第40話 昔々のお話
早朝六時。
窓の向こうでは、夜の名残を宿した薄青い空が、ゆっくりと朝の色へ移り変わろうとしていた。
屋敷の廊下には、まだ人の気配がない。磨き上げられた床に窓から差し込む淡い光が伸び、静寂の中、ときおり遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
そんな廊下を、リオティスは寝ぐせの残る頭で歩いていた。
「⋯⋯眠ぃ」
欠伸を噛み殺し、片手で乱れた髪を押さえる。
普段なら、まだ夢の中にいてもおかしくない時間だ。
だが、今日ばかりはそうもいかない。
昨日の会議で決まった通り、本日から団員ひとりひとりに合わせた個別訓練が始まるのだから――。
「⋯⋯で、なんで書庫なんだよ」
リオティスは目の前の扉を見上げ、深々と溜息をついた。
バルカンから指定された場所は、訓練室ではなかった。
リリィの実家である屋敷。
その地下に設けられた、巨大な書庫だったのである。
「朝っぱらから読書会でも開くつもりか?」
悪態をつきながらも、ここまで来た以上、帰るわけにはいかない。
広大な屋敷の中で少々迷いはしたものの、早めに出発したおかげで約束の時間には間に合っていた。
リオティスは気を取り直し、目の前の扉に手をかける。
ギギギ、と軋んだ音が、薄暗い地下へと吸い込まれていった。
「⋯⋯想像はしていたが、こりゃ凄ェな」
思わず、感嘆の声が漏れる。
扉の先に広がっていたのは、予想をはるかに超える空間だった。
天井まで届きそうな本棚が幾重にも並び、壁際から奥の奥まで、ありとあらゆる書物が収められている。背表紙の色も大きさもばらばらで、古びた革装丁の本から、比較的新しい紙の本まで、その種類は実にさまざまだ。
鼻をくすぐるのは、乾いた紙と古い革の匂い。整理整頓は行き届いているようだが、本棚の隅や窓枠には、うっすらと埃が積もっている。
人の手が入っていないわけではない。
だが、日常的に利用されている場所とも思えなかった。
リオティスが物珍しげに辺りを眺めていると、書庫の奥から聞き慣れた声が飛んできた。
「おう、来たか。リオティス」
声のした方へ目を向ける。
大量の本が積まれた長机。
その向こうに、椅子へ腰掛けたバルカンの姿があった。
目の前には何冊もの書物が開かれている。
本人も一冊を手にしていたが、リオティスが近づくと、栞を挟んで静かに閉じた。
「迷わなかったか?」
「少しな。それより、ここで何をするんだ? まさか、本を読んで一日過ごすわけじゃないよな」
軽口を交わしながら、リオティスは机の向かいに立つ。
すると、バルカンが手元の本から視線を上げた。
「訓練を始める前に、お前に話しておきたいことがある」
「話?」
「ああ。本当は、合同訓練の話が決まった日に伝えるつもりだったんだがな」
リオティスは記憶を辿った。
合同訓練の開催地がフクシア島に決まった日。
リリィが〈月華の兎〉を訪れた、あの日のことだ。
確かに、バルカンは何かを話そうとしていた。
だが、リリィの来訪やフクシア島での訓練に関する話が重なり、結局、その機会は失われた。
「⋯⋯オヴィリオンのことか?」
その名を口にした瞬間、バルカンの目がわずかに細くなった。
「やっぱり気づいてたか。相変わらず察しがいいな、お前は」
「アイツらの本拠地でも見つかったのか?」
「いや。残念ながら、そっちはまだだ」
バルカンは短く息を吐く。
「だが、連中が何を目的に動いているのかはわかった。なぜ記憶者狩りを続けているのか。その理由がな」
「なっ!?」
眠気が吹き飛ぶほどの衝撃だった。
オヴィリオン。
迷宮でリコルの命を奪った、忌まわしい組織。
あの日、オヴィリオンの手によってリコルが失われたことを、リオティスは忘れていない。
なぜリコルが狙われたのか。
何を求め、何のために人の命を踏みにじるのか。
どれほど考えても、見つからなかった答えが、今目の前にある。
「一体何なんだ、その目的って!」
「落ち着け。焦る気持ちはわかるが、まずはこれを読んでくれ」
バルカンが机の上から一冊の本を取り上げ、リオティスへ差し出した。
分厚い専門書や年代物の資料が並ぶ中、それはひどく場違いな代物に見えた。
手のひらほどの大きさ。
薄い紙を束ねた、簡素な装丁。
表紙には、色とりどりの花に囲まれた二人の人間が描かれている。二人は互いの手を取り合い、穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、その上には、丸みを帯びた文字で題名が記されている。
