第36話 男湯
「はぁ⋯⋯疲れた」
湯船に肩まで身を沈め、リオティスは夜空を仰いだ。
フクシア島へ到着してから、まだ一日しか経っていない。
長い船旅を終えたと思えば、息をつく暇もなく大森林での合同訓練が始まった。
精神的な疲労も、肉体的な疲労も、想像以上に蓄積していたらしい。
こうして一日の終わりを迎えたことで、張り詰めていた糸が切れ、今まで意識していなかった疲労が、一気に全身へとのしかかってきた。
だが、不思議と嫌な気はしなかった。
この痛みも、疲労も、今は心地よく感じられる。
能力を明かし、秘密を吐露し、自分自身を隠すことなく曝け出した。
ずっと恐れていた。見放されることを。拒絶されることを。
自分の本当の姿を知れば、誰もが離れていくのだと、そう思っていた。
だが、仲間たちは何も変わらなかった。
本当の自分を受け入れてくれた。信じてくれた。
仲間たちの変わらぬ想いが、リオティスに気づかせてくれたのだ。
自分は〈月華の兎〉の一員なのだと。
胸の奥に残ったその実感だけは、何があっても消えることはないだろう。
「⋯⋯綺麗だな」
ぽつりと呟く。
視線の先には、無数の星が散りばめられた夜空が広がっていた。
眩しく輝く星々。
それはまるで、これまで自分の中に抱えていた闇を照らし、ようやく得た居場所を祝福してくれているようだった。
「ふぅ⋯⋯」
リオティスが小さく息を吐くと、隣の湯が静かに揺れた。
「気持ちいいな。こういうのも、たまには悪くない」
「そうだな。それにしてもお前、俺の隣が好きなのか? 訓練が終わってからずっとだろ」
隣に座ったウィルドへ、リオティスは茶化すような笑みを向けた。
「もしかして、俺のことが気に入ったか?」
「馬鹿を言え。ただ⋯⋯」
ウィルドは少しだけ言葉を探すように視線を逸らした。
「訓練で負けたからか、お前の強さを知れたからか⋯⋯少なからず、傍にいても嫌な気はしない」
「それを気に入ったって言うんだよ」
リオティスは苦笑しながら、両手で湯を掬い上げた。
指の隙間から零れ落ちる湯が、水面に小さな波紋を作る。
揺らめく水面をぼんやりと眺めた後、リオティスは手を離した。
「俺も嫌な気はしない。最初はクソ真面目で固い男だと思っていたが⋯⋯案外、話がわかるみたいだしな」
「真面目だとは、よく言われる。僕はただ、ルールを重視しているだけなんだがな」
普段とは違う、どこか気の抜けた表情。
だが、その声には確かな信念があった。
「ギルドで働く以前に、僕たちは人間だ。ルールを破り、己の私利私欲のままに生きれば、それは魔獣と変わらない。⋯⋯僕は、血に飢えた獣に成り下がりたくはない」
火照った顔を夜風に晒しながら、ウィルドは遠くを見つめていた。
その横顔には、何かを思い出しているような影がある。
「なら、ルールを破った俺は獣と同類ってことか?」
リオティスが冗談めかして尋ねる。
「嫌う理由はあれど、近寄る理由はなさそうだが?」
「普通なら、そうなんだろうな」
ウィルドは否定しなかった。
ただ、静かに言葉を続ける。
「だが、お前は他の屑たちとは違う。不器用で、仲間想いで、心に芯を持っている」
そこで、ほんの僅かに口元を緩めた。
「ある意味では、最も人間らしい。⋯⋯少しだけ、お前が羨ましかったのかもしれないな」
その言葉を最後に、ウィルドは黙り込んだ。
視線はリオティスへ向いていない。
ただ、ずっとずっと――遥か遠くを見つめている。
その瞳の奥には、何が映っているのだろうか。
リオティスは、隣に座る男の寂しげな横顔を見つめた。
何か事情がある。
そう感じつつも、聞いてはいけない気がした。
「⋯⋯⋯⋯」
夜の静けさが、二人の間にゆっくりと戻ってくる。
――その直後。
「お疲れさん、二人とも! 俺も隣いいかい?」
重くなりかけた空気を壊すように、明るい声が響いた。
「なんだ、アルスかよ」
「嫌そうな顔すんなって! 俺も傷つくからな!」
白い歯を覗かせながら、アルスが湯船へ入ってくる。
「にしてもいい場所だよな。綺麗で、大きくて。男前にも磨きがかかるってもんだ」
リオティスの隣へ腰を下ろしたアルスは、気持ちよさそうに両腕を伸ばしていた。
「お前はどこでも元気だな」
「そりゃそうだろ。風呂だぜ、風呂! しかもこんな立派な露天風呂!」
アルスは上機嫌だった。
濡れた髪をかき上げ、湯気の中で笑う姿は妙に様になっている。
「⋯⋯お前、マジで黙っていたらイケメンだよな」
「なんだよ急に!」
アルスが目を丸くする。
「もしかして口説かれてる? 俺、ついにリオティスに――」
