第38話 リオティスとアルス①
靄に包まれているようだった。
視界は鮮明だ。
目の前には薄暗い世界が広がり、遠くまで見渡すこともできる。にもかかわらず、そこに何があるのか、まるで理解できなかった。
自分がどこにいるのかもわからない。
ただ、身体だけがゆらゆらと揺れていた。
水面に浮かんでいるような感覚だった。力を抜けば、そのまま流されてしまいそうなほど心許ない。身体を動かそうとしても、指先ひとつ思いどおりにならなかった。
いや、もしかすると――。
自分は沈んでいるのかもしれない。
底の見えない暗闇へ、ゆっくりと。
(⋯⋯夢の中、か)
リオティスはぼんやりと考えた。
頭に重たい靄がかかっている。何かを考えようとしても思考はまとまらず、浮かんだ言葉さえすぐに消えてしまう。
意識が少しずつ覚醒していくにつれ、その感覚に違和感を覚え始めた。
(⋯⋯夢にしては、変な感覚だな)
身体が動かないもどかしさも、意識だけが取り残されたような心細さも、妙に生々しい。
そんなことを考えていると、景色が唐突に切り替わった。
薄暗い世界が消え、見知らぬ光景が目の前に現れる。
誰かがいる。
影は二つ。
そのうちのひとりが、もうひとりに語りかけていた。
『元気な男の子だよ。見なよ。俺に似ているだろ?』
声は聞こえなかった。
正確には、音として耳に届いたわけではない。それなのに、言葉の意味だけは理解できる。誰かが脳裏に直接、言葉を書き込んでいるかのようだった。
人影の輪郭は曖昧で、顔も見えない。声の主が男なのか女なのかさえ判別できなかった。
それでも、二人が親しげに言葉を交わしていることは伝わってくる。
『⋯⋯本当。あなたそっくり』
『だろう? これで二人目だ。女の子と男の子。可愛らしい双子だよ』
『ええ。男の子なら名前はリオティス。女の子なら名前は――』
ぶつり。
何かが途切れるように、映像が消えた。
先ほどまで確かに存在していた光景が、初めからなかったかのように消失する。
だが、最後に聞いた名前だけは、リオティスの意識に残っていた。
リオティス。
影は確かに、そう言った。
(変な夢だ。俺に親は居ないのに)
リオティスは心の中で呟いた。
恐らく、リリィの両親と家族について話したことが影響しているのだろう。無意識のうちに記憶が刺激され、こんな夢を見ているのかもしれない。
自分には記憶がないのだ。
ゼアノスに拾われるまで、どこで何をしていたのかもわからない。両親の顔も、生まれ育った場所も知らない。
自分が存在する以上、血の繋がった両親はいたはずだ。
だが、それだけの話である。
今どこにいるのか、生きているのか。
仮に再会できたとしても、記憶のない自分が彼らを親だと認識できる保証はなかった。
だから、考えるだけ無駄だ。
そう思っていた。
(⋯⋯でも、何だか温かい夢だ)
不思議だった。
顔も知らない人間たちのやり取りに、なぜか懐かしさを覚える。
そこにあったのは、子供が生まれたことを喜ぶ、ごくありふれた光景だった。特別なことなど何もない。
それなのに、リオティスはもう少しだけ、その場に留まっていたいと思った。
その願いも虚しく、景色は再び切り替わる。
今度は、二人の人影が剣を構えていた。
『リオティス。ちゃんと見ておけよ! お父さんの剣裁きをな!』
『くだらん。久しぶりに稽古をつけてくれるというから来たのに、子供に見せつけたいだけじゃないか』
『そう言うなよ。お前も兄弟子になるんだぞ? ちゃんと俺の子供の面倒は見ろよ?』
『⋯⋯気が向いたらな』
軽口を交わす二人の間には、気安い空気が流れていた。
父親と兄弟子。
恐らく、剣を教える師匠と弟子なのだろう。
そう考えたところで、映像が途切れた。
次に現れた光景は、先ほどまでとは一変していた。
『ハァ、ハァ⋯⋯ダメだ。逃げきれない。お前はリオティスを連れて逃げろ!』
