第三楽章:歓喜の協奏曲――プレスト・アジタートの光と影
セルゲイはいつの間にか帝国を代表する音楽家と言われるようになっていた。
帝国で演奏をすることもあれば、欧州に呼ばれることもあった。横断鉄道が敷設され、かつて馬車に何日も揺られた旅は大幅に楽になった。かつて天才少年と言われた音楽家がいたが、彼が夭折したのは子供の頃馬車に揺られ続けたせいかも知れない。それに比べて、セルゲイの旅は快適だった。鉄製の堅牢な外観に反して中は優雅な作りになっている。壁は木目が磨き込まれており、客室は肌当たりのいいクッションで尻も痛くなりはしない。
旅自体は快適だが、セルゲイはすぐ国に帰りたくなった。まだ目的地に着いてもいないのに、1日も早く。きっとセルゲイには見えない鎖がついているのだ。つなぐものが何かは心当たりがありすぎる。
演奏活動の合間にも、セルゲイはどんどんと新しい作品を世に出した。
交響曲、バレエ音楽、オペラ。セルゲイの描く世界は留まるところを知らない。この国では長らくバレエは低俗なものとされてきた。夫人の言葉は、セルゲイに新しい“思いつき”をもたらしてくれる。
忙しくしていたある日のこと。昔なじみのヴォロンツォフ伯爵から招待を受けセルゲイは久しぶりに伯爵邸を訪ねた。最近は中々サロンに顔を出せていないが、伯爵には恩がある。
セルゲイはそこで一人の少年に引き合わされた。
少年の隣には古びたバイオリンケースがあった。
紹介されるよりも先に、セルゲイは少年の顔よりまず指を見た。長い指。そして左手の指先には、指の細さに似つかわしくない大きな『たこ』ができていた。
「オットーです」
はにかみながら少年は名乗った。
「なかなか見込みがある子でね。君ならうまく導いてくれるのではないか」
セルゲイにはこれまで弟子はいない。いや、音楽教師としての教え子はいるが、音楽家として育てる弟子というのは初めてだった。
「一度何か弾いてみてくれ」
セルゲイの言葉に、オットーは弾き始めた。聴いたことはない曲だったが、弾き慣れた曲なのだろう。音はよく伸びていた。
「わかりました。引き受けましょう」
セルゲイは引き受けた。伯爵の願いを無碍にできないというのもあったし、オットーのヴァイオリンに興味があるのもあったし、自分が夫人に与えられたものを返したいという思いもあった。
オットーも緊張が解けたのだろう。ホッとしたように笑った。
素朴なその笑顔は、セルゲイが昔祖母の領地でよくあった女の子を思い出させた。もう顔もおぼろげだが。
稽古をつけ始めてすぐ、セルゲイはこの素直な新しい弟子を育てることに夢中になった。
2人きりでレッスンをすることもある。興に乗ると食事も取らない。朝まで二人きりだ。
また、サロンにも率先して連れて行く。チャンスを与えるのも師の務めだ。ただ、チャンスの裏で女狐が舌なめずりしていることもある。毒牙から守る、これもまた師の務めである。
音楽が生まれるには感性が必要だ。
帝都の公園を二人で歩く。
オットーは渇いた砂のようにセルゲイの言葉を吸収し、ヴァイオリンの弓に乗せていく。
セルゲイの眼差しにも熱がこもる。
時には後ろから手を取り、指を重ねて運指を教えた。
セルゲイの教えはオットーの中に深く根を下ろす。セルゲイが言葉とともに吐く息は、オットーの耳元をかすめていく。
音の外れた酒場の親父。酒ヤケした兵士の声。それでもあれほど美しかった。ではすべてが美しければどうだろう。
セルゲイは持てるものすべてをオットーに注ぎ込む。至高の美は、必ず天に祝福される。
美しい音楽はセルゲイが作る。それを完成させる美しい担い手がいるのだ。昔夫人とやりとりのなかで彼はそう書いた。その日がもう目前に来ている…!
セルゲイは、オットーのために最高の舞台を用意した。
オットーを見るたびに思い出す、セルゲイの故郷のあの曲。
あれを美しい協奏曲にして世に送り出そう。
美しい音楽と、類まれなる才能をこの世界に。
帝国の社交シーズンは冬。10月のオープニングにセルゲイの新作がかけられるとあって、帝国の音楽好きを自認するものはみな劇場に足を運んだ。
セルゲイはシーズン前の夫人への手紙にこうしたためた。
「どうかオープニングを楽しみにしていてください。私の渾身の捧げ物です。これは運命なのです。私がどれほど幸せか、きっとお分かりになるでしょう」
セルゲイは幾度となくこの舞台に立ったが、オットーは初めてだ。真っ青な顔で、弦を持つ手が震えている愛弟子をセルゲイは抱きしめた。
「大丈夫だ。私が一緒にいる。私を見て弾くんだ。ここはいつもの二人の教室だ。私のことを考えて弾けばいい。」
時間を告げるベルが鳴る。
さあ、デビューの時間だ。
二人は揃って舞台に出た。セルゲイは客席に背を向け、いつもの癖で左手で顎をこすりながらオットーの方を向いた。オットーの青い目がセルゲイを見つめ、一つ頷く。
セルゲイはタクトを上げたーー。
最終楽章が終わる。タクトをおろすが、何も聞こえない。
だめだったのか?
不安がよぎったその時、大きな拍手が聞こえた。オーケストラも譜面をたたいている。
セルゲイはオットーに手を伸ばした。師と弟子が硬く手を握ると、さらに拍手は大きくなった。
二人は成功したのだ。二人は。共に二人で。
「オットー、明日からは演奏旅行だ。列車の切符は2枚用意してある。知っているか?同じベルベットでも、列車は馬車よりずっと座り心地がいい。一緒にザグラーニツァに行こう」
いつも旅に出るとすぐホームシックになるくせに、今日のセルゲイは饒舌だった。オットーと一緒なのだ。きっと次の公演地、ヴァルシャーヴァでも二人は成功する。その希望にセルゲイはその日、いつまでも興奮していた。




