第37話 大人の夜
リオティスたちが露天風呂に浸かり、一日の疲労を湯に溶かしている頃――。
バルカンとリリィは、ひとつの部屋にいた。
場所は、リリィの寝室である。
二人がこうして顔を合わせているのは、明日から始まる訓練について話し合うためだった。
今日行われた森林での合同訓練。その結果を踏まえ、各団員の実力や能力の特性、得意分野と不得意分野を洗い出し、明日からは個々の課題に応じた訓練へと移行する予定となっている。
与えられた期間は、わずか十日間。
限られた時間の中で確かな成長を遂げるためには、無計画に鍛錬を積ませるだけでは足りない。誰に何を教え、どこを伸ばし、どの弱点を克服させるのか。団員ひとりひとりの特性を見極めたうえで、緻密な計画を立てる必要があった。
そのために、リリィはバルカンを自室へと招いたのである。
もっとも、自室とはいっても、ここはリリィの実家だ。
彼女が帰省した際に寝泊まりするだけの部屋であり、普段から生活の拠点としているわけではない。
私物はほとんど置かれておらず、娯楽の類いも皆無。室内にあるのは、必要最低限の家具だけだった。
机と椅子。それに、壁際へ寄せられた一台のベッド。
飾り気のない、質素な部屋である。
他人に見られて困るようなものなど、ひとつとして存在しない。それなのに――。
(ど、どうする!? いや、どうすればいい!?)
リリィの頭の中は、すでに大惨事だった。
(まさか、今夜はこのまま一夜を共にすることになるのか!? いや、待て。そもそも、そういう展開になった場合、私はどうすれば⋯⋯!? というか、今日の下着は何だった!? いや、そんなことを考えている場合ではない! 落ち着け、落ち着くんだ、私!)
普段なら、どれほど困難な状況に陥ろうとも、ここまで取り乱すことはない。敵を前にしたときでさえ、冷静に状況を分析し、最善の判断を下せる自負があった。
だが、今は違う。
目の前にいるのは、敵でもなければ、警戒すべき相手でもない。リリィが長年、ひそかに想いを寄せている相手。その男が今、自分の寝室で、自分と向かい合って座っている。
時刻は夜。
すぐ隣にはベッド。
これで何も意識するなというほうが無理な話だった。
内心慌てふためくリリィの心中など知る由もなく、バルカンは机に広げられた資料へと視線を落としていた。
今日の訓練結果を思い返しながら、必要な情報を整理しているらしい。
その横顔は、いつになく真剣だった。
普段の気怠げな態度は影を潜め、鋭い眼差しが書面の上を滑っていく。
時折、指先で紙をめくり、思案するように顎へ手を添える。
その何気ない仕草のひとつひとつが、リリィの心を容赦なくかき乱していた。
「――で、リオティスについてはそんなところだ。成果が出るかは賭けだが、あいつには才能がある。やらない手は無いだろ」
「⋯⋯あぁ」
「――ティアナとレイクは、とにかくメモリアルの扱いだな。特にレイクは魔力操作に難がある。どこかでフィトに教えさせる時間を設けてもいい」
「⋯⋯あぁ」
「――アルスの近接戦闘の弱さは、オルティシアに任せる。アイツの能力は特殊だからな。そこはオーロラにも協力してもらうつもりだ」
「⋯⋯あぁ」
内容が頭に入ってこない。
リリィは機械のようにただ返事をするだけとなってしまっていた。
「⋯⋯オイ、リリィ」
「っ!?」
バルカンの声に、リリィの肩がびくりと跳ねた。
慌てて顔を上げると、彼は怪訝そうにこちらを見つめていた。
「大丈夫か?」
「えっ? あ、ああ! もちろん大丈夫だとも!」
勢いよく答えたものの、リリィの視線は落ち着きなく宙をさまよっていた。
対するバルカンは、ますます不思議そうに眉をひそめる。
「具合でも悪いのか? 顔が赤いぞ。水でも飲むか? それとも、少し横になったほうがいいか?」
「いや、本当に大丈夫で――」
そこまで言いかけたところで、リリィの思考が止まった。
「⋯⋯横に?」
ゆっくりと視線を動かす。
その先にあるのは、部屋の隅に置かれた一台のベッド。
(よ、横になる⋯⋯? つまり、ベッドに⋯⋯? いや、しかし、なぜ今その話を⋯⋯!?)
