第42話 修行②
「もぉダメニャア。ニャルンちゃんは寝るニャ!」
悲鳴にも似た声が、白い訓練室に響き渡った。
直後、猫獣人のニャルンは両手を投げ出し、背中から床へと倒れ込んだ。どさりと鈍い音が響く。額から頬へと汗が伝い、荒い呼吸が小刻みに繰り返される。
天井を見上げたまま、ぴくりとも動かない。
もはや指一本動かす気力すら残っていないようだった。
「丁度交代の時間だな。よし、次はフィトの番だ」
リリィは倒れたニャルンを一瞥すると、さして気に留める様子もなく、訓練室の隅へと視線を移す。
そこではフィトが、黙々と自主鍛錬を続けていた。
「待たせたなフィト。さっさと始めるぞ」
「ボクは嬉しいのですが⋯⋯ッ」
フィトは逆立ちの姿勢から、さらに腕を曲げた。
両腕に体重を預け、床すれすれまで身体を沈める。そこから一気に力を解放すると、腕の力だけで宙へと跳び上がった。
空中で身体をひねり、重心を巧みに操る。
くるりと回転した身体は、ほとんど音を立てることなく両足で床を捉えた。
「リリィさんは休憩いいんですか? ずっと動きっぱなしじゃないですか」
「構わん。こうでなくては腕がなまる」
リリィは額に滲んだ汗を腕で拭った。
呼吸に乱れはない。身体にも目立った疲労の色は見受けられなかった。せいぜい軽く身体を動かした後といった程度だろう。
だが、実際には二時間近くも訓練を続けている。
相手にしていたのは、ただの一般人ではない。記憶者であるニャルンだ。
持ち前の敏捷性を生かし、目にも留まらぬ速度で動き回る彼女を相手に、リリィは一歩も引くことなく付き合っていた。
それだけの運動量をこなしながら、この余裕。
底知れない体力だった。
「流石ですね。ボクも体力には自信があるのですが、リリィさんには敵いそうにないです」
「この程度でバテているこいつが悪い。鍛錬不足だな」
「ニャァ⋯⋯」
床に転がったニャルンが、恨めしそうに小さく呻いた。
だが、リリィは聞こえていないとばかりにフィトへ向き直る。
フィトにも特に気にした様子はなく、彼女の正面に立った。
「実戦形式でいいんですよね?」
「ああ。貴様ら二人にはその方がわかりやすいだろう。特にフィト。貴様にはな」
リリィは肩を回し、軽く腕を伸ばした。
「貴様は魔力での近接戦闘が得意なようだが、まだ足りない。魔力の量。技術。そして、遠距離に対しての弱さ。まずはそれらを徹底的に鍛える」
指摘を受けたフィトは、自分の両手を見下ろした。
魔力の扱いには自信がある。量も、制御の技術も、これまでの鍛錬で磨き上げてきたつもりだった。
だが、それだけでは足りない。
記憶者と渡り合うには、まだ何かが欠けている。実戦を重ねるたびに、その事実を痛感させられていた。
「リリィさん。ボクは魔力で身を纏うとき、どうしても全力を出せないんです」
「肉体が魔力に耐えることができないから、だな」
「ハイ」
フィトは両手を強く握り込んだ。
彼女は戦闘時、常に魔力を最大出力で纏っているわけではない。
魔力を温存する必要もあるが、それ以上に深刻なのは肉体への負担だった。
仮に百パーセントの魔力を纏うことができれば、攻撃の威力は飛躍的に向上するだろう。今まで届かなかった領域にすら手が届くかもしれない。
だが、その代償は大きい。
身体が出力に耐えきれず、内側から損傷してしまうのだ。
現在のフィトが安定して扱えるのは、せいぜい九割程度。それでも長時間維持すれば、戦闘後に身体を動かすことさえ困難になる。
力を引き出すほど、自分自身が壊れていく。
それでは意味がなかった。
「ボクはどうすれば強くなれるのでしょうか」
「簡単だ。魔力の密度を上げればいい」
リリィは自分の手首を握り、確かめるように指を動かした。
「私も魔力には詳しくないが、方法は知っている。貴様は魔力で肉体だけを覆っている状態だ。それでは内側が衝撃に耐えられない。ならば、芯の芯まで魔力で覆えばいい。肉体の内へ、骨へ、そして細胞のひとつひとつにまで。全てを魔力で守れ。密度を高めろ。そうすれば全力の魔力攻撃にも肉体が耐えられるはずだ」
フィトの目が大きく見開かれた。
魔力を身体の外側に纏わせる。それが彼女のこれまでの常識だった。
肉体を守るために、さらに内側へ魔力を浸透させる。
そんな発想はなかった。
「そんなことが可能なのですか!?」