『始まりのメモライズ』
「⋯⋯は?」
リオティスは思わず眉をひそめた。
「何の冗談だ? 絵本だろコレ」
「いいから読め。すぐにわかる」
バルカンの顔に、ふざけている様子はない。
リオティスは釈然としないまま椅子を引き、腰を下ろした。
この薄い一冊が、あの忌まわしい組織と何の関係があるというのか。
疑念を抱きながら、リオティスは表紙をめくった。
◇◇◇◇◇◇
『始まりのメモライズ』
むかしむかし、まだ世界に不思議な力がなかったころ。
遠い山々に囲まれた場所に、金色の湖がありました。
水の中には星のような光が瞬き、風が吹けば、金色のさざ波が岸辺までやってきます。
湖のまわりには、赤や青、白や黄色の花が咲いていました。
小鳥たちは枝の上で歌い、鹿たちは柔らかな草を踏みしめ、ウサギたちは花の間を跳ね回ります。
みんな、そこが大好きでした。
疲れた動物は木陰で眠り、お腹を空かせた動物は草原で食べ物を探します。
けれど、ひとつだけ、みんなが守っている約束がありました。
それは――金色の湖の水を、決して飲んではいけないということ。
どうして飲んではいけないのか。
それを知っている動物は、一匹もいませんでした。
それでも、みんなは約束を守っていました。
そんなある日のこと。
森で道に迷ったひとりの旅人が、湖のほとりへやってきました。
「なんてきれいな湖なんだろう!」
旅人は嬉しくなって、湖へ駆け寄りました。
ところが、足元の草に躓き、勢いよく転んでしまいます。
腰に差していたナイフが鞘から抜け、くるくると宙を舞いました。
ぽちゃん。
小さな音を立てて、ナイフは金色の湖へ沈んでいきました。
すると、不思議なことが起こりました。
きらきらと輝いていた湖が、少しずつ色を失い始めたのです。
金色の水はみるみる減り、やがて、湖の底が見えるほどになりました。
最後の一滴が消えたとき。
そこに残されていたのは、金色に輝く一本のナイフでした。
旅人が恐る恐る拾い上げると、ナイフの奥から、熱い光があふれ出しました。
それは、今まで誰も見たことのない力でした。
旅人はそのナイフを持って旅を続けました。
やがて、ある街で人々を苦しめる恐ろしい化け物に出会います。
化け物は家を壊し、人々を追い回していました。
旅人は、震える手でナイフを握りしめ懸命に叫びます。
「もう、誰も傷つけさせない!」
その願いに応えるように、ナイフがまばゆい光を放ちます。
旅人は化け物に立ち向かい、ついに街を救いました。
人々は旅人を称え、やがて彼を王様にしました。
ところが、長い年月が過ぎたある日。
旅人が大切にしていたナイフに、ひびが入りました。
ぱきん。
小さな音とともにナイフは折れ、金色の光は空へと消えていきました。
けれど、不思議なことに、それから間もなく、別の場所で新しい奇跡が起こったのです。
ある町の広場に、金色の岩が現れました。
その岩に触れると、どんな病気もたちまちに治ってしまうのです。
長いあいだ寝込んでいた人も、歩けなかった人も、みんな元気になりました。
ですが、力を使い果たした金色の岩はひび割れ、光を失ってしまいます。
すると今度は、遠い草原に金色の草が生えました。
その草を食べた動物たちは、誰よりも速く走れるようになりました。
その次は、金色の雨。
雨を浴びた枯れ木には花が咲き、乾いた大地には泉が湧きました。
その次は、決して消えることのない金色の火。
火は暗闇を照らし、寒さに震える人々を温めました。
金色の光は、ひとつの場所から姿を消すたび、別の場所に現れました。
そして、そのたびに、世界は少しずつ豊かになっていきました。
「これは、きっと世界からの贈り物なんだ」
いつしか誰もが、金色の光をこう呼ぶようになりました。
世界の恵み。
それは、人々にとって、幸せを運んでくれる奇跡でした。
そんなある日。
金色の光は、森の奥にある一本の木に宿りました。
その木には、たったひとつだけ、真っ赤なリンゴが実っていました。
朝露をまとったリンゴは、宝石のように輝いています。
その実を最初に見つけたのは、まだ幼い少年でした。
「こんなにきれいなリンゴ、見たことない!」
少年はリンゴを大切に摘み取ると、村へ駆け戻りました。
そして、いちばん大好きな女の子に差し出しました。
「これ、君にあげる!」
女の子は目を丸くしました。
「わたしに?」
「うん。君に食べてほしいんだ」