そこまで考えた瞬間、リリィの顔が一気に熱を帯びた。
まるで頭から湯気が噴き出しているかのような錯覚に陥る。
「そ、そそそ、そんな急に言われてもだな!? こ、心の準備というものが⋯⋯!」
目をぐるぐると回し、両手を意味もなく動かしながら、ひとりで勝手に追い詰められているリリィ。
そんな彼女へと、バルカンが椅子から腰を浮かせ、身を乗り出した。
「本当に大丈夫なのか?」
「ッ⋯⋯!?」
近い。
あまりにも、近すぎる。
先ほどまで机を挟んでいたはずの距離が、ほんのわずかに縮まっていた。
目の前にあるのは、バルカンの顔。
整った鼻筋。真っすぐにこちらを見つめる瞳。伏せられたまつ毛の一本一本まで、はっきりと見えてしまう。
彼が心配そうに覗き込んでくるたび、リリィの心臓はさらに激しく脈打った。
「リリィ?」
「う、あ⋯⋯」
「オイ?」
「だ、大丈夫⋯⋯じゃ、ないかもしれない⋯⋯」
ついに、リリィは白旗を上げた。
「やっぱりな。無理をさせちまったか⋯⋯」
バルカンは納得したように頷くと、ゆっくりと身を引いた。
それから、申し訳なさそうに眉を下げる。
「悪かったな、リリィ。お前に無理をさせちまって」
「⋯⋯え?」
その表情を見て、リリィはようやく我に返った。
先ほどまでの浮ついた思考が、少しずつ現実へと引き戻されていく。
バルカンの目にあるのは、照れや期待などではなかった。
ただ、純粋な気遣い。
自分を心配してくれている。それだけだった。
考えてみれば、当然のことである。
今日一日、二人は合同訓練の運営に携わっていた。さらにリリィは、〈六昇星〉のギルドマスターとして、日々膨大な業務を抱えている。
それでも彼女は、数日間にわたって帝都を離れ、今回の訓練に時間を割いていた。
かつて同じ〈六昇星〉に名を連ねていたバルカンだからこそ、その忙しさを誰よりも理解しているのだろう。
だからこそ、彼は気にかけていたのだ。
自分のために時間を割いてくれた彼女が、無理をしているのではないかと。
先ほどまで見せていた真剣な眼差しも、さりげない優しさも、そのすべてはリリィを気遣ってのことだった。
決して、彼女が期待していたような意味ではない。
「⋯⋯⋯⋯」
リリィは、己の浅はかさを恥じた。
(私は⋯⋯何を浮かれていたのだ)
バルカンは、真剣に訓練のことを考えていた。
団員たちの成長を願い、そのために必要なことをひとつずつ整理していた。
それなのに、自分はどうだ。
彼の言葉をまともに聞きもせず、頭の中で勝手な妄想を膨らませて。
ギルドマスターとして、あまりにも情けなかった。
「⋯⋯いや、いい。バカルカン、私が間違っていた」
リリィは拳を握りしめると、勢いよく自分の額へと叩きつけた。
ゴツンッ、と鈍い音が室内に響く。
「もう大丈夫だ。話に戻ろう」
「いや、さっき大丈夫じゃないって言ってただろ」
「さっきまではな。だが、今は違う。安心しろ。この程度で潰れるような軟な鍛え方などしていない」
そう言って、リリィは力強く笑った。
その顔には、先ほどまでの狼狽など微塵も残っていない。
バルカンはしばらく彼女の顔を眺めていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「⋯⋯わかったよ。だが、少しでも辛くなったら言えよ」
「ふん。誰にものを言っている? 余計な心配だ」
「だといいんだが」
バルカンは椅子へと腰を下ろし、机の上の資料を引き寄せた。
こうして、二人の打ち合わせは再開された。
ひとつひとつの問題について意見を交わし、必要な部分には修正を加えていく。
そうして話し合いを重ねるうち、部屋の中にはいつもの二人らしい空気が戻っていた。
それから、およそ一時間。
「⋯⋯よし。こんなところか」
最後の書類に目を通したバルカンが、ペンを置いた。
机の上に広がっていた資料を一つにまとめ、内容に抜けがないことを確認する。
これで、明日からの訓練計画はひとまず形になった。
「悪いな、遅くまで付き合わせちまって」
