第39話 リオティスとアルス②
ベランダへ続く扉を開いた瞬間、夜の静けさが二人を包み込んだ。
昼間の喧騒が嘘のように遠のき、目の前には果てしない闇が広がっていた。
風はない。
木々の枝葉さえ身じろぎせず、遠くから聞こえてくるはずの虫の声も、今夜に限ってはどこかへ姿を隠している。まるで世界そのものが眠りにつき、二人だけを置き去りにしたかのようだった。
「いい夜だな。さっきまでの騒ぎが嘘みたいだ」
先に口を開いたのはリオティスだった。
その隣で、アルスが小さく頷く。
「⋯⋯そうだな」
二人はベランダへ踏み出すと、使い込まれた木製の手すりに両手を置いた。
眼下には広大な土地が広がり、その先には深い森林が横たわっている。月明かりを受けた木々は黒々とした波のように連なり、さらに遠くへ目を向ければ、フクシア島の街並みが見えた。
家々の窓から漏れる小さな灯火。
街路に沿って点々と続く明かりは、夜の海に浮かぶ星の欠片にも似ている。
「帝都の星より、こっちのほうが綺麗だよな」
リオティスは手すりから片手を離し、夜空へ向かって伸ばした。
指先の向こうに、月が浮かんでいる。
もちろん、届くはずもない。それでも、普段なら途方もなく遠く感じる星々が、今夜だけは手を伸ばせば触れられそうなほど近くに思えた。
「せっかくなら、隣に美女でもいれば最高だったんだけどな。お前もそう思うだろ?」
「⋯⋯そう、だな」
アルスの返事は、ひどく歯切れが悪かった。
いつもの彼なら、待ってましたとばかりに話へ乗ってくるはずだ。そこから女性の好みやら、過去に出会った美女の話やらを延々と聞かされるのが、リオティスにとってはお決まりの展開だった。
適当に相槌を打てば調子に乗り、少しでも否定すれば大げさに嘆いてみせる。
そんな面倒くささも含めて、アルスという男なのだ。
だからこそ、今の姿には違和感があった。
アルスは夜空を見上げようともせず、手すりに視線を落としている。両手は木材を握りしめたまま、指先に力がこもっていた。
(さて、どう切り出したものかな)
問い詰めるのは簡単だ。
何を悩んでいるのかと聞けばいい。何かあるなら話せと、いつもの調子で肩を叩いてやれば済むのかもしれない。
だが、相手が本当に苦しんでいるとしたら、それだけで解決するほど単純な話ではない。
かつての自分も、そうだったのだから。
リオティスは伸ばしていた手を下ろし、もう一度景色へ目を向けた。
「そういや、合同訓練じゃ大活躍だったらしいな」
「⋯⋯え?」
「お前の能力がなかったら、あの結果にはならなかった。正直、かなり助かったよ」
努めて何気なく言ってみせる。
まずは普段どおりの会話から始めようと思った。
「え、いや、そうか? 結局、脱落させられたのはひとりだけだったし、ティアナちゃんやフィトちゃんにも迷惑をかけたろ?」
「それでも十分だろ。最後にウィルドを脱落させられたのは、お前の能力があったからだ」
実際、アルスの能力は優秀だった。
敵の位置を探り、罠を張り、仲間を守り、ときには自ら攻撃を仕掛ける。状況に応じて役割を変えられる柔軟性は、迷宮攻略において大きな武器になるはずだ。
ひとりで戦う力だけが、強さのすべてではない。
むしろ、複数人で挑む迷宮では、仲間の能力を補い、危険を察知し、全員の生存率を高められる者こそ貴重だった。
「だから、もう少し自信を持てよ。お前は――」
「⋯⋯俺の能力について、どう思った?」
不意に、アルスが尋ねた。
リオティスは言いかけた言葉を止め、隣へ視線を向ける。
「どうって、いい能力だろ。あれだけ応用が利く能力なんて、そうそうない。迷宮の攻略にだって向いている――」
「怒ってるんだろ?」
言葉を遮られた。
アルスは手すりを握りしめたまま、かすかに肩を震わせていた。
「俺が逃げたこと」
「⋯⋯は?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
逃げた。