少年が笑うと、女の子も嬉しそうに笑いました。
「ありがとう!」
女の子はリンゴをひと口かじりました。
しゃくり。
甘い果汁が口いっぱいに広がります。
その直後でした。
女の子の体から、金色の光があふれ出したのです。
「え⋯⋯?」
少年は驚いて、彼女の手を取りました。
けれど、女の子の体はどんどん光に包まれていきます。
「痛い⋯⋯! ねえ、どうしよう⋯⋯!」
女の子は泣きながら少年に助けを求めました。
少年は必死に彼女を抱きしめます。
「大丈夫! 僕がいるから!」
けれど、光は強くなるばかりでした。
女の子の中に生まれた力は、あまりにも大きすぎたのです。
やがて、その力は彼女自身にも抑えられなくなりました。
地面が割れ、木々が倒れ、家々が崩れていきます。
女の子は泣いていました。
怖くて、苦しくて、どうすればいいのかわからなかったのです。
「いや⋯⋯! もう、やめて⋯⋯!」
けれど、どれほど願っても、力は止まりませんでした。
村の人々は逃げ惑いました。
大切な家族を守るため、勇気を振り絞って立ち向かう人たちもいました。
そして、長い戦いの末。
人々は、暴れ続ける女の子を倒しました。
金色の光は空高く舞い上がり、無数の欠片となって世界中へ降り注ぎます。
剣に宿るもの。
石に宿るもの。
そして、人の体に宿るもの。
光の欠片は、それぞれ違う力を持ちながら、世界のあちこちに根づいていきました。
その日から、人々は不思議な力を使えるようになったのです。
炎を生み出す人。
風を操る人。
傷を癒やす人。
誰かの心に触れる人。
世界には、たくさんの力が生まれました。
いつしか人々は、その力を受け継ぐ者たちを、こう呼ぶようになりました。
――メモライズ、と。
そして、世界に初めてその力をもたらした少女を、人々はいつまでも忘れないように、その名を刻みました。
すべての始まりとなった少女。
世界を変えた、たったひとりの少女。
その名は――『始まりのメモライズ』。
◇◇◇◇◇◇
「⋯⋯なんだよ、これ」
リオティスは表紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
子ども向けの絵本として考えれば、よくある話だろう。
不思議な力を持った存在が世界を変え、その力が人々へ受け継がれていく。そんな、ありふれた伝承のひとつにすぎない。
「記憶者が生まれた理由を描いた創作話、ってところか。ずいぶん大層な題名をつけたもんだな」
軽く肩をすくめ、本を机に置こうとする。
だが、バルカンがそれを制した。
「お前は、これがただの作り話だと思うか?」
「他に何だっていうんだよ。金色の湖に、最強のナイフ。最後は女の子が暴れ出して、世界中に能力が広がりました⋯⋯って、とんだお伽話だ」
「少なくとも、最後の部分は笑い話じゃ済まねぇな」
バルカンの声から、冗談めいた響きが消えた。
その眼差しは、リオティスの手元にある絵本を見据えている。
「〝始まりの記憶者〟は、実在した」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
やがて意味が頭に染み込んでくると、リオティスは呆れたように笑った。
「おいおい、正気か? これ、絵本だぜ?」
「そうだな」
「だったら――」
「だが、実在したんだ」
遮るように放たれた言葉には、一切の迷いがなかった。
バルカンは椅子から立ち上がり、机に置かれた分厚い書物へ目を向ける。
「そいつがどんな存在だったのか。どうやって生まれたのか。何のために世界へ現れたのか。それはわからねェ。絵本に書かれた話が真実なのかどうかもな。だが、途方もない力を持った存在がいたこと。そして、俺たちのような記憶者が生まれるきっかけになったこと。それだけは事実だ」
リオティスは口を閉ざした。
バルカンが嘘をついているようには見えない。
むしろ、彼自身も容易には信じがたい事実を、何とか言葉にしているようだった。
「⋯⋯仮に、本当にそんな奴がいたとする」
リオティスは絵本を指先で弾いた。
「だったらどうだって言うんだ。昔の話だろ」
「逆に聞くが、もしもその存在が復活したらどうなる?」
「さあな。記憶者の大元みたいなもんだろ。少なくとも、普通の人間がどうこうできる相手じゃない。下手すりゃ、世界のひとつくらい滅びるんじゃねェか?」
「その通りだ」
リオティスの笑みが消える。
冗談半分で口にした言葉を、バルカンは少しも否定しなかった。