「構わん。必要なことだからな」
リリィは静かに首を振った。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、今は落ち着いた気分だった。
「⋯⋯ありがとうな。いろいろと」
不意に、バルカンが微笑んだ。
気恥ずかしさを誤魔化すような、いつもの軽い笑みではない。
心の底から感謝していると伝わる、穏やかな笑顔だった。
「合同訓練のこともそうだが、リオティスの能力についてもだ。お前が協力してくれなきゃ、ここまで準備できなかった。この借りは、必ず返す」
その言葉を聞いた瞬間、リリィの指先がぴくりと動いた。
視線が、自然と自身の左目へと向かう。
そこには、黒い眼帯がある。
かつては確かに存在し、今はもう見ることのできない左目。
眼帯の上からそっと指を添えると、彼女は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「⋯⋯借りがあるのは、私の方だ」
「ん? 何か言ったか?」
リリィは眼帯から手を離すと、何事もなかったかのように首を振った。
「いや、何でもない」
「そうか?」
「ああ。それよりもだ、バカルカン。お前に伝えておかねばならないことがある」
声の調子を変えたリリィに、バルカンもまた表情を引き締めた。
「何だ?」
「オヴィリオンについてだ」
その名が告げられた瞬間、室内の空気が変わった。
バルカンの瞳が鋭く細められる。
「オヴィリオン⋯⋯? あの組織がどうかしたのか?」
「⋯⋯アトランティスのことは知っているだろう?」
「監獄迷宮〝アトランティス〟か?」
「そうだ」
リリィは頷いた。
アトランティス。
かつて攻略された迷宮でありながら、現在はディザイアによって監獄として利用されている特殊施設だ。
海底深くに沈むその迷宮は、通常の手段では出入りすることすらできない。
外界から隔絶された、囚人たちの牢獄。
そして、ディザイアが誇る難攻不落の監獄でもある。
「そのアトランティスに収監されていた囚人が⋯⋯オヴィリオンの人間によって消された」
「⋯⋯は?」
バルカンの表情が凍りついた。
「待て。今、何て言った?」
「囚人が消されたと言ったんだ」
「有り得ないだろ!」
思わず声を荒らげる。
無理もない。
アトランティスは、そう簡単に侵入できる場所ではないのだ。
迷宮そのものが海底深くに沈んでおり、出入りにはディザイア本部に設置された専用の転送装置を使用する必要がある。
厳重な警備体制に加え、周囲を取り巻く深海という天然の障壁。
仮に監獄内で騒ぎを起こしたとしても、地上へと逃げ延びることは容易ではない。
だからこその難攻不落。
その監獄に、オヴィリオンが侵入し、囚人を消し去ったという。
にわかには信じ難い話だった。
「一体、どうやって⋯⋯」
「能力による侵入らしい」
リリィは淡々と説明を続けた。
「以前、お前が捕らえた構成員がいただろう。イースという男だ」
「あぁ⋯⋯あいつか」
「あの男には、何者かによって能力が付与されていた。空間を転移するような能力だったらしい。それを利用され、アトランティスへの侵入を許したそうだ」
「能力を付与されていた、だと?」
バルカンの眉間に深い皺が刻まれる。
他者に能力を付与する。
それがどのような原理によるものなのか、現時点ではわからない。
だが、少なくとも厄介な能力であることは間違いなかった。
イースのような構成員を侵入の足掛かりとして利用できるのなら、監獄の堅牢さそのものが意味を失いかねない。
「囚人には、能力を封じ込めるための記憶装置が取り付けられているはずだろ?」
「それは間違いない。だが今回の件を見る限り、付与された能力については想定されていなかった可能性が高い」
「チッ⋯⋯穴があったってわけか」
バルカンは舌打ちした。
どれほど強固な防壁を築こうとも、想定外の手段を使われれば意味をなさない。
ましてや、相手はオヴィリオンだ。
常識に則った対策だけで防げるような組織ではない。