その言葉が指している出来事に思い当たらず、リオティスは眉を寄せる。
合同訓練の話だろうか。
それとも、別の何かか。
少なくとも、アルスに対して怒りを覚えるような出来事など、記憶にはなかった。
「おい、何の話だ?」
問いかけても、アルスは顔を上げない。
しばらくの沈黙が流れた。
やがて彼は、押し殺していたものを吐き出すように口を開いた。
「リコルちゃんが迷宮に行った日だよ」
その名前を聞いた瞬間、リオティスの胸の奥がわずかに疼いた。
忘れられるはずがない。
大切な人が命を落とした、あの日のことを――。
アルスは唇を噛み、言葉を探すように何度か口を開閉した。それでも、いざ声にしようとすると喉が詰まるのか、なかなか続きを話せずにいる。
ついに意を決したのか、彼は目を伏せたまま告げた。
「俺は⋯⋯一緒に行かなかった。リコルちゃんが迷宮へ向かおうとしていたとき、絶対に止めなきゃいけなかった。いや、止めるだけじゃ駄目だったんだ。⋯⋯本当は俺も一緒に行くべきだった」
アルスの握りしめた指が、段々と白くなる。
「なのに俺は、バルカンさんを探すって名目で逃げ出した」
その言葉を境に、アルスの声は少しずつ震え始めた。
「俺が一緒に行っていれば、何かできたかもしれない。⋯⋯少なくとも、リコルちゃんが死ぬことはなかったんだ」
「アルス⋯⋯」
「わかってたんだよ。俺の能力なら、迷宮で役に立てるってことくらい。なのに、俺は⋯⋯!」
声が途切れた。
アルスは奥歯を噛みしめ、俯いた顔をさらに伏せる。
そこでリオティスはようやく理解した。
どうして彼が、自分と目を合わせようとしなかったのか。
どうして、あの日からずっと何かを言いかけては口を閉ざしていたのか。
すべては、リコルを失った日のことにつながっていた。
アルスは、ずっと自分を責めていたのだ。
「昔、俺は迷宮で大切な人を失ったんだ」
しばらくして、アルスはぽつりと呟いた。
「俺の目の前で⋯⋯助けられたはずなのに、助けられなかった。何もできなかった。手を伸ばすことすら、できなかったんだ」
その声は、どこか遠い場所へと向けられているようだった。
「それからずっと迷宮が怖くて仕方がない。迷宮を前にすると、思い出すんだ。あのときのことも、何もできなかった自分のことも。もし、また同じことが起きたらって考えると⋯⋯足が動かなくなる」
アルスの手が、手すりをさらに強く握った。
「また大切な誰かを失うのが怖かった。だから、リコルちゃんと一緒に行けなかったんだ。⋯⋯俺は、逃げたんだよ」
夜の静けさが、その告白を受け止める。
リオティスは何も言えなかった。
アルスの言葉が胸に突き刺さったからではない。
むしろ、その痛みを知っていたからこそ、すぐには返す言葉が見つからなかったのだ。
彼が抱えているものは、自分の中にもある。
大切な人を守れなかった後悔。
あのとき別の選択をしていれば、という叶わない想像。
自分さえ違っていれば、という答えの出ない問い。
リオティスにとって、それは決して他人事ではなかった。
リコルが死んだあの日、彼もまた、すぐには迷宮へ向かえなかったのだから。
頭では理解していた。
助けに行かなければならない。立ち止まっている場合ではない。何かをしなければ、取り返しのつかないことになる。
それなのに、体が動かなかった。
恐怖に縛られ、失うことへの不安に押し潰され、ただ立ち尽くしていた。
だからこそ、わかる。
アルスがどれほど自分を責めてきたのか。
どれほどの夜を、後悔に囚われながら過ごしてきたのか。
そして、どれほど勇気を振り絞って、今この話をしているのか。
「⋯⋯あの日から、ずっとリオティスの顔をまともに見られなかった」
アルスが続ける。
「こんな能力を持っていながら、怖いからって逃げたんだ。リオティスが俺を責めたって、怒ったって、当然だと思う。許してほしいなんて言う資格もない」
アルスは一度だけ目を閉じた。
それから、深く頭を下げる。
「⋯⋯ずっと謝りたかった。ごめん、本当にごめんな、リオティス」
