第41話 修行①
書庫を後にしてから、しばらく歩いた頃。
バルカンに連れられて辿り着いたのは、屋敷の一角に設けられた訓練室だった。
四方を白一色に染め上げられた正方形の空間。壁も天井も床も、余計な装飾は一切なく、どこまでも無機質な白が広がっている。光源らしきものは見当たらないが、室内は昼間のように明るかった。
ここはリリィの実家に備えられた訓練室のひとつだ。
構造そのものは、〈日輪の獅子〉にあるものと大差ない。おそらく、あちらと同じくメモライトによって造られているのだろう。多少激しい戦闘を繰り広げたところで、簡単に壊れるような代物ではないはずだ。
バルカンは部屋の中央まで進むと、くるりと振り返った。
「さて、そんじゃ〝開花〟について簡単に説明するぞ」
両手をぶらぶらと揺らし、肩の力を抜く。右足のつま先で床を軽く叩きながら、どこか気楽な調子で口を開いた。
「リオティス。お前、そもそも〝開花〟について知っていることはあるか?」
「いいや全く。だが、ある程度の見当はついている。迷宮を攻略した時にお前らが見せたアレだろ?」
リオティスの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
迷宮を攻略した直後。
オヴィリオンの幹部、アウルが姿を現した。
交渉の余地などない。
互いの思惑が交錯するなか、戦闘が始まろうとしていた、そのときだった。
アウルとバルカンが口にした、〝開花〟という言葉。
次の瞬間、二人の身体から放たれた力は、それまで目にしてきたどんな能力とも一線を画していた。
黒く染まった瞳。周囲の空気すら塗り返す程の圧迫感。手の甲に刻まれた記憶者の痣は、まるで生き物のように腕を這い上がり、やがて頬にまで達していた。
あれは、単純に能力を強化したという次元の話ではない。
人間が本来持ち得る力の限界を、強引に踏み越えたような姿だった。
その光景は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
「あの時、お前らはたしかに〝開花〟と言った。一体何なんだあの力。普通じゃない」
「その通りだ。〝開花〟は尋常じゃない力を記憶者から引き出す。それも無理やりにな」
バルカンは軽く首を回し、肩や腕をほぐしていく。先ほどまでの気楽な態度は変わらない。だが、言葉を続ける頃には、その視線にわずかな鋭さが宿っていた。
「〝開花〟は記憶者にしかできない。だが、できる記憶者も限られている。鍛錬だけでは到底たどり着けない境地。才能のある記憶者にしか扱えない⋯⋯身を亡ぼす力だ」
「身を亡ぼす?」
思わず聞き返す。
あれほどの力を得られるというのなら、多少の代償が伴うことくらい想像できる。だが、身を亡ぼすという表現は穏やかではなかった。
バルカンは短く頷く。
「ああ。〝開花〟は負担が途轍もなく大きい。使えても一日に十分が限度だ。さらに、〝開花〟の後は暫くの間、能力の使用ができなくなる。圧倒的な力の反動ってわけだ」
圧倒的な力には、それ相応の代償がある。
十全に扱える時間は、たったの十分。
それを過ぎれば、しばらくは自分の能力すら使えなくなるのだ。
決して無視できる制約ではない。
それでも、リオティスの胸に湧き上がったのは恐怖だけではなかった。
あの日、目の前で繰り広げられた光景が脳裏をよぎる。
あらゆるものを圧倒し、常識を覆すほどの力。敵の前に立ちはだかり、絶望的な状況さえひっくり返してしまう可能性。
その一端を、自分も手にできるかもしれない。
そう考えただけで、胸の奥が熱を帯びた。
「どうだ? ビビったか?」
バルカンは口元を吊り上げ、わざとらしく挑発してくる。
「やめるなら今が最後だ。お前なら〝開花〟を身に着けなくとも他に強くなる方法はある」
軽い口調とは裏腹に、その目は笑っていなかった。
脅しているわけではない。
無理に先へ進ませるつもりもないのだろう。
この力が持つ危険性を知っているからこそ、最後の確認をしている。
リオティスは少しだけ視線を落とした。
「⋯⋯ひとつだけ教えてくれ」
自分でも意外なほどに、低く静かな声だった。
「俺には〝開花〟を使えるだけの才能があるのか?」
「ある。これは勘だがな。ただ、〝開花〟の使える人間は同じように才能を持つ人間を見分けることができるんだよ。力と才能。それがお前にはある」
「なら悩む必要なんて無い」
リオティスは顔を上げる。
その瞳には、揺らぐことのない意志が宿っていた。恐怖が消えたわけではない。自分がこれから踏み込もうとしている領域の危険性も、十分に理解している。
それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
「俺は強くなりたい。もう二度と誰も失わないように。そのためなら、この命を懸けたっていい」
「⋯⋯その言葉を聞けてよかったよ」
バルカンは小さく笑った。
その表情には、どこか安堵したような色が浮かんでいた。
だが、それも一瞬のこと。
次の瞬間には、右手を握り込み、拳を固く作っていた。指の関節が軋むほどの力が込められる。
「そんじゃ、まずは実際に〝開花〟を味わってもらう。リオティス。お前は十秒間、防御にだけ徹しろ」
「⋯⋯十秒間」
思わず言葉を繰り返す。
十秒。
普通に考えれば、あまりにも短い時間だ。戦闘において、十秒という時間は決して長くない。相手の力量を確かめるにしても、もう少し余裕を持たせてもいいはずだった。
何も知らない頃の自分なら、馬鹿にしているのかと食ってかかっていたかもしれない。
だが、今は違う。
リオティスはもう知ってしまったのだ。
たった一度目にしただけで、心の奥底にまで刻み込まれるほどの力。人間の領域を踏み越えた、あの異様な存在感。
十秒という制限が、決して短いものではないことを、リオティスは理解していた。
喉の奥が乾く。
リオティスはごくりと唾を飲み込み、左手を腰へと伸ばした。鞘から短剣を引き抜くと、黒い刀身が室内の光を受けて鈍く輝く。
「ふぅ⋯⋯いつでもいいぜバルカン」
「言っておくが、〝開花〟後は手加減なんてできない。⋯⋯絶対に死ぬなよ」
バルカンの声音が変わった。
先ほどまでの気安さは消え、そこにいるのは、幾度もの死線をくぐり抜けてきた歴戦の戦士だった。
握り込んだ拳をゆっくりと前へ突き出す。
そして――。
「〝開花解放〟。轟け〈怠惰の神〉」
刹那、訓練室を満たしていた空気が、一変した。
ずしり、と何かが全身にのしかかる。
目に見える変化はない。それでも、空間そのものが重く沈み込んだような感覚があった。
黒い殺気が室内を満たしていく。
足元から這い上がるような圧迫感。肌を撫でる冷たい気配。呼吸をすることさえ躊躇われるほどの異様な空気が、リオティスの身体を包み込んだ。
これが〝開花〟。
人の身に宿るには、あまりにも過剰な力。
抗うことなど許されない、絶対的な強者の存在を前にしたかのようだった。
あの日と同じだ。
迷宮でアウルとバルカンが放った、あの底知れない力。
忘れたくても忘れられない恐怖が、再びリオティスの心を侵食していく。
「ぐっ」
指先が震えた。
短剣を握る手に力が入らない。足裏が床に張り付いたように動かず、膝が小刻みに揺れる。
逃げろ。
頭のどこかで、そんな声が聞こえた気がした。
勝てるはずがない。
敵うわけがない。
このまま立ち向かえば、間違いなく死ぬ。
次々と湧き上がる負の感情が、思考を塗り潰していく。心臓は激しく脈打ち、背中を伝う汗が衣服に染み込んでいった。
身体が本能的に拒絶している。
目の前にいる男は、もはや自分の知るバルカンではない。
それでも、リオティスは視線を逸らさなかった。
震える足を踏みしめ、短剣を握る手に力を込める。逃げ出したいという衝動を押し殺し、ただ真っ直ぐにバルカンを見据えた。
ここで退くわけにはいかない。
もう、二度と大切な人を失いたくない。
そのために強くなると決めたのだ。どれほどの恐怖に晒されようと、どれほど無力さを思い知らされようと、ここで背を向けることだけはできなかった。
全身から嫌な汗を拭きだしながらも、リオティスは口元を歪めた。
恐怖に引きつった顔ではない。
挑戦者として、目の前の強敵に向けた笑みだった。
「言っただろ。いつでもいいってな。こいよバルカン!」
「遠慮はしねェからなッ!」
バルカンが床を蹴った。
踏み込んだ足元から、黒い稲妻が弾ける。
バリバリと耳をつんざく音を立てながら、幾筋もの黒光が空間を駆け抜けた。瞬く間に広がったそれは、逃げ場を塞ぐように訓練室を覆い尽くしていく。
視界が黒に染まる。
迫り来る一撃を前に、リオティスは短剣を構え直した。
受け止められる保証などない。
防ぎ切れる確信もない。
それでも、退くという選択肢はなかった。
「死ぬなよ!」
「誰が死ぬかよ!」
黒い稲妻が、リオティスへと襲いかかる。
その瞬間、彼は一歩も引かなかった。
正面から迫る圧倒的な力に向かって、短剣を振り抜く。
黒い刃が、黒い閃光を迎え撃った。
開花には大きく分けて2種類あります。
詳しくは少し先の話で。