「侵入したのは、たったひとりだそうだ。そいつによって、囚人と看守が虐殺された」
「⋯⋯目的は能力者狩りか」
オヴィリオンは、迷宮内で記憶者を殺害することを目的として活動している。
アトランティスも、すでに攻略されたとはいえ迷宮であることに変わりはない。
そこには強力な記憶者が複数収監されていたはずだ。
ならば、今回の襲撃も、その活動の一環と考えるのが自然だろう。
「おそらくな」
リリィは肯定も否定もせず、静かに答えた。
「何にせよ、今のアトランティスは正常に機能していない。監獄としての役割を果たせる状態ではないそうだ」
「⋯⋯最悪だな」
「だが、問題はそれだけではない」
リリィは一拍置いた。
それまでの説明を整理するように、机上の書類へと視線を落とす。
「今回の事件で、もう一つ気になる点がある」
「気になる点?」
「囚人の死体数だ。現場を調査した結果、数人分の死体が確認できなかったらしい」
バルカンの表情が変わった。
リリィは、その反応を確かめるように一度だけ視線を向ける。
「おそらく、侵入したオヴィリオンの人間が連れ去ったのだろう」
つまり、脱獄。
ただ殺すだけなら、わざわざ死体を持ち去る必要はない。
ならば、連れ去られた囚人たちには、何らかの利用価値があったと考えるべきだろう。
もともとオヴィリオンに属していた人間なのか。
それとも、能力や戦闘技術を見込まれ、新たに勧誘されたのか。
どちらにしても事態は深刻だった。
アトランティスに収監されていたのは、いずれも危険性が高いと判断された犯罪者たちばかりだ。
その中でも、とりわけ厄介な者たちが野放しになったのだとすれば――これから先、どれほどの被害が生じるか予測もつかない。
「⋯⋯なるほどな」
しばらくして、バルカンが口を開いた。
「俺の耳にまで届いていないってことは、ディザイアはこの事件を公表していない。⋯⋯隠蔽するつもりか」
「そういうことだろうな」
バルカンは片手でこめかみを押さえ、深々と息を吐いた。
「ふざけやがって⋯⋯。評価や体面を気にしてる場合じゃねェだろ」
苛立ちを隠そうともしない声だった。
アトランティスから危険な犯罪者が脱獄した。
その事実が世間に知れ渡れば、混乱は避けられないだろう。ディザイアに対する不信感も、一気に高まるに違いない。
組織として、その事態を避けたいという思惑は理解できる。
だが、それで危険が消えるわけではない。
むしろ、情報を伏せることで対応が遅れ、被害が拡大する可能性すらある。
「私も今回の判断には反対だった。だが、どうすることもできない。ボスの決定は絶対だ。私たちにできるのは、その決定の中で最善を尽くすことだけだ」
「だから、俺たちだけでも警戒しておく必要があるってことか」
「そういうことだ」
リリィは机の上から一枚の書類を取り上げた。
そこには、今回の事件に関する情報と、脱獄した囚人たちの名前が記されている。
「脱獄囚は、合計五名」
彼女は書類へと目を落とし、ひとりずつ名前を読み上げた。
「〈血狼〉エドガー。〈死の預言者〉カーン。〈誘魔〉シシリア。〈黒塗の破壊王〉ダズ。そして――」
そこで、ほんのわずかに言葉を切った。
「最も警戒すべき人物。世界一の殺し屋一家、ウィードル家の当主⋯⋯ヴァルド」
「⋯⋯ウィードル家?」
その名前を聞いた途端、バルカンの目つきが変わった。
他の四人についても、決して聞き覚えのない名前ではない。いずれも名の知れた犯罪者であり、危険人物として扱われてきた者たちだ。
だが、ウィードル家だけは別だった。
「確か⋯⋯お前が三年前に壊滅させた一家じゃなかったか?」
「そうだ」
リリィは短く答えた。
「ヴァルドは、そのときの生き残りの一人だ」
「⋯⋯そいつは確かに手強いな」
バルカンは腕を組んだ。
ウィードル家。
殺しを生業とし、裏社会でその名を知らぬ者はいないとまで言われた一族。
三年前、リリィの手によって壊滅したはずだったその一族が、今になって再び表舞台へと姿を現そうとしている。
