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その家はほかの建物と比べると大きく見えたが、村に不釣り合いなほど大きいというほどでもなかった。カディールはユティアたちが追いついたのを確認して入り口の扉を叩いた。
それは、普通の叩き方ではなく、リズムをつけた音楽のような音だった。不思議に思いつつも、奇妙な静寂が落ちてユティアは息を潜めて扉を見やった。
だがそこからの返答はない。
「留守なの?」
「―――いや……」
ユティアの素朴な疑問に、シオンが短く否定する。
「たぶん出直したほうがいい……カディール」
シオンの感じ取る何かを、ユティアは察することができなかった。それは純粋な魔道力によるものなのか、それとも経験なのか……。それすらわからないままで。
「でも、俺は約束した。いつか必ずここに寄るって……だからライラスが俺をわからないはずはないんだ」
カディールは振り返らなかった。
ただその背中から緊張のようなものが伝わった気がして、それだけでユティアは息苦しさを覚えた。今回立ち寄ることができなかったとしてもいずれカディールは、きっとひとりでもここにやってくるつもりだったのだろう。
しばらく待つと、カディールの予想が当たり、内側から扉に人が近づいてくる気配がした。薄く開かれた扉から覗いた片目がカディールを確認し、ようやく扉を少し大きく開けた。
「―――入って」
若い女性の、固い声。
カディールが躊躇なく扉をくぐるのを見て、ユティアもシオンに促されながらそれに続いた。
エリシャの文化は古く独特で、室内に入るときには靴を脱ぐ。それは民家でも神殿でも同じだ。そんな習慣もユティアは覚えていなかったが、カディールとシオンがそうしているのをごく普通に真似していくと、そんな文化にもようやく慣れてきた。さまざまなことがエヴァン王国とは違っていて、そのたびにここが異国なのだと気づかされる。
短い廊下の先に扉のない部屋があった。カディールは女性に案内されるまでもなくその部屋の入り口に立ち、その場で不自然に足を止めた。部屋の中に壮年の男が立っているのが見えた。
「アインズ……っ」
中背の痩せた体躯ながら眼光が鋭く、それはどことなく野性的で、獲物を狙う肉食動物のような強さを持っていた。焦燥感を孕んだカディールの声にも、彼は揺るがない瞳で見返しただけだった。
「座れ」
静かだが、有無を言わさぬ口調。そして自らも絨毯の上にゆっくりと腰を下ろした。エリシャではほとんど椅子は使われないようで、ユティアはここに来てから一度も見ていなかった。エヴァン王国でも神殿などの質素なところでは固い椅子しかなかったが、エリシャではそもそも習慣的に使われていないようだ。
カディールは納得しきれない顔つきで、なおも立ち尽くしている。ユティアも、彼から目をそらすことができなかった。―――彼の、足、から。
「……どうしたんだよそれっ」
アインズと呼ばれた男は、杖をついて器用に立ってはいたが、右足の膝より下がなかったのだ。
「まあ、座れ」
彼はもう若いと言われる年齢ではないように見えるが、足のことを除けば、がっちりとした体格で強そうに見える。厳しい表情をしているが、ジュリアス・クラウドのような恐ろしい印象は受けなかった。
「ライラスはっ?」
疑問は尽きないらしく、カディールは剣を右に置いて乱暴に座るも、焦れた様子でアインズという男を見やった。ユティアもシオンとともに、カディールの隣に座ったが、居心地の悪さを感じた。
アインズが、ちらりとこちらを向いたからだ。
それは不穏も嫌悪もない代わりに、来客を歓迎する様子もない。だが、警戒されているわけでもなく、複雑な感情が入り乱れているようだった。
「人にものを尋ねるときはまず自分から言えと、我が父に教わらなかったか」
「……アインズっ」
あくまで冷静沈着な態度の男に、カディールは声を思わず荒げたが、彼は気にした様子もなくカディールを見上げた。座っていても、カディールのほうが背が高いのがわかるが、アインズのほうが歳を重ねた分の威厳があった。
「―――何か冷たい飲み物でも入れてきなさい。ティリン」
カディールたちの後ろに目を向けた男は、女性に声を掛ける。それでも何か言いたそうに彼女は口を開きかけたが、アインズの瞳に押されて、黙って奥の部屋に入っていった。
「……今のは?」
「ティリンか。俺の娘だ」
「―――え?」
「そうか、お前は会ったことがなかったな。あのころの王都周辺はきな臭かったから、あれの母親の実家に避難させていた。それでもけっきょく妻は戦の犠牲になったがな」
「…………」
淡々と語る彼の口調にこそ、深い感情が宿っていた。
ここは長閑な片田舎にしか見えないが、王都フランジアに近く、きっといろいろなことがあったのだろう。ユティアにはきっと想像もつかないような様々なことが。
カディールとアインズの間に、軽くない沈黙が落ちる。
「―――でも俺は、メルフィを見せてやりたいんだ」
「……やはり、このお方が?」
アインズの薄茶色の双眸が、じっとユティアを見つめた。
「リディアーナ姫でございますか」
老成とした声は心地よい音だったけれど、ユティアは頷くこともできなくてただうつむいた。誰にも聞こえないほど小さな声で、はいとだけ答えた。
その名前を聞いたのは久しぶりだった。実感はまるでないが、それがユティアの王族としての公式な名前だ。
リディアーナ=ユティア=エリシャ。
国の名を名前に擁するができるのは、王族の証。そして、王族には近しい者にしか明かさない通称がある。それがユティアという名前だった。
「本当にあの……お小さくあらせられた姫君が……」
彼は溢れる感情をこらえるように、きつく目を閉じてつぶやいた。ユティアが知らないこと、忘れてしまったこと、彼らはすべてを抱えている。
「ユティア、アインズはあんたが住んでた離宮の管理を任されてた一族なんだ。今はここの村長に迎えられてる。離宮もこのそばだ」
「……住んで、た?」
離宮。
(わたしがこの近くに……住んでいた?)
