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野菜畑や果樹園を両脇に眺めながら、カディールの言葉どおり二日後の午前中にユティアたちはその土地に到着した。
特別なところなど何もなさそうな、長閑な山中の村。自分の畑に向かうのだろうか、荷台を引いた何人かの村人とすれ違うが、見知らぬ珍客を歓迎する様子はそこにはなかった。
警戒と疑念。
そして、たぶん拒絶。
エリシャの土地では旅人が珍しいのか、胡乱な眼差しを向けられることが多かったのだが、ここでは特にそれが強いような気がする。けれど、カディールとシオンは特に気にした様子を見せなかったため、ユティアもすぐに忘れることにした。
やがて民家が点在するようになり、ユティアたちはそこで馬を下りた。
目抜き通りというには小さかったが、村の中心になるであろう道を歩くと、小さな市場が開かれていて、村人たちでそれなりににぎわっていた。小さな町や村にはよくある光景だ。
「メルフィってこの村のこと?」
ユティアにも村と町の規模の違いがだんだんわかってきた。ここには目立つ大きさの建物がない。神殿すら平屋のようだった。町の規模はそのまま神殿の規模に等しい。
こんな小さな村に何か特別な用事があるようには思えなかった。
「ここはヨイゼの村。メルフィってのはあっち」
カディールが軽く指差した先には、なだらかに上る道が延々と続いているだけのように見えた。
カディールは、メルフィについて何も説明しなかった。自分から行きたいと決めた目的地なのに、それについての話題は避けているようにユティアには思える。メルフィに近づけば近づくほど、カディールは奇妙に口数が少なくなっていた。
「でもその前に村長んとこ行くから」
「村長? 神殿じゃなくて?」
町や村にたどり着いたらまず、神殿に行くのが当たり前になっていた。エヴァン王国と同様に、エリシャにも天神クリスナードを祀る神殿はどんな小さな村にも必ず存在し、人々の信仰を集めている。また、旅人のために解放しているというのも同じだった。
(村長……って村でいちばんえらいひと……カディは知り合いなのかな)
さすがに、理由もなく会える人物ではないだろう。
王宮騎士をしていたというカディールなら、そういった人々とも関わりがあったのかもしれない。
(わたしは、この国にいたカディのことを、何も知らない……)
この国にいた自分自身のことすら何も分からないのだから、他人のことなどわかろうはずもない。
(王宮騎士って……どんなものなんだろう?)
貧民街にいたころ、誰かが旅芸人の話を聞いてきたのか、一時期そんな夢物語が流行っていたことをユティアは最近思い出す。
それは、騎士と姫の、陳腐な恋物語。
もう詳細は何も覚えていないが、最後は決まって二人は幸せに暮らしていた。騎士は誰よりも強く、姫は誰よりも美しい。けれど、ユティアの周りには当時、そんなものは脳裡以外のどこにも存在していなかった。
自分がお姫様だったらよかったのに―――あの頃そんな想像をしなかったと言えば嘘になる。この話を思い出すたび、おそらく貧民街の娘らは誰もがそんな浅はかな願いを脳裡に浮かべた。だが、現実はそんな淡い世界すら蝕んで消した。想像することすら、空虚で無意味だった。そんな理想の世界をいくら思って思って思っても、空腹は満たされず、寒さはしのげない。叶いもしない理想よりも、目の前の切実な問題―――生き延びることを考えなければならなかった。その事実と向き合った頃には、母が語ってくれていた空想の物語を思い出すこともなくなっていた。
だが、現実とはわからないものだ。
自分が姫で、目の前に騎士のカディールがいる。
けれど、あの恋物語のように華やかな世界を生きているようには見えない。それはもちろん、彼にはもう仕えるべき国や王がどこにも存在していないからなのだろう。
(それにわたしなんかが『姫』じゃ……)