「そのはずだ。私には理解ができない話だがな。これは、貴様の兄が考案したものだ」
「兄さんが⋯⋯?」
その名前を聞いた途端、フィトの表情が変わった。
胸の奥を、鋭い何かで抉られたような感覚が走る。
懐かしさよりも先に、あの日の光景が蘇った。
血の気が引くような恐怖。どうしようもない無力感。そして、すべてを奪った男への憎悪。
押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「⋯⋯教えてください兄さんのことを。そして、あの男の事を」
フィトは顔を上げた。
その瞳には、隠しようのない怒りが宿っている。
「兄さんを殺した男⋯⋯〈月華の兎〉の元副団長、ローレルのことを」
突き刺すような視線を、リリィは正面から受け止めた。
しばらく沈黙が流れる。
やがて、リリィはわずかに目を細めた。そこには、普段の厳格な表情とは異なる、悲しみに似た色が浮かんでいた。
「⋯⋯やはりそうなるか。フィト。貴様の目的は兄を殺した男への復讐なのだろう?」
「そうです。そのために、ボクはここまで強くなったんです」
「バカルカンが心配していたぞ」
リリィは努めて落ち着いた声で告げた。
だが、その言葉はフィトの心を鎮めるどころか、逆に火を注ぐ結果となった。
ぎりり、と奥歯が鳴る。
フィトは床を強く踏みつけた。
「関係ないことです! 復讐は何も生まない。報われない。誰も望んじゃいない。そんな言葉はもう沢山なんです。これはボクが決めたことです。あの日、目の前で兄さんを殺された時から、この気持ちは変わらない。ボクは、誰に何と言われようと⋯⋯あの男を殺します」
「⋯⋯フィト」
リリィは言葉を失った。
彼女には、フィトの気持ちが痛いほど理解できた。
脳裏に浮かぶのは、かつて共に過ごした仲間の姿。
いつ会っても、彼は妹の話ばかりしていた。どれほど些細な出来事であっても、嬉しそうに語るその顔を、リリィは今でも覚えている。
あの頃は、そんな日々がいつまでも続くものだと思っていた。
だが、もう戻らない。
どれだけ言葉を重ねたところで、失われた時間も、フィトの心に刻まれた傷も消えることはない。
復讐をやめろと説いたところで、彼女が抱えるものを理解したことにはならないのだ。
リリィは小さく息を吐いた。
「⋯⋯いいだろう。私が知っていることを貴様に教える。ただし」
そこで言葉を切ると、両手を握り、拳をフィトへと向けた。
「貴様が私に一撃でも入れられたらな。その方が訓練に身が入るだろう?」
「⋯⋯二言はないですね」
「ああ」
フィトの表情が引き締まる。
彼女は静かに腰を落とし、両手を構えた。
先ほどまでの穏やかな雰囲気は、もうどこにもない。全身から放たれる圧は、怒りと憎しみを孕んだ、どす黒いものへと変わっていた。
もはや説得のための言葉は必要ない。
リリィが知る真実を得るために、フィトが示すべきものは一つ。
己の力だ。
「やはり、こっちの方がわかりやすいな」
リリィは真剣な面持ちでフィトを見据えた。
次の瞬間、鋭く拳を突き出す。
それが、二人の訓練の始まりだった。
◇◇◇◇◇◇
別の訓練室にて――。
先ほどから、威勢のいい声が室内に響き渡っていた。
「うがー! 全然わからん! マナなんてひとつも視えないぞ!」
「集中しろ。さっきから教えているだろ」
ウィルドは額に手を当て、深いため息を吐いた。
彼の目の前では、タロットが頭を抱えている。何度も同じ説明を繰り返しているというのに、本人には一向に理解できていないらしい。
ウィルドは仕方なく空中へ指を向けた。
「あの場所にマナを濃く溜めた。薄っすらとだが視えてくるだろう」
「いや視えん!」
「⋯⋯精霊との意思疎通は?」
「全くできない!」
「ハァ」
あまりにも堂々とした返答だった。
悪びれる様子もなく胸を張るタロットを前に、ウィルドは溜息をつくことしかできない。
同じ魔法師として、彼女を一人前に導くつもりでいた。ところが、蓋を開けてみれば想像以上の難題だった。
何時間も初歩的な訓練を続けているにもかかわらず、ほとんど進展がない。
マナを視認することすらままならず、精霊との意思疎通に至っては、未だ入口に立つことさえできていなかった。
この調子では、せっかくの合同訓練が基礎の確認だけで終わってしまう。