長い告白だった。
言葉にすることすら恐れていた想いを、彼はようやく吐き出したのだ。
誰にも見せず、誰にも知られないまま、心の奥へ押し込めてきた後悔。
それは長い時間をかけて膨らみ、今や彼自身を縛りつける鎖となっていた。
リオティスは、俯いたアルスの横顔を見つめた。
そこにいるのは、いつもの軽口を叩く男ではない。
自分の弱さを恥じ、過去の過ちを悔い、どうしようもない罪悪感に苦しみ続けてきたひとりの人間だった。
かつての自分と、よく似ている。
迷宮を攻略する前の自分。
リコルを助けられず、何もできなかった自分。
そして、彼女を失った悲しみに打ちひしがれていたティアナの姿までもが、脳裏に浮かんだ。
みんな、同じなのだ。
大切なものを失った痛みは違っても、それを抱えて生きる苦しさは、決してひとりだけのものではない。だから――。
「⋯⋯まったく。どいつもこいつも、本当に馬鹿だよな」
「⋯⋯え?」
アルスが恐る恐る顔を上げた。
そこにあったのは、怒りでも、失望でもない。
呆れたように眉を下げながら、それでも確かに微笑んでいるリオティスの姿だった。
「怒ってなんかいねェよ。そもそも、お前に怒る理由なんてないだろ」
「だって、俺はリコルちゃんを⋯⋯」
「アルス」
リオティスは静かに名前を呼んだ。
「俺たちは仲間だろ?」
あまりにもありふれた言葉だった。
特別な力があるわけでもない。
誰かの傷を一瞬で癒やせるような、魔法の言葉でもない。
それでもリオティスは、その言葉を口にした。
自分がどれほど惨めでも、どれほど弱くても、そばにいてくれる人がいた。
何もできなかった自分を責めるのではなく、もう一度立ち上がるための場所を与えてくれた人たちがいた。
だから今度は、自分が手を差し伸べる番だった。
「リコルが死んだのは、お前のせいじゃない。少なくとも、俺はそう思ってる」
「そんな簡単に、割り切れるわけないだろ!」
アルスの声が、夜の静寂を破った。
押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「俺が一緒に行っていれば助かったかもしれないんだぞ! 俺が怖がらなければ、俺が逃げなければ、リコルちゃんは⋯⋯!」
「もしも、なんて考え始めたら、きりがないんだよ。俺だって何度も考えた。あのとき、もっと早く動けていたら。別の選択をしていたら。俺がもっと強ければ、何かが変わっていたんじゃないかって」
過去の苦しみを思い出しながらも、リオティスは言葉を発した。
「でも、どれだけ考えたって、過去は変えられない。あのときの俺たちが何を考えて、何を恐れて、どうして動けなかったのか。それをなかったことにはできないんだ」
胸の奥が痛んだ。
口にするたび、あの日の記憶がより鮮明になっていく。
それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。
「⋯⋯俺も、お前と同じなんだ」
「リオティスも?」
アルスの目が揺れた。
信じられない、とでも言いたげな顔だった。
リオティスは苦笑する。
「何だよ、その顔。俺だって失敗くらいするさ。大切な人を失うのが怖かった。誰かを信じて、また裏切られるのが怖かった。だから自分の能力を隠して、誰とも深く関わらないようにしてきたんだ」
思い返せば、ずいぶんと長い遠回りだった。
傷つくことを恐れて、誰かを遠ざける。失うことを恐れて、初めから何も手にしない。
そうしていれば安全だと、本気で信じていた。
だが、それでは何も変わらない。
孤独の中に閉じこもったところで、失ったものが戻ってくるわけでもないのだから。
「ティアナだって、フィトだって、きっと同じだ。みんな、それぞれに後悔や苦しみを抱えてる。誰だって間違えるし、怖くて動けなくなることだってある」
リオティスはアルスの目を真っすぐに見つめた。