物語になんて遠く及ばない。姫だと言われても、あのころ想像していた理想の姫とは比べるべくもなかった。
ユティアはカディールの頼りがいのある背中を見つめた。
「ユティア」
シオンの優しい手が、そっとユティアの肩に触れる。
「どうしましたか? カディールがどんどん先に行ってしまいますよ」
いつのまにか歩みが遅くなっていたようだ。
カディールが前で引っ張り、シオンが後ろからそっと後押ししてくれる。―――だから、今エリシャという大地を踏みしめてなお、ユティアは揺るがずに立っていられた。ユティアには、これほど完璧な彼らが、いつまでもユティアのそばにいてくれていることのほうが、自分の出自よりもずっとずっと、奇妙なことのように思えるときがある。
「心配事ですか?」
「ううん」
シオンは敏いから、すぐに気づいてしまうだろう。ユティアは表情を消してシオンを見上げた。
贅沢だと、ユティアは思う。
この、一瞬と一瞬の間すらも。
「シオンもこの村に来たことあるの?」
カディールは村長の屋敷がどこにあるのか把握しているようで、迷いのない足取りで進んでいる。後ろを振り返ることもなく。
ユティアが尋ねると、彼は緩やかに首を横に振った。フードからわずかにこぼれる銀糸のような髪が揺れ、太陽の光をきらきらと反射した気がする。王宮にいる姫というのは、きっとシオンのような姿をしているのだろうとユティアは思った。
「いいえ。私はカディールが王宮騎士だったころのことはあまり知らないんです」
「そう、なんだ」
二人はエリシャでどんな生活をしていたのだろう。ユティアのためにこうして旅をしているが、彼らにだって両親がいて、友人がいて、生まれた町があるはずだった。初めてそのことに思い至り、ユティアは足を止めた。
(……そう、か。そうだよね)
彼らだっていつまでもユティアと旅は続けていられない。この幸せな一瞬はいつか、終わるのだ。どこかでわかっていたことなのに、エリシャに来てからずっとこの先を考えることを拒んでいた。
幸せはあっというまに過ぎる、きっと。
奴隷であったころは一日がなんて長いのだろう、過酷な労働は永遠に終わらないのではないか、と思っていた。だが、いまは毎日があっというまに終わり、幸せが過去へ変わるのに、それは次から次にやってくるのだ。
(……でもいつか)
そうではない日も来る。
ユティアは、シオンを見上げた。
尋ねたいことはいろいろあるが、言葉にならなかった。
「ユティア」
肩に添えられたシオンの暖かい手で、歩くようにそっと促された。
ひたすら我慢し、耐えることだけを覚えてきたユティアだが、そんな乏しい感情すら、シオンには瞳の動かし方ひとつですべてを悟られてしまうようだった。
「ほら、カディールに置いていかれてしまいますよ。まったく、ユティアの歩く速度も考えないでさっさと行ってしまうから」
何も尋ねないシオンがありがたく、また同じくらい辛かった。そして、辛いと思うことが申し訳なかった。
(わたしは、贅沢なことばかりを望んでいる)
いつまでもこうして三人で、三人だけで旅をしていられたらいいのに、と。
今までの経験から、ユティアは無意識に大人たちにはまず恐怖を覚えてしまうし、同年代の子供たちであっても自分から友達を作るすべを知らない。それゆえに人見知りをしてしまい、出会いというものが苦手だった。
カディールとシオンさえいればいい……そんなことを考えてはいけないとわかっていても、どこかで願ってしまう自分がいる。
狭い世界でいい。これだけを守っていけたら幸せなのだ。
だが、ユティアと関わらなければ、彼らはどこかで定住していたのだろうか。農作業をするカディールやシオンなど想像できなかったが、それでもいまよりずっと穏やかな世界に身を置いていたのだろう。
ユティアが正面を向き直ると、カディールが少し離れたところから早く来いよと言わんばかりに手を振っているのが見えた。
彼の背後には、村の民家よりも少し大きい二階建ての丸太の家が建っていた。