『ダメよ! 私も一緒に――』
荒い息遣いと、切羽詰まった声。
赤い光が視界を覆っていた。
燃え盛る炎が人影を包み込み、周囲を容赦なく焼き尽くしていく。逃げようとする者たちの姿は、揺らめく火の向こうにかき消されていった。
リオティスは息を呑んだ。
何が起きているのかはわからない。
だが、そこには明らかな危機があった。
誰かが逃げようとしている。
誰かが、それを助けようとしている。
そして、その願いは届かないのかもしれない。
そんな予感だけが残った。
あの二人は助かるのだろうか。
リオティスの憂慮を嘲笑うかのように、またしても場面が切り替わる。
『⋯⋯もう、こんなことはよせ』
静かな声だった。
『計画はうまくいかない。わかるんだよ、俺には。⋯⋯お前が望むものは決して手に入らない』
二人の人影が向かい合っている。
ひとりは地面に座り込み、もうひとりを見上げていた。
黒い。
全身を覆う闇は、周囲の光さえ呑み込んでいるかのようだった。その額には、さらに濃い漆黒を宿した巨大な角が生えている。
人の形をしているだけで、明らかに人間ではない。
そう直感した。
『人間と会話をするつもりはない。諦めてその〝器〟を渡せ』
感情のない声だった。
命令に従うのが当然だとでも言うように、相手の意思など考慮する気配もない。
『器なんかじゃない。この子は⋯⋯この子たちはッ! 俺たちの子供だァ!』
魂を絞り出すような叫びだった。
そこに込められた怒りと悲痛な思いは、言葉が理解できなくても伝わってくる。
何を奪われそうになっているのか。
なぜ、そこまで必死に抗っているのか。
その答えを知る前に、映像は途切れた。
再び訪れた暗闇。
取り残されたリオティスが身を任せていると、突如として靄が晴れていった。
暗闇に白い光が差し込む。
眩しさから目を細めたリオティスが次に見開くと、そこには巨大な扉がそびえ立っていた。
白い空間だった。
上も下も、右も左も、果てしない白が続いている。地面と空の境目すら見当たらない空間に、赤黒い扉だけが異様な存在感を放っていた。
「⋯⋯なんだ、ここは」
今度は声が出た。
リオティスは自分の手を見下ろし、指先を動かしてみる。
身体は自由に動く。
先ほどまでの夢とは違い、足裏には確かな感触があった。
だが、目の前の扉は、そんな些細な現実感を吹き飛ばすほど異様だった。
見上げれば首が痛くなるほど高い。
両手を伸ばしたところで、上部には到底届かないだろう。
表面は赤黒く、長い年月を経て血を吸い込んだ鉄のような色をしていた。刻み込まれた模様も、文字なのか別の何かなのか判別できない。
とても、人間が作ったものとは思えなかった。
それなのに、リオティスの足は自然と扉へ向かっていた。
扉の奥に何かがある。
それも、決して普通ではない何かが。
「⋯⋯⋯⋯」
扉の目の前にリオティスは辿り着いた。
分厚い扉を隔ててもなお、禍々しい気配が伝わってくる。
圧倒的な力だ。
あらゆるものを破壊し、支配し、意のままにできるかのような強大な力が、その向こう側に眠っている。
本来は恐怖を感じるべきなのだろう。
それでも、リオティスは引き寄せられるように手を伸ばした。
指先が扉に触れる。
刹那、地の底から響くような重低音が鳴り渡った。
「――ッ!」
開くはずがないと思っていた扉が、わずかに動いた。
ほんの数センチ。
閉ざされていたはずの扉には、暗闇へと続く隙間が生まれていた。
その奥から、さらに強大な気配が溢れ出してくる。
もっと知りたい。
この先に何があるのか。
何が眠っているのか。
あと少しだけ扉を開けば、その正体がわかる気がした。
リオティスは、さらに手に力を込めようとする。
「ダメだよ。リオティス。その先に行ってはいけない」
背後からの声。
今まで夢の中で聞いてきた、脳裏に直接響く言葉とは違う。耳に届く、確かな声だった。