「もういい。今日の残りは座学だな」
「タロットは勉強が苦手だ!」
「だからこうして教えているのに一向にできる気配がないだろ。諦めろ。明日には対策を考えてくる」
ウィルドの言葉に、タロットは不満そうに頬を膨らませた。
それでも、さすがにこれ以上続けても成果は望めないと理解したのか、渋々と頷く。
ちょうどそのとき、二人のもとへ足音が近づいてきた。
「じゃあ休憩にしますか! 私、お茶淹れてきますよ」
ロメリアだった。
彼女は二人の様子を見て、朗らかに笑いかける。
「あぁ、悪いが頼めるか?」
「お安い御用です!」
元気よく返事をすると、ロメリアは軽い足取りで訓練室を出ていった。
扉が閉まる。
その背中を見送っていたウィルドは、しばらくしてから小さく愚痴をこぼした。
「あの女のように物覚えがよければな」
「酷いぞ! タロットだって頑張ってる!」
すぐさま抗議の声が飛んでくる。
ウィルドは相手にするのも面倒だとばかりに、タロットから距離を取るように歩き出した。
「頑張っているのはわかるが、もう少し静かにしてくれ。考えがまとまらない」
「それは悪かった。元気と明るさと強さが取柄でな!」
まるで反省していない。
むしろ誇らしげに笑うタロットに、ウィルドは呆れたような視線を向けた。
だが、彼女に才能がないわけではない。
むしろ、その逆だった。
タロットの魔法には、確かな素質が感じられる。実際、彼女は複雑な理論を知らずとも魔法を扱えていた。
問題は、その過程を本人が理解していないことだ。
感覚だけで魔法を使っている。
それも、あまりに自然に。
理論を積み上げて魔法を習得してきたウィルドにとって、それは理解しがたい現象だった。何をどう教えればいいのか、手掛かりすら掴めない。
少し考えた末、ウィルドは話題を変えることにした。
「ロメリアが来るまで少し話すか。お前はいつから魔法が使えたんだ?」
「いつからって、そりゃあ生まれつきだが」
あまりにも当然のように告げられた言葉。
ウィルドは再び頭を抱えた。
「⋯⋯嘘だ、といいたいが本当なんだろうな。一体どうなっているんだお前」
「天才だからな!」
「ハァ、それじゃあなんだ。家族全員が優れた魔法師の家系か何かなのか?」
魔法師の才能は、ある程度遺伝すると考えられている。
必ずしも親の才能が子に受け継がれるわけではない。魔法の素質には個人差があり、親が優秀だからといって、その子供も同じように優れた魔法師になるとは限らないのだ。
それでも、魔法師の血を引く者は、そうでない者と比べて魔法の才能を持つ可能性が高い。
これほどの力を生まれつき備えているのなら、何か特別な家系に生まれたのではないか。
ウィルドはそう考えた。
ところが、タロットの反応は予想とは異なるものだった。
先ほどまでの騒がしさが、嘘のように消えていた。
いつもなら真っ先に自慢話を始めそうな彼女が、俯き気味に口を閉ざしている。
その顔には、似つかわしくない暗い影が差していた。
「⋯⋯優れたかどうかは知らないが、才能のある親はいる。とてつもなく大きな才能を持った」
普段の快活さからは想像もつかないほど、重みのある言葉。
ウィルドはその変化を見逃さなかった。
どうやら、触れてはいけない事情があるらしい。
これ以上尋ねるべきではない。そう判断し、話題を変えようと口を開きかけた。
そのときだった。
「お待たせしました! お茶とお菓子をお持ちしましたよ!」
明るい声が、訓練室の空気を一気に塗り替えた。
ロメリアが両手に盆を抱えて戻ってきたのだ。
「寧ろ随分早かったな」
「えへへ、ちょっと頑張ってみました」
ロメリアは少し照れくさそうに笑いながら、二人の前に紅茶を差し出した。
湯気とともに、柔らかな香りが漂う。
その傍らには、綺麗に盛り付けられた菓子も添えられていた。
「はい、タロットさんもどうぞ」
「おお! 美味しそうだな!」
タロットは先ほどまでの沈んだ様子が嘘だったかのように、いつもの調子で紅茶を受け取った。
早速、目の前の菓子へと手を伸ばす。
訓練室には再び、穏やかな空気が戻っていた。
ウィルドも椅子代わりの台に腰を下ろし、手元の紅茶を口に運ぶ。
温かな液体が喉を通り、張り詰めていた気持ちがわずかに緩んだ。
名前だけは出ていたローレル。
第一章の幕間にて一度だけ登場していましたね。




