっとバランスを崩した。けどもう大丈夫だ」
「大丈夫って、そうは見えないけど?」
「気にするな。いつものことだろ」
そう、これはいつものこと。
ライラックたちは毎日のようにリオティスに対して、執拗なほどの嫌がらせをしていた。時には水を掛けられ、食事には泥を入れられ。もはや、リオティスにとってはそれが当たり前となってしまっているのだ。
だからこそ、今回の暴力も仕方がないこと。
実際、リオティスの気にしていないという言葉に嘘は無かった。
だが、それはリラにとっては違う。
彼女は殴られて青白く変色しているリオティスの頬にそっと手で触れると、今にも泣きだしそうな声で言った。
「ごめんね。私がいなかったばっかりに」
「お前は迷宮の見回りをしてたから仕方ないだろ。これは休憩中に油断して寝ていた俺のせいだ。それに昔と比べて大分マシになったしな。⋯⋯全部お前のお陰だ」
心の底からリオティスはそう感じていた。
リラは無力な自分を庇い、手の届く範囲で守り続けてくれている。だが、だからこそ、リオティスの内には感謝と同じほど大きな罪悪感もあった。
「悪いないつも。迷惑かけて」
「ううん、私の方こそ。⋯⋯ごめん」
リラが謝ると、静寂が再び二人を包み込んだ。
暗く、鉛のように重い空気の中、リオティスは自身の弱さを嘆くことしかできなかった。
(俺に力があれば、リラにこんな悲しい顔なんてさせなかった。いつからだ、俺たちの中に隔たりができたのは?)
昔はこうではなかった。
二人でくだらない話をして、夢を語って、笑顔に溢れていた。そう、あの夢の出来事のように――。
「⋯⋯そういえば、さっき夢の中で昔のことを思い出してさ」
気が付くと、リオティスの口からは無意識に言葉が零れ出していた。
「昔、お前と写真を撮っただろ? 何でかその時のことを夢で見た」
「夢⋯⋯? どうしたの急に?」
「いや、特に意味はないけど」
またしても言葉が途切れる。
だが、リラも気が付いていた。リオティスが重い空気を払うためにしたことを。それが彼なりの不器用な優しさだということを。
だからこそ、リラは努めて笑顔を作ってみせた。
「あっ、もしかしてあの時の写真見たくなった? いいよー、見せてあげる! 誰かさんのぶっきら棒な可愛いお顔」
「誰も見せろとは言ってないだろ!」
「私は毎日見てるけどね。今だって大事に持ち歩いてるし⋯⋯」
「だから見せんなって! 後それさっさと捨てろよ!」
「えへへ、嫌だよーだ」
くだらない会話で盛り上がる二人。
どこか昔に戻ったようにすら感じられた。
「⋯⋯本当、あの頃は良かったよね。まだお父さんも元気だったし」
「悪い、思い出させて」
「ううん、大丈夫。それにお父さんのこと大好きだったのは君も同じでしょ?」
リラの言葉に、リオティスも昔のことを思い出す。
今から十年前。
幼かったリオティスは気が付くと、見知らぬ街に立っていた。
どうして自分がここにいるのか。そもそも自分が何者なのかさえわからない。何故なら、その時の彼には名前以外の記憶が全て失われていたのだ。
多くの人が見て見ぬふりをする中、雨で凍え死にそうだったリオティスを助けた男こそ、当時〈花の楽園〉のギルドマスターであり、リラとライラックの父親でもあるゼアノスだった。
「ゼアノス団長は記憶の無かった俺を救ってくれた命の恩人だ。今でも忘れたことはない」
「そっか。まっ、なんせ可愛い見た目と裏腹に、捻くれた性格なのは私のお父さん譲りだもんね」
「うるさいな。別に真似てるつもりはない」
「はいはい」
少しだけ嬉しそうにリラは笑う。
無邪気で、明るく、見ているだけで心が洗われる。
そんな彼女の笑顔にどれだけ自分が救われたことか。
ゼアノスに拾われてからというものの、リオティスは〈花の楽園〉で雑用を熟すだけの日々を送っていた。本人はそれでも良いと考えていたが、その時から周りの反応は冷たかった。
戦闘能力も記憶も無いリオティスのことをよく思わない人々がいるのは、この世界では当然のことだ。
だが、リラは違った。
彼女は自分のことをひとりの人間として見て、いつだって笑顔を振りまいていた。それがリオティスにとっては何よりも嬉しかった。
だからこそ、彼女の悲しむ顔だけは見たくない。
その一心で努力をし、気が付けば他のギルドメンバー達にも認められるようにまでなっていた。
そう、全てが順調だった。
二年前のあの日までは――。
「団長がいてくれたらな」
ついポロリと出てしまった言葉に、リオティスはしまったと口を抑えた。
だが、リラは気にしてはいないようで、同感するように頷く。
「そうだね、でも仕方ないよ。お父さんも人間だもん。病気には勝てない」
それは、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。
「お父さんが二年前に死んでから、お兄ちゃんが代わりに団長になった。そして全てが変わっちゃった」
「どうしてお前が団長にならなかったんだ? そうしたら⋯⋯」
「無理だよ私には。それにお父さんの力を受け継いだのはお兄ちゃんだから」
「でもお前にだって!」
と、そこでリオティスは言葉を止め、地面に落ちたままとなっていたリラの短剣に手を伸ばした。
その行為にリラは待って、と止めようとしたが既に遅く、リオティスは短剣の柄を握った。
刹那、バチッと乾いた音が鳴り響くと、リオティスの手に激しい電流のような衝撃が走り抜けた。
焼けるように痛む手が悲鳴を上げ、リオティスはたまらずに短剣を落としてしまう。
「ぐっ、痛ェ⋯⋯」
「もぉ、何やってるの君!」
「触れないもんだなやっぱ。けどお前は違うだろ?」
リラはそこで初めてリオティスの意図を理解した。
(本当、馬鹿だよ君は。でもそんな君だから私は⋯⋯)
今度はリラが、そっと短剣に向かって手を伸ばす。
だが、彼女の手で触れても電流のような激しい痛みは襲ってこなかった。
その短剣を見つめ、彼女は優しく抱きしめると、腰にある鞘へと納めた。
「確かに君の言う通り、私もお父さんの意思を受け継いでいる」
「あぁ、だからお前にも団長になる権利があるだろ?」
「それは⋯⋯やっぱりできないよ。ごめん。けど大事なことを思い出させてくれてありがとね。リオティス」
それだけ言うと、リラはライラック達の後を追いかけるように迷宮の奥へと歩き出した。まるで何かから逃げ出すように――。
「リラ⋯⋯」
リオティスが小さく呟くが、その声は誰にも届かない。
こうして一抹の不安を抱えながら、リオティスも迷宮の奥へと足を踏み出した。