リオティスの動きが止まる。
暖かく、心地の良い声。
忘れるはずのない、少女の声。
リオティスはゆっくりと振り返った。
「お前は⋯⋯」
視界の端で、青い髪が揺れる。
その姿を認識した瞬間、白い世界が黒く染まった。
◇◇◇◇◇◇
目を開けると、見知らぬ天井があった。
リオティスはしばらく瞬きを繰り返し、ようやく自分が目覚めたことを理解した。
リリィの実家にある一室。
広い部屋には人数分の布団が敷かれ、団員たちが気持ちよさそうに眠っている。寝返りを打つ者もいれば、布団を蹴飛ばしている者もいた。
「⋯⋯変な夢を見た気がする」
額に手を当て、記憶を探る。
何かを見たはずだった。
だが、思い出そうとするほど、内容は曖昧になっていく。
はっきりしているのは、最後に誰かの声を聞いたことくらいだ。
それが誰だったのかも、もう思い出せない。
「⋯⋯なんだったんだ、今の」
悪い夢だったのかと聞かれれば、そうとも言い切れなかった。
恐ろしいものを見た気がする一方で、胸の奥には説明できない感情が残っている。
不安とも寂しさともつかない、重たい感覚だった。
「完全に目が覚めちまったな」
リオティスは天井を見上げた。
訓練の開始は早朝だ。
だが、もう一度眠ろうにも、すぐには寝つけそうにない。
少し外の空気でも吸おう。
そう考え、周囲を起こさないようリオティスは静かに部屋を出た。
廊下はひっそりと静まり返っていた。
長く伸びた通路の両側には柱が並び、壁際には手入れの行き届いた調度品が置かれている。昼間は人の出入りが多い屋敷も、夜になると別の場所のようだった。
(⋯⋯いや、勝手に出歩くのはマズいか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
ここはリリィの家だ。
客として招かれている身で、夜中にうろつくのは感心しない。
何より、今の自分は周囲から警戒されている立場だった。
(ただでさえ、能力を明かして目立ってるしな)
森林での合同訓練で、リオティスは能力を使ってみせた。
処罰は免れたものの、周囲の疑念が消えたわけではない。妙な行動を取れば、再び問題視される可能性がある。
(⋯⋯戻るか)
リオティスが踵を返そうとした、その時。
「あれ? リオティス。どうしたんだ、こんな夜中に」
背後から声をかけられた。
振り向くと、そこにはアルスが立っていた。
「ちょっと寝付けなくてな。そういうお前は?」
「いやぁ、喉が渇いてさ。水でも飲もうと思って」
「そうか」
短いやり取り。
それきり、二人の間に沈黙が落ちた。
アルスはいつもどおりの笑みを浮かべている。だが、どこかぎこちない。視線が合ってもすぐに逸らし、何かを言いたげに口を開きかけては、結局何も言わずにいる。
(そういや、ティアナが言っていたな)
旅客船でのことだ。
アルスは自分に対して、何か思うところがあるらしい。
その時は深く気に留めなかったが、こうして二人きりになると、ティアナの言葉が少しだけ理解できた。
アルスは何かを気にしている。
それも、リオティスに関わることを。
焦っているようにも見えるし、何かを隠そうとしているようにも感じられた。
単なる思い過ごしかもしれない。
それでも、このまま何も聞かずに別れるのは、どうにも落ち着かなかった。
「⋯⋯なぁ、アルス。ちょっとだけいいか?」
「ん? どうしたんだい?」
アルスは笑顔のまま応じた。
リオティスは廊下の先を指差す。
「ちょっとだけ外で風に当たらないか?」
アルスの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
驚いたのか、それとも別の理由があるのか。
やがてアルスは、いつもの調子を取り戻したように頷いた。
「ああ、いいよ」
二人は並んで歩き出す。
静まり返った屋敷の中に、二人分の足音だけが響いていた。




