第32話 魔女①
「ぐううううっ⋯⋯」
静まり返った森に、腹の底から絞り出したような音が響いた。
「限界です!」
声の主――フィトが、勢いよく右手を掲げた。
「お腹空きました!」
切実極まりない訴えだった。
少しの沈黙。
やがて〈月華の兎〉の団員たちが、示し合わせたように顔を見合わせた。
「結構動いたッスもんねぇ⋯⋯」
レイクが肩を落とす。
訓練による疲労は、今になって一気に身体へ押し寄せてきていた。
「そうね。私もお腹ペコペコ」
ティアナも苦笑しながら腹部へ手を添えた。
時刻は正午をとうに回っている。
先ほどまで張り詰めた空気の中で訓練に没頭していたせいか、誰も空腹を意識する余裕などなかった。
だが、ひとたび戦いが終われば話は別だ。
緊張から解放された身体が、それまで押し殺していた欲求を一斉に訴え始める。
リオティスも例外ではなかった。
ぐぅ、と腹の奥が鳴る。
フィトほど盛大ではないが、空腹であることに変わりはなかった。
それに気づいた瞬間、張り詰めていたものがまた一つ解けていく。
――仲間。
そう認められた。
その事実を思い返すと、胸の奥に奇妙な感覚が広がった。
むず痒いような、それでいて悪くない感覚。
今までなら、こんな場所で誰かと食事をすることなど考えもしなかっただろう。
だが、今は違う。
目の前には、自分と同じように腹を空かせた仲間がいる。それが、妙に可笑しかった。
リオティスはフィトに倣うように手を上げる。
「飯にしようぜ。このままじゃ、フィトが見境なく暴れそうだ」
「君、ボクを猛獣か何かだと思ってません?」
「似たようなもんだろ」
「なら、君を食べたって問題はないわけですね!」
フィトが牙を剥くように口を開いた。
唇の端から、つう、と涎が垂れる。
その姿はとても冗談には見えなかった。
「⋯⋯どっかにコイツを閉じ込めておく檻はねェのか」
「ないわね」
ティアナは真顔で答えた。
「命が惜しければ、早くフィトに食事を提供したほうがいいわ」
「だから、人を飢えた獣みたいに言わないでください!」
フィトの抗議を聞き流し、ティアナはリリィのもとへ向かった。
「リリィさん。この場で昼食を取っても問題ないでしょうか?」
「構わん。というより、最初からそのつもりで準備している」
リリィは振り返り、ひとつのテントへと親指を向ける。
「道具と食料はあの中だ。ルテアに管理を任せてある。必要なものを持ち出して、手分けして準備しろ」
「はい。ありがとうございます」
ティアナが頭を下げる。
そのままテントへ向かうと、待っていたかのように他の団員たちも動き始めた。
どうやら空腹を覚えていたのはフィトだけではなかったらしい。
次々とテントから鍋や食器が運び出されていく。
大森林での訓練。
そう聞けば、食事も自分たちで獲物を仕留め、木の実でも拾って賄うのかと思っていた。
だが、実際には違った。
携帯用の鍋。乾燥させた野菜。長期保存が可能なパン。塩漬けにされた肉や香辛料。必要最低限ではあるものの、食事に困らないだけの準備は整えられていた。
「そんじゃ、俺は外で準備するかな」
フゥが腕を伸ばしながら言った。
その視線が、ちょうどレイクを捉える。
「ねぇねぇ、そこの君。ちょっと手伝ってよ」
「えっと⋯⋯俺ッスか?」
「そうそう。君」
フゥがレイクの槍を指差した。
「レイクだっけ? その槍、炎を纏ってただろ? 俺が薪を組むからさ。ちょっと火を起こしてくれよ」
「了解ッス!」
レイクが快諾すると、フゥはさっそく薪を抱え込んだ。
両腕いっぱいに運んできた薪を地面へ置き、手慣れた様子で組み上げていく。
「よっし。こんなもんか」
最後の一本を乗せ、満足げに腰へ手を当てる。
「じゃ、頼むよ。レイク」
「任せてくださいッス!」
レイクは槍を構えると魔力を流し込んでいく。
手から柄へ、柄から槍へ。
蓄積された魔力が刃の先端へと集中される。
次の瞬間、槍先から炎が噴き出した。
薪へ叩きつけられた炎が一気に燃え広がり、乾いた枝を赤く染めあげる。
パチ、パチッ、と。
小気味のいい音とともに火の粉が舞った。
「おぉ⋯⋯めっちゃ便利じゃん。ありがとな!」
「お安い御用ッス。えっと⋯⋯」
