第四楽章:葬送行進曲――沈黙の小瓶
大喝采を浴びた旅から帰ると、封書が届いていた。
宛名は見慣れた美しい文字。
「このあいだのコンセールの感想だろうか?」きっとセルゲイの成功を称える言葉がある。それを疑いもせず開いたセルゲイは、しばらく書かれていることが理解できなかった。
「これ程立派に鳴られたあなたにはもう支援は必要ないでしょう。今後一切、手紙も交わすことはありません」
セルゲイは信じられない思いで返事を書く。
どうしてですか?なぜ。
「年金など、そんなものはなくていいのです。でも、手紙だけはやりとりすることをお許しください。あなたのための大切なお時間の、ほんの僅かのうちだけ私のために使っては頂けませんか」
…返事は来なかった。
気落ちするセルゲイをかつての学友が訪ねてくる。
友はグレーの封筒を机に叩きつけた。
「法律院からの呼び出しだ」
「法律院?なぜー」
セルゲイは、眉間にしわをよせ口をゆがめて立つかつての学友を見て聞き返した。
法律院、秘密警察。
誰もが知っているが、口に出すときは皆声を潜め周りをうかがう。
法律院そのものに逮捕権はない。ただし、表向きは、だ。あくまで招待という形をとっている。そのため、赴いても記録には残らない。例えそこに秘密警察が待っていても。当然、そこから出たかどうかなんて誰も知りえない。出たものがいても、どんなところかなんて語られない。いや、出てくるときにはもう語れる口がないのかもしれない。
「誰が、何のために…?」
「誰が言ったか、そんなことは問題ではない。同性愛なんてやってる奴は他にもいる。だがな、君はタレこまれた。そしてそれが事実とされたことが問題なんだ。くそったれ!」
アレクセイ3世は敬虔な正教徒である。子を産み、地を耕し大地と国を富ませることが宗旨であり、皇帝自身も6人の子に恵まれている。信徒にとっては、繁栄に結びつかない男色は忌まれるものであった。
学友はセルゲイのクラヴァットをねじり上げるようにしてまくし立てる。
「俺たちは君を守りたい。君の才能が惜しい。こんなことで君の美しい音楽を奪われるわけにはいかない。
いいか、必ず否定するんだ。事実か嘘かなんかどうだっていい。否定する。それしかない」
こいつはいつもふざけてくだらない台詞ばかり喚き散らしている。決闘したときだって、彼はおどけて振る舞い周りをあきれさせた。こんな顔を近くで見るのは初めてだと、セルゲイはどこか遠くで考えていた
「なあ、セルゲイ、頼む」
友は泣いていた。
召喚状に指定されていたのは翌日11月6日。
朝、セルゲイはいつもより早く目が覚めた。顔を洗い、丁寧にひげを整え、かつて夫人に贈られたフロックコートを身にまとう。ハットをかぶり、ステッキをもち、最後にもう一度部屋を見渡した。机のうえには書きかけの楽譜がある。6番目の交響曲。そしてキャビネットには黒檀の文箱。いつもの癖、いつもの光景だ。何一つ変わらない。
帝都の11月は雪が舞うことが多い。だが今年はほとんど降ってはおらず、空気が乾いていた。乾いた石畳を馬車の車輪がカタカタと規則的に軽快な音を立て、時に小石を踏むのだろうか、カタリと変わった音がする。セルゲイの世界はすべて音楽であふれている。まるでコサックの踊りのようじゃないか。トレパークなんてのもいいかもしれない。夫人につたえよう。いや、もう書いても言葉は届かない。
やがて馬車は動きを留めた。
法律院についたのだ。
守衛が開けた扉の向こうには壮年の男が待っていた。
「こちらです」
名も聞かず、名乗りもせず、男はセルゲイを静かに奥へと導く。二人の足音が長い廊下に響く。そう、墓地に響く鐘の音のような――
「お入りください。私はここまでのご案内です」
セルゲイは扉を開く。
26の目が一斉にセルゲイを差した。
「まあ座り給え」
中央ではなく、一番端の紳士が口を開いた。
「率直に言おう。君が弟子と神に禁じられた関係を持っているとの告発があった。事実かね」
そこからは、オットーとの出会い、レッスン、一つ一つ事実かどうか質問が重ねられた。法律院は知っている。セルゲイが知っていることも、セルゲイ自身が知らないセルゲイも。紳士が紡ぐ言葉は、自分のことなのにまるで他人の情事のようだった。セルゲイは左手で顎に手を触れながら、正面の腕を組む紳士をみながら一つ一つ答えた。紳士の前には小瓶がある。黒い小瓶。
「最後の質問だ」
正面の男が初めて口を開いた。
「君は弟子であるオットーと愛情を交わしたことはない。間違いないね。ただの何ということもない師弟関係は即座に解消し、二度と会わぬと誓えるか」
セルゲイは答えようとした。
だが、声はでない。「ニエット」そのひと言が、渇いたのどに張り付く。
脳裏に青い目がよぎる。弦。手紙。フロックコート。
メロディが聞こえる。拍手。ピアノ。足踏みオルガン。子供の声。
小瓶から目が離せない。文箱と同じ黒。あの小瓶を飲めば癒える。この。渇き。
「ミハイルの息子セルゲイ《セルゲイ・ミハイロヴィッチ》。ニエットと言うんだ。それだけだ。君はオットーなど愛していない。君の人生にはオットーは必要ではない」
彼の人生。音楽。
目を閉じると、素朴なあの笑顔が浮かぶ。
セルゲイの答えは――