「そういう奴らが集まったのが、俺たち〈月華の兎〉なんだよ。格好悪くたっていい。失敗したっていい。ひとりじゃどうにもならないことなら、みんなで考えればいいだろ。誰かが立ち止まったら、別の誰かが手を貸せばいい」
言いながら、リオティスは少しだけ笑った。
「今日だってそうだったじゃないか。お前たちは、俺が前に進めなくなっていたとき、ちゃんと手を差し伸べてくれた。あれがなかったら、俺は今も同じ場所に立ち尽くしていたかもしれない」
「⋯⋯俺たちが?」
「ああ。だから今度は俺の番だ」
リオティスが、アルスの肩にそっと手を置く。
衣服越しに伝わる肩は、思っていたよりもずっと強張っていた。
「過去に守れなかった人がいるなら、次は守れるようになればいい。失敗したことがあるなら、同じ失敗をしないために考えればいい。怖いなら、ひとりで立ち向かわなくたっていいんだ」
そこで一度言葉を切り、リオティスは悪戯っぽく口角を上げた。
「幸い、俺たちには付き合ってくれる馬鹿が大勢いるからな」
「⋯⋯リオティス」
アルスの言いかけた言葉が止まった。
代わりに、その瞳に薄い膜が張る。
月明かりを受けた涙が、今にも零れ落ちそうに揺れていた。
彼は慌てて顔を背け、手の甲で目元を拭う。
「⋯⋯参ったな。こんなつもりじゃなかったんだけど」
「男の前でぐらい泣いたっていいだろ。それとも、美女に慰めてもらった方がいいか?」
「こんなときに揶揄うなよ⋯⋯!」
掠れた声で返しながら、アルスは小さく笑った。
「⋯⋯本当に、いいのか?」
アルスは涙を拭いながら、もう一度尋ねた。
「俺のこと、許してくれるのか?」
「だから、初めから恨んでねェよ。そもそも⋯⋯」
リオティスは肩に置いた手に、ほんの少し力を込めた。
「お前は俺を信じてくれた。だったら、今の俺の本心ぐらい伝わってんだろ」
その言葉に、アルスは目を見開いた。
そして、今度こそ堪えきれなかったように顔をくしゃりと歪める。
「⋯⋯ああ。そうだよな」
零れそうになった涙を拭い、彼は何度も頷いた。
「本当に、そのとおりだよ。俺、何やってたんだろうな⋯⋯」
「さあな。少なくとも、こんな夜中に男二人で星を眺めながら泣くような趣味は、俺にはないけど」
「お前なぁ⋯⋯! せっかく感動してたのに台無しだろ!」
「ははっ。悪い悪い」
アルスが鼻をすすりながら抗議すると、リオティスも声を上げて笑った。
その笑い声は、夜の静けさに溶けていく。
先ほどまで二人の間にあった重苦しい沈黙は、もうそこにはなかった。
「ふあぁ」
リオティスが大きな欠伸を漏らした。
「何だか急に眠くなってきたな。明日も早いし、そろそろ寝るか。女子部屋に忍び込んだりするなよ?」
「いやしないって! 俺の事どう思ってるのさ!」
「四六時中女の事ばかり考えてる変態」
「フィトちゃんもそうだったけど、俺の評価おかしくない!?」
「そんなもんだろ」
「紳士だからな俺!」
すっかり調子を取り戻したアルスが、いつものように声を張り上げる。
その姿を見て、リオティスは心の底から安堵した。
やはり、こちらのほうが彼らしい。
軽口を叩いて、くだらないことで張り合って、時には互いをからかい合う。
そんな当たり前の時間が、今は何よりも愛おしく思えた。
「なあ、リオティス」
扉へ向かいかけたところで、アルスが呼び止めた。
振り返ると、彼はもう俯いてはいなかった。
目元にはまだ涙の跡が残っている。
それでも、その表情には先ほどまでの陰りが薄れ、まっすぐな眼差しが戻っていた。
「ありがとうな」
短い言葉だった。
だが、その一言には、言い尽くせないほどの想いが込められていた。
「礼を言うのは俺のほうだよ」
そう言って、リオティスは扉を開けた。
「ほら、行くぞ。いつまでもこんなところにいたら、明日寝坊する」
「ハハ、そうだな。それじゃあ俺が添い寝してあげようか?」
「もう扉閉めるぞ。お前の寝床はここな」
「いや、冗談だって!」
アルスは笑いながら、リオティスの後を追った。
静寂の戻った暗い世界。
夜空に浮かぶ輝きが、歩き去る二人の背中を優しく照らしていた。