「ああ、名前? 俺はフゥ。よろしくな」
「じゃあ、フゥっちッスね! こちらこそよろしくッス!」
二人は固い握手を交わした。
燃え盛る焚き火の横で、出会って間もないとは思えないほど気軽な会話が始まる。
その様子をリオティスは横目で観察していた。
――馴染むのが早いな。
そう思いながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、こういう光景が当たり前なのだと錯覚してしまいそうになる。
「こっちも、そろそろ煮込めそうね」
別の場所では鍋の準備が進められていた。
水の中へ乾燥野菜と刻んだ根菜が放り込まれ、続いて保存食用の塩漬け肉が加えられていく。
最後に香草をひとつまみ。
火にかける前だというのにも関わらず、既に辺りには食欲をそそる匂いが広がっていた。
「どう? 良い感じっしょ!」
デビラが得意げに胸を張る。
だが、
「⋯⋯なんか、物足りなくない?」
ティアナが鍋を覗き込んだ。
「もっと塩を入れましょう。あと、いろんな葉っぱも」
彼女の指先が、近くに置かれた植物へ伸びる。
「この紫色のとか!」
「それもいいですが、肝心な物を見落としていますよ」
続くように、フィトまで鍋へ顔を近づけた。
「足りないのは肉です。肉を入れましょう。ありったけ!」
「いや、ちょっと待って!?」
デビラの顔が引きつる。
だが、フィトとティアナに気づいた様子はなく、二人は次々に食材へと手を伸ばしていく。
「そもそも味付けは不要です。肉そのものが持つ自然の旨味を⋯⋯」
「フィトちゃんストップ! いい? 料理って言うのはね」
「わかったわ! じゃあこのキノコを入れましょう! さっきそこで採ったばかりだから新鮮よ!」
「だから待ってって!」
デビラが慌てて二人の手を押さえた。
「ティアナちゃん、それ薬草! しかもそっちのキノコ、猛毒あるやつだから! フィトちゃんも勝手に肉追加すんな!」
「薬草?」
「毒?」
二人が同時に首を傾げた。
「いや、そこから!?」
デビラの悲鳴が森に響く。
そんな騒がしい光景を、リオティスは少し離れた木陰から眺めていた。
ついさっきまで、彼らは互いに武器を向けて戦う敵同士だった。
それが今ではどうだ。
火を囲み、料理を作り、くだらないことで言い争っている。
誰も、先ほどまでの殺気など引きずってはいない。
まるで最初から、同じ場所で過ごしてきた仲間のようだった。
「⋯⋯良い光景だな」
ぽつり、と漏らす。
「あぁ。確かにな」
返事があった。
リオティスが顔を向ける。
いつの間に近づいてきたのか、隣にはウィルドが立っていた。
「ウィルド、だったか? お前は参加しないのか?」
「もう少ししたらな」
ウィルドが焚き火のほうへ目を向ける。
「そういうお前は?」
「俺も、もう少ししたら、かな」
「そうか」
互いに視線を合わせる。
どちらからともなく口元が緩んだ。
ほんの短い沈黙だった。
それでも、妙な居心地の悪さはなかった。
「そういや、人数少なくないか? あの女好き銃人間と、鏡使いはどこだ?」
「オルティシアは、まだ怪我が完治していなくてな」
ウィルドの視線がテントへ向く。
「オーロラが看病している」
「⋯⋯そうか」
リオティスの声が僅かに沈んだ。
オルティシアを傷つけたのは、自分だ。
フィトの仇を討つ。
その思いだけを胸に、加減を考えずに力を振るった。
勝負とはいえ、彼女に重傷を負わせてしまったことに変わりは無い。
リオティスの胸の奥には、小さな棘のようなものが残っていた。
「気にする必要はない」
ウィルドが、こちらを見ないまま言った。
まるで、リオティスの考えていることを見透かしているように。
「どうせ副団長の能力ですぐに治る。あのフィトとかいう女も、あれだけの怪我を負ったというのにピンピンしているだろ?」
リオティスはフィトへ視線を移した。
オルティシアよりも重症だったフィトが、今では元気に動き回っている。
銃弾を受け、全身を強く打ち付けていた彼女は、普通ならしばらく起き上がることさえできないはずだった。
「副団長の能力っていうのは、治癒の効果があるのか?」
「そんなところだ」
ウィルドが淡々と答える。