「そういうところだぞ」
リオティスは半眼を向けた。
すると今度は、アルスがじっとリオティスを見つめ始める。
顔。首。肩。
そして、そのまま全身へ。
「⋯⋯なんだよ」
「いやぁ、リオティス。お前もこうやって見ると、本当に女の子にしか見えないよな。なんていうか⋯⋯見てはいけないものを見ている気分になる」
「だから、そういうところだぞ」
妙に鼻息を荒くして迫ってくるアルスを、リオティスは慣れた手つきで押し返した。
もはや、この男の扱いにも慣れたものだ。
「その勢いだと、どうせ隣の女湯でも覗くつもりだろ」
呆れながら、リオティスは女湯との境にある壁を指差した。
露天風呂を隔てるには十分な高さ。
だが、よじ登ろうと思えば不可能ではない。
何より、男湯と女湯の距離が近い。
今も壁の向こうから「おーっ!」という、妙に元気な声が聞こえてくるほどだ。
この状況。
女好きのアルスなら、何かしでかしても不思議ではない。そう考えて釘を刺したのだが――、
「いや、覗かないだろ。普通に」
アルスは真顔だった。
「レディの嫌がることはするべきじゃないよ。男として当たり前だろう?」
「全くだ」
ウィルドまで頷く。
「リオティス。お前、本当に犯罪者にでもなるつもりか?」
「はぁ!?」
おかしい。
完全に立場が逆になっている。
「いや、俺はただ――」
「リオっち、覗きはダメッスよ。当然のマナーッス」
今度は遠くからレイクの声が飛んできた。
「いや、だから――」
「うわぁ、リオティスってそういう感じだったんだ」
さらに続けざまに、フゥの楽しげな声。
「むっつり」
「お前らなぁ!」
どうやら二人とも身体を洗いながら、ちゃっかりこちらの会話に耳を傾けていたらしい。
こうしてみると、どう考えても自分だけが悪者である。
「⋯⋯」
四方八方から突き刺さる視線。
耐えきれなくなったリオティスは、そっと背を向けた。
「⋯⋯ハァ」
肩が落ちる。
「どうしてこうなるんだよ⋯⋯クソ」
「怒るなって、リオティス」
アルスが肩を叩く。
「俺はそういうところも大好きだぜ!」
「犯罪は未然に防げた。安心しろ、リオティス。お前はまだ人間だ」
格好つけながらフォローするアルス。
そして、妙に本心から心配してくるウィルド。
その二人の気遣いが、今は何よりも腹立たしかった。
「もういい。俺は上がる」
これ以上ここにいても、碌なことにならない。
そう判断したリオティスが、湯船から立ち上がった。その時、
「キャアアアアアッ!?」
女湯から、凄まじい悲鳴が響いた。
「⋯⋯は?」
リオティスが顔を上げる。
湯気の向こう。
女湯との境にある壁の上から、何かがこちらを覗いている。
目を凝らすと、そこにいたのは四人の女性だった。
両目をこれでもかというほど見開き、口を半開きにして涎まで垂らしているニャルン。
「ニャハ!」
顔を真っ赤に染め、鼻血を流しているフィト。
「うわぁ⋯⋯」
両手で顔を覆っているくせに、その指の隙間からしっかりとこちらを覗いているティアナ。
「キャッ⋯⋯」
そして、
「オーイ、ご主人!」
まるで悪びれる様子もなく、笑顔で手を振っているタロット。
「⋯⋯⋯⋯」
リオティスは固まった。
四人も固まる。
ほんの一瞬だけ、男湯と女湯の間に妙な静寂が流れた。
「⋯⋯お前ら」
状況を理解したリオティスの額に、青筋が浮かぶ。
「何でお前らが覗いてるんだ!」
リオティスは右手を突き出した。
「この変態共!!」
掌に黒いパズルピースが集まる。
それは瞬く間に四つの塊へと分かれ、丸い砲弾へ姿を変えた。
夜の空気を切り裂き、放たれた黒い砲弾。
その全てが真っすぐに四人へと向かう。そして――
「ンニャ!?」
「あうっ!」
「キャア!」
「うわぁ!?」
見事なまでに、全弾命中。
額へ直撃を受けた四人が、揃って壁の向こうへと落ちていった。
「「「「うわぁぁぁぁぁっ!?」」」」
情けない声が遠ざかっていく。
やがて、何事もなかったかのように辺りに静寂が戻った。
「⋯⋯」
リオティスは、突き出した右手を見つめる。
今日、自分は能力を仲間たちへ明かした。
恐れていた秘密を打ち明け、それを受け入れてもらえた。そのはずが、
「⋯⋯せっかく能力を見せたって言うのに」
リオティスは深々とため息を吐いた。
「こんな使い方させるなよ⋯⋯」
湯に浸かることで流れ落ちたはずの疲労が、今度は別の意味で再び全身へとのしかかってきた。
「⋯⋯散々だな今日は」
リオティスは疲れ切ったようにぼやくと、そのまま露天風呂からひとり出て行った。