カディールが口を閉ざしていた理由。
(……メルフィ、は、離宮の、名前?)
何も記憶がなかった。
ユティアが覚えているのは、母と二人で籠を編んで暮らしていたころからで、それ以前は御伽噺として母から聞いただけ。その記憶すら曖昧なままだった。それらが突如として現実味を帯びて、目の前に現れた気がした。
アインズのユティアに向ける瞳から、ここにいたころの幼いユティアを見たことがあるのだろうとわかる。そしてきっと、兄クレイにも会っているのだろう。彼のまなざしはどこか、ユティアの中にクレイを探そうとしているようだったから。
姫だったころのユティアを知る、数少ない者だ。
「ライラスは? 今いないのか?」
改めてカディールは、それを聞いた。
「おじい様はカストゥールからきた役人に、殺されたよ」
後ろから声がして、三人はいっせいに振り返った。ティリンという女性が、器に冷たい飲み物を乗せた盆を持って立っていた。
カディールは、無表情で彼女をただ見上げた。彼女もまた、そんなカディールを静謐に包まれた瞳で見おろす。淡々とした彼女の口調からは、何も読み取れなかった。悔恨も悲壮も苦悩も、怨嗟すら。
「ーーー嘘だ!」
なんの脈略も根拠もなく、カディールは咄嗟に否定していた。無意識なのか、置いた剣を握りしめた。震えるこぶしのまま立ち上がり、ティリンとアインズを見下ろした。
「……ライラスが、死んだ?」
虚無の空気とともに、言葉を吐き出す。
握り締めたこぶしを、どこに向かわせるでもなく振り上げそうになり、それをシオンに止められる。力まかせに振り払うこともできたはずなのに、カディールはそうしなかった。
ぐっとそれをさらに強く強く……握り締める、だけで。
「……俺は、一度もライラスに」
そうつぶやいたきり、口を閉ざした。
ここはもう、エヴァン王国とは違う。彼らの過去が眠るエリシャ王国なのだ。両者の間に何があったのか推測すらできなくても、それをユティアは身にしみて理解した。
カディールはこの国に多くの思いを残してきている。いつもユティアを導いてきたカディールが、こんなふうに声を絞り出すような感情を見せることは今までなかった。
(―――わたし、だけじゃ、なかったのに……)
何も覚えていないユティアのほうが、彼よりも楽なのかもしれない。自分のことばかり考えて、無駄に悩んで、でもカディールとシオンがいるから大丈夫などと、無条件に甘えていた。
だが、ここにはカディールの生きた証もある。……ユティアだけでなく。
そして彼には、ユティアのように暢気に都合よく、忘れてなどいない記憶がある。カディールはそれらをすべて一人で抱えたまま、このエリシャに立っていた。
(なにが……あったんだろう……)
過去のカディールや現在の彼らの状況を何一つ推測できないユティアは、ただカディールが振り上げたこぶしを見つめた。
注視しなければわからないほど、わずかに震えるそれ。ーーーたぶんそれは、ユティアこそが知っていなければならないこと。目を背けているものにカディールだけが向き合うのではなく。
「まあ、そういうことだ。カディール」
アインズの言葉は静かだった。
「やつらは、旅人のなりをして村にやってきた。俺たちはメルフィの管理人だからな。ここに姫君を匿っていると思っていたんだろう。何もないとわかると、メルフィを徹底的に破壊していった」
「―――じゃあ、そこはもう」
アインズは頷いた。
「何も残ってない廃墟だ。金目のものはとくにすべて取っていきやがった。まるで盗人だ」
彼の口調は淡々としていて、もうすべてを諦めたようだったから、それはユティアにも一抹の不安を残した。
もう過去のことだと割り切っているのか、それとも……。
消化しきれないわだかまりや苦しみが、今なお彼らを捕らえている気がして。
「でも……ちゃんと、生きていてくださったんですね」
ふと呟いたティリンの声は固い。顔を上げたユティアに見せた彼女の笑顔もまた、どこかぎこちなく感じた。
「私たちの姫様だから、ご無事なのは嬉しい……でもそれで私たちの生活は何か変わるの?」
「ティリン」
アインズが軽くたしなめると、彼女ははっと気づいて口を噤んだ。無意識に漏れてしまった言葉だったようで、ユティアとそしてカディールに軽く頭を下げる。
飲み物を置いて、彼女はすぐに部屋を出て行った。だが、ユティアには彼女の謝罪は必要ない気がした。
(だってこのひとが正しい。わたしがいても……なにひとつ変わらない)
カディールがそばにいないと不安で、シオンがいなければ魔道もろくに扱えない。ユティアのせいであらぬ疑いをかけられて殺されたというライラス。残された家族たち。
アインズの顔を見ていられなくてうつむいてしまったユティアの頭を、くしゃりと撫ぜたカディールの大きな手。それはもう震えていなかった。
甘えてはいけないとわかっているのに。
ますます萎縮するユティアを見てひとつ溜息をついたアインズが、気にするなという態度で改めてカディールのほうを向いた。
「カディール。ここにはもうお前が知るメルフィはない。それに……残念ながら、姫君が安心して暮らせる場所などこのエリシャのどこにもないんだぞ」
カディールはわかっているというようにひとつうなずいた。
「エリシャ王国に長居する気はない。でも……俺はただ……それでも、メルフィをもう一度見ておきたいんだ」