「どんな怪我でも治す。それだけじゃない。だからこそ、あの人は副団長の座にいる」
「どんな怪我でも⋯⋯か」
リオティスはその言葉を噛みしめるように呟いた。
記憶者。
それは、人の常識から逸脱した力を持つ者たち。
強力な能力を得るだけではない。
身体能力そのものが強化され、常人では考えられないほどの力を発揮できる。
リオティス自身も、その異常さは身をもって知っていた。だが、
「聞いたことのない能力だな。相当珍しいんだろうな」
「ああ。少なくとも、僕は他に知らない」
ウィルドの言葉に、リオティスは小さく頷いた。
傷を癒す記憶者。
それだけでも十分に強力だ。
その力を持つ人物が、〈日輪の獅子〉の副団長を務めている。
そう考えると、あの地位にいる理由も理解できた。
「そういえば⋯⋯」
今度はウィルドが話題を変えた。
「タロットとかいう魔法師は、まだ眠ったままだそうだ」
「まだ?」
「ああ。これに関しては僕の責任だな」
珍しく、ウィルドが自嘲気味に息を吐いた。
「少々、マナ酔いを激しく起こさせすぎたらしい」
「副団長の能力でも治らないのか?」
「無理だ。あれは怪我ではない。病気に近いものだからな。副団長でも、病そのものを治すことはできない」
「なるほどな」
タロットが脱落してから、ずっと眠ったまま。
それならば、リオティスが自らの能力を明かしたことも、まだ知らないはずだ。
せっかくなら、タロットにも見せてやりたかった。
リオティスが少しだけ残念に思っていると、
「よぉ、リオティス!」
森の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。
「それとウィルド! 何してんだよ。お前らも手伝えって!」
アルスだ。
その隣にはロメリアもいる。
「そうですよ! 言っておきますが、働かぬ者食うべからず、ですからね!」
ビシっと指を差すロメリアに、リオティスは心配そうに尋ねた。
「ロメリア。もう具合はいいのか?」
「ハイ! バッチリです!」
ロメリアは満面の笑みで親指を突き立てた。
「それどころか、もうお腹が空いちゃって! 早く皆さんで食べましょう!」
顔色も悪くない。
声にも力がある。
無理をしている様子はなさそうだった。
「そうか」
リオティスは胸を撫で下ろす。
その横では、アルスも同じように大きく息を吐いていた。
「よかった⋯⋯本当に良かったよ、ロメリアちゃん」
心底安心したらしい。
ところが次の瞬間には、いつもの調子を取り戻していた。
「でも、無理は絶対にダメだからね。少しでも気分が悪くなったら、すぐ俺に言うんだよ? そしたら俺が、お姫様抱っこでテントまで運んであげるからさ」
キラリ。
アルスの瞳が輝いた。
そして、お得意のウインク。
ロメリアは一拍だけ沈黙すると――そのままアルスの横を通り過ぎた。
「先に行ってますからね!」
「あれ?」
取り残されたアルスが固まる。
「⋯⋯おかしいな」
小さく呟いたあと、彼はがっくりと肩を落とした。
「振られた俺の心を癒してくれるのは、リオティスだけだ」
そして唐突に、リオティスへ手を差し出す。
「さっ、エスコートしてあげるよ」
「見境なしか」
差し出された手を払いのける。
「どうでもいい。それより、さっさと行こうぜ」
リオティスは歩き出した。
少し先では、ロメリアがこちらを振り返っている。
その向こうでは、フィトたちが料理を巡ってまだ騒いでいた。
「このままじゃ飯抜きらしいぞ」
「それは困るな」
ウィルドが隣へ並ぶ。
その声音には、ほんの少しだけ笑いが混じっていた。
「いや、俺を忘れんなよ、リオティス!」
背後からアルスの叫び声が飛んでくる。
振り返れば、慌てて追いかけてくる彼の姿。
リオティスは呆れながらも、歩みを止めなかった。
そのまま三人は、皆の待つ焚き火へ向かって歩いていく。
少し前までなら、考えられなかった光景だった。
敵だった者と肩を並べ、同じ火を囲み、同じ飯を食う。
これが〝仲間〟というものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、リオティスは僅かに口元を緩めた。




