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梨香は机の上に紙を広げたまま、筆を止めていた。
手紙に書きたいことは沢山あるれど、自分の想いを自覚してしまってからは上手く書けなくなっていた。何故だか自分を取り繕って書いてしまいそうな気がしたのだ。
それに以前なら、ただ手紙のやり取りをするだけで幸せだったのに、今では手紙よりも会いたくて仕方がない。
「……はぁ」
無意識の内に口からため息が零れてしまう。
そんな自分に呆れたように苦笑しながら、梨香はそっと筆を動かした。
『貴方にお会いしたいです』
白い紙にそう一言書いてみたものの、すぐに筆を置いて紙をくしゃりと丸めてしまう。
理由も無いのに会いたいなんて、迷惑以外の何物でもない。本当は、相手が会うことを望んでいないことも知っているのだ。だからこんな手紙、渡せるはずがない……。
丸めた紙を屑籠に捨て、梨香はぼんやりと机の上に置かれた箱を眺めた。それは文箱だった。中に入っているのは梨香の宝物の手紙だ。
梨香は文箱をそっと指で撫で、またため息を吐いていた。
「貴妃様、昭媛様がお見えになりました」
不意に背後にある部屋の入り口から煌娟の声がして、梨香は慌てて「わかりました」と返事をして、文箱をしまった。
煌娟に簡単に身なりを整えさせると、李昭媛が待つという応接間へと向かう。
煌娟はどこか落ち着かない梨香の様子にクスクスと笑いながら、応接間へと向かう梨香に付いてくる。彼女は、梨香が墓参りから帰ってから様子が変わったことに気が付いているようだったが、何も聞いてくることはなかった。
「ところで、昭媛様はどのようなご用なのですか?」
先ぶれはあったものの、来訪目的を聞かされていなかった梨香は、改めて煌娟に聞き直した。
「それが、ただお茶をしながら世間話をしたいとだけ……」
煌娟は困ったように肩をすくめて答えた。
梨香が部屋に入ると、今日は濃い赤色の襦裙を纏った李昭媛が、簡単に礼をとって挨拶をした。
梨香は彼女に席を勧めると、自分もその向かいに腰かけた。
「煌娟、お茶を――」
「ああ、貴妃様。今日はわたしがお茶を持参いたしましたの。よろしかったらそちらを飲んでみてください」
李昭媛は茶の包みを取り出し、梨香に渡した。
「まあ、ありがとうございます。煌娟、今日はこのいただいたお茶を淹れてちょうだい」
梨香が茶の包みを煌娟に渡すと、煌娟はそれを受け取り一旦下がった。
「あのお茶、知り合いの方が沢山くださって。珍しいライチのお茶なのですよ」
「まあ、そうなのですか」
「あなたのご実家のように貧しい家では、それこそ後宮にでも入らなければ一生いただくことも無いような、それはそれは貴重なお茶なのです」
ツンと顎を上げて上から物を言う李昭媛に、梨香は苦笑しながら礼を述べた。彼女の梨香に対する態度は以前と変わらないもので、見下す相手にわざわざお茶を持ってくるのは、なんだか矛盾する行為のような気がしないでもなかったが。
そうして二人がとりとめもない話をしている間に、煌娟が手早くお茶を淹れてくれた。
梨香はそのお茶を手に取ると、まずはゆっくりと香りを楽しむ。ライチ茶はほのかに甘い香りがした。
南方の国から輸入しているライチは、ただでさえ貴重な食べ物であるのに、それをお茶の香り付けのためにつかってしまうとは、なんと贅沢なことだろう。梨香はなんだかもったいないような気さえしてしまう。
そんなことを考えつつも、それでも馥郁たる香りを楽しんだ後は、ゆっくりと茶杯に口を付ける。
……味は、なんというか、普通だった。茶葉の渋みがライチの味を消してしまって、ただのお茶になっていたのだ。
けれど李昭媛が食い入るようにこちらを眺めているので、梨香はにこりと笑って「本当に良い香りのお茶ですね」と曖昧に答えていた。
李昭媛はそれは良かったと安堵したように笑い、「宜しければ今度侍女に同じお茶をお届けさせますわ」と申し出た。
李昭媛がこんなに好意的に接してくることなど今まで無かっただけに、梨香は困惑していた。
それに気付いたらしい李昭媛は、ニヤリと思わせぶりな笑みを浮かべた。
「わたくし、貴妃様を応援することにしたのです」
「私を応援、ですか?」
「ええ。あの淑妃様の態度、長年陛下にお仕えしてきた後宮の女たちを蔑ろにするにもほどがあるというものですわ。あんな小娘が皇后になるくらいなら、貴妃様になっていただいた方がまだましですもの」
突然の話に驚く梨香をよそに、李昭媛は淑妃のここがダメだ、あそこがダメだと批判を連ねた。
そうしてようやく気が済んだのか、ひとしきり話し終えたところで他の用事を思い出したと言って、李昭媛は結局そのまま帰ってしまったのだった。
残された梨香は、疲れたようにため息を零した。応援してくれるという李昭媛の言葉は嬉しかったが、その一方で、あの自信に溢れた美しい淑妃を羨ましく思う自分もいるのだ。
李昭媛は淑妃批判の中で、淑妃は何でも言いたい放題の我儘な娘だと評していたが、思ったことを素直に口にできることは、ある意味では大きな長所ではないだろうかと梨香は思う。
淑妃はきっと、梨香のように想い人に心の内を伝えることを躊躇ったりしないのだろう。結果が怖くて何もしない自分と、結果を顧みないで行動する淑妃と。どちらも欠点はあるけれど、結果には雲泥の差があるように思えた。
このままではだめだとわかっているのに、自分が起こす行動のせいで、何となく以前より気安くなった皇帝の態度が、再びもとの冷たいものに戻ってしまうのが怖かった。
ーーこんな風に、臆病な自分に戻ってしまったのは、自分の心に気付いてしまったせいだ。
自分の心を知らなければ、あの方が見据える先を一緒に見させてもらえればそれで十分だったのに。しかし自分の心を知ってしまった今となっては、あの方に、自分の方を見て欲しいと思わずにはいられない。
梨香は、冷めて心なしか苦みが増したお茶を飲みきると、重い足取りで居室へと戻った。
そして再び筆を手に取ったものの、結局その日も手紙を書くことができなかった。