「世界は滅びる。そして、それこそがオヴィリオンの目的だ」
書庫の空気が、急激に冷え込んだような気がした。
「奴らは伝説の存在を復活させようとしている。〝始まりの記憶者〟をな」
「⋯⋯っ」
リオティスは勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、甲高い音を立てる。
「待て待て待て! 話が飛びすぎだろ! そもそも、そんな奴がいたってことすら信じられねェのに、オヴィリオンが復活させるだと? どこからそんな話が出てきたんだ!」
「俺だって、最初に聞いたときは信じられなかったさ」
バルカンは落ち着いた声で答えた。
「オヴィリオンと接触した人間が、連中の口からその計画を聞いたらしい」
「そいつの聞き間違いって可能性は?」
「あるだろうな。だが、俺たちのボスは違う判断をした」
リオティスの表情が変わる。
バルカンの言うボスとは、ディザイアの頂点に立つ帝王アルテオスのことだ。
数多の情報を集め、複雑に絡み合った事象の中から真実を見抜く男。彼が動くということは、単なる噂話では片づけられない何かがあるのだろう。
「まさかディザイアが対策に乗り出したのか?」
「ああ。既に動き始めている」
「⋯⋯マジかよ」
リオティスは額に手を当てた。
信じられない話だ。
絵本の中にしか存在しないはずの少女。その復活を企む組織。そして、世界の存亡を左右しかねない計画。
あまりにも現実離れしている。
それでも、バルカンの態度とアルテオスの判断が、その荒唐無稽な話に重みを与えていた。
「つまり、オヴィリオンはそいつを復活させて、世界を支配するつもりってわけか」
「恐らくな」
「⋯⋯だったら」
リオティスは顔を上げた。
「奴らが迷宮で記憶者を殺しているのも、そのためなのか?」
リコルの顔が脳裏をよぎる。
最後に見た姿。
血に濡れた手。
今も胸の奥に残る、あの瞬間の無力感。
全てが鮮明に浮かび上がっていく。
「記憶者を狩ることと、そいつの復活に何の関係がある?」
「そこまではわかっていない。何かしら、連中が必要としている条件があるんだろう」
「条件⋯⋯」
リオティスの手が、ゆっくりと握り締められた。
もし、バルカンの話が事実なら。
もし、オヴィリオンが目的を果たすために、記憶者の命を奪っているのなら。
リコルの死も、その計画の一部だったということになる。
彼女が何を望み、どんな未来を夢見ていたのか。
そんなことは関係ないといわんばかりに、ただ必要な条件を満たすために殺された。
たったそれだけの理由で。
「⋯⋯ふざけんなよ」
低く、押し殺した声が漏れた。
胸の奥から、どす黒い感情がせり上がってくる。
「リオティス」
バルカンが静かに名を呼んだ。
気づけば、彼は机を回り込んで、すぐ隣に立っていた。
「気持ちはわかる。俺だって、連中のやり方には腹が立ってる」
大きな手が、リオティスの肩に置かれる。
「だが、怒りに任せて突っ込んでも、また大切なものを失うだけだ」
「⋯⋯っ」
「今、俺たちにできることは二つ。オヴィリオンの計画を阻止すること。そして、そのために必要な力を手に入れることだ」
リオティスの気持ちを落ち着かせるように、バルカンは優しく言う。
「失ったものは、取り戻せない。だが、これから失われるかもしれないものは、まだ守れるんだ」
その言葉に、リオティスは顔を伏せた。
「⋯⋯そうだな」
短く答え、リオティスは拳を開いた。
爪が食い込んだ掌には、薄く赤い跡が残っている。
「強くなるしかない。そういうことだろ」
「そうだ」
バルカンは、それ以上何も言わなかった。
ただ、リオティスの肩から手を離すと、机の上に置かれていた本を一冊、手に取った。
「なら、そろそろ始めるとするか」
バルカンは本を棚へと戻すと、出口に向かって歩き出す。
「短期間で、お前の実力を飛躍的に引き上げる方法がある。ただし、簡単に身につくもんじゃねェ。失敗すれば、今のお前が持っているものすら、まともに扱えなくなる可能性だってある」
「今更だろ。覚悟ならとっくにできている」
リオティスは迷わなかった。
「やらずに後悔するくらいなら、何だってやってやるよ」
バルカンはしばらく彼を見つめたあと、口元をわずかに緩めた。
「要らねェ心配だったか。じゃあさっそく本題だ。この十日間で、お前には〝開花〟を身につけてもらう」
静かな書庫に言葉が落ちる。
〝開花〟
その単語を聞いた時、リオティスの鼓動が強く波打った。