偶然にしては、あまりにも不穏な話だった。
「あの男は危険だ」
リリィの声には、普段とは異なる重みがあった。
いつもの余裕を感じさせる顔つきではない。
わずかに険しさを帯びた眼差し。その奥に、過去の記憶を思い返すような色が浮かんでいた。
「⋯⋯ん?」
ふと、バルカンが何かに気づいたように顔を上げた。
「待てよ。三年前、ウィードル家⋯⋯?」
バルカンはすぐさま机上の資料へ手を伸ばした。
先ほどまで目を通していた、今回の合同訓練に参加する団員たちの名簿。
ページをめくり、名前を探し、該当する人物の情報へと視線を走らせる。そして――。
「⋯⋯⋯⋯」
あるひとりの名前を見つけたところで、バルカンの手が止まった。
数秒間、書面を見つめたまま動かない。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「⋯⋯そういうことか。道理で隠していたわけだ。にしても、とんでもない無茶をしたな。普通なら、そもそも入団できないだろ」
バルカンは書類から顔を上げ、リリィへと視線を向けた。
対するリリィは、何も言わなかった。
ただ、静かに頷く。
「〈六昇星〉の権限だ。それに、あいつ自身は罪を犯していない。⋯⋯血に罪はないはずだろう」
「⋯⋯そうだな」
バルカンはそれ以上、何も尋ねなかった。
「まっ、取りあえず脱獄囚には注意ってことだな」
バルカンは資料をまとめながら、いつもの調子を取り戻した。
「もっとも、オヴィリオンに取り込まれてる可能性が高そうだがな」
バルカンは束ねた書類を机の端へと置き、凝り固まった肩を軽く回した。
ひとまず、必要な情報は共有できた。
今後の訓練においても、脱獄囚とオヴィリオンの動向には注意を払う必要があるだろう。
だが、今この場でできることは限られている。
明日になれば、また忙しい一日が始まるのだ。
ならば、せめて今夜くらいは――。
「そうだ、リリィ」
不意に思いついたように、バルカンが顔を上げた。
「せっかくだし、一杯どうだ? いい酒くらいあるんだろ?」
「⋯⋯酒?」
「ああ。久しぶりにお前とこうやって話せたんだ。たまには悪くないだろ」
何でもないことのように言って、バルカンは笑った。
その顔を見た瞬間、リリィの胸の奥が、かすかに痛んだ。
今夜、自分は何を期待していたのだろう。
好きな男と二人きりになった。自分の寝室に招き入れた。
もしかしたらほんの少しだけでも何かが変わるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていた。
だが、今ならわかる。
バルカンにとって、今夜はそういう夜ではないのだ。
彼は、明日の訓練のことを考えていた。
団員たちの未来を考えていた。
ギルドのためにできることを考えていた。
その眼差しは、いつだって前を向いている。
自分の気持ちに気づいているのかどうかさえ、怪しいものだ。
面倒くさがりで、適当で、何事にもやる気がないように見えるくせに、肝心なところでは誰よりも真剣で。誰かのためとなれば、自分のことなど後回しにしてしまう。
(⋯⋯そんなところに私は惹かれてしまったわけだ)
リリィは小さく息を吐いた。
そして、いつものように不敵な笑みを浮かべる。
「ふっ、そうだな。たまには付き合ってやる」
「おう。じゃあ、適当に酒を持ってくるわ」
バルカンは椅子から立ち上がると、部屋の出口へと向かった。
扉に手をかける、その直前。
リリィは彼の背中を見つめた。
(⋯⋯今は、このくらいの距離でいい)
ギルドマスター同士。
それぞれに守るべきものがあり、背負うべき責任がある。
だからこそ、この想いを急ぐ必要はない。
いつか、すべてが落ち着いたそのときに、彼が少しだけ立ち止まり、自分の方を振り返ってくれる日が来るのなら、そのときこそ伝えればいい。
リリィは眼帯の縁にそっと触れると、誰にも聞こえないほど小さく笑った。
――いつか、この想いが届く日を願いながら。




