Coda:終曲――喪服の貴婦人
彼女はかつて、タチアナと呼ばれていた。
母を早くに亡くし、鉱山で働く父と二人の暮らしであった。
鉱山から少し離れた役場の近くには正教会がある。週末になるとタチアナは父と通った。昼間真っ黒になりながら働き続けている父と手をつなぎ、教会まで道のりを歩く。タチアナはずっと今週の出来事を話し続けた。お隣のマーシャおばさんが腰を痛めたから、糸車のお手伝いをしたこと。丘の先に住む木こりのおじさんが作ってくれた木彫りの小鳥がかわいいこと。父は口数は多くなかったが、いつもにこにこと話を聞いてくれた。教会の帰り、疲れたとぐずるとおんぶをしてくれる。それほど疲れていないのに、父の背に乗りたくて、わざと駄々をこねることもあった。
教会では、ミサの時に皆で聖歌を歌う。ミサでオルガンを使うことはないが、ミサのあとにはたまに来る身なりのいい少年がオルガンを弾くことがあった。タチアナはこの若者のオルガンの音が大好きであった。
「おにいちゃん、子リスのゆりかごひいて?母さんが歌ってくれたの」
タチアナよりいくばくか年上に見えた少年は、いいよ、と軽く微笑んでこの地方に伝わる子守唄を、軽快にペダルを踏んで弾いた。タチアナは一緒に歌った。これが昔母に絵本で読んでもらった「しあわせ」なのかな。タチアナはこの時間がずっと続けばいいのに、そう願った。
「ターニャは歌が上手だね。僕はね、法律を修めて父の会社を継がないといけないんだけど、本当は音楽家になりたいんだ」
おにいちゃんはそう言ってたくさんの曲を聴かせてくれた。時には少し弾き方を教えてくれることもあり、タチアナはおにいちゃんの膝の上で、ゆっくりと小さな手を動かした。
「ターニャのための曲だよ」
教会の誰も弾かないそのメロディーは、聖歌のどれよりも美しく聞こえた。
そんなある日、家に帰ると穏やかな父の怒鳴り声が聞こえた。
「ターニャは私とリザの子です!いきなり渡せと言われても」
扉を開けることもできず、どこかへ行くこともできず立ち尽くした時間は長かったのか短かったのか。様子がおかしいことに気がついたマーシャおばさんが自分の家に入れて温かいミルクをくれて抱きしめてくれるまで、タチアナは自分が震えていることにも気が付かなかった。
おばさんに連れられて家に戻ると、父はうなだれて、タチアナの方を見ようともせずにつぶやいた。
「タチアナ、俺はお前の父ではない。仕方なく面倒を見ていただけだ。もううんざりだ。明日迎えが来る。ここから出ていくんだ」
村でたまに司祭様を訪ねてくる偉い人に似た服装のおじさんに連れられて馬車にのる。途中三度ほど宿に泊まった。ふかふかで気持ちがよかったが、タチアナは家のザラザラの毛布からするおひさまの匂いのほうが好きだ、そう思った。
やがて馬車は教会より大きな屋敷に着いた。マーシャおばさんくらいの女性と、気の強そうな少年、そしてタチアナより少しばかり幼く見える少女が出迎える。その少年と少女は品の良い顔立ちも黒い髪もよく似ていた。きっと兄妹に違いない。タチアナも同じ黒い髪だが、帝国ではありふれたもので、自分が彼らの血縁だとはちっとも思えなかった。促されたタチアナが名を名乗ると、女性は一瞬柳眉をひそめ、こう言った。
「タチアナと同じ名というのは困ったね。今日からおまえはオルガと名乗るように」
家族も、教会で少年が呼んでくれた名も、タチアナの生はそこで終わった。
◆◆◆
それからのオルガは、たくさんの教育を詰め込まれた。マナー、外国語、詩作、社交界の貴婦人の嗜みとしてのピアノも。
すっかり垢抜けたオルガは、『母』に連れられてサロンや夜会に出る。ほほ笑みと共に商品が売りに出されるのだ。サロンには貴婦人たちが贔屓する芸術家が集まる。夜会では美しい宝石、ドレスが取り沙汰される。そこで売り込みは静かに行われる。サロンの新しい取り巻きを、次の流行を、あわよくば妻という名の商品を。
今日向かったのはヴォロンツォフ伯爵のサロン。伯爵は特に音楽を愛し、無名の若者を引き上げることを好むことで有名だ。伯爵邸にはたくさんの野心あふれる若者が出入りしている。
次々と移り変わるメロディ、人々の歓談の声に紛れてかすかに聴こえてきた曲……!
思わずオルガは足を止めた。
『どうかされましたか?』
『美しいメロディーですわね。どこか懐かしいような気にさせられます』
『ああ、セルゲイ・ミハイロヴィッチという若者だそうですよ。彼の故郷の子守歌をアレンジしたのだとか。伯爵夫人が殊の外お気に入りで、よく弾かせているそうです』
母が見極めた婚約者は、そう教えてくれた。いつからか同伴者は母から婚約者に変わっている。運送業を主に営む大商会の跡取り息子は、音楽を社交術としか考えない。伯爵夫人のお気に入り、というのは知っていても、曲の背景まで知っていることが少し意外だったが、これも商売上必要なエッセンスなのかもしれない。ただ、彼は音楽を美しいとも好きだとも言わない。そういう男が生涯の伴侶となることに少しばかり気鬱を感じているが、結婚とは所詮そういうものだ。求めすぎてはならない。
やがて夫人となったオルガは、自らもサロンを開くようになる。才能を持て余し、機会に飢えた音楽家たちを支援した。彼らは彼女に感謝する。捧げてくれる曲、スポンサーを称える手紙、たくさんのものが手元に集まった。そのたびに彼女は手紙を書く。励まし、時には叱責し、演奏と発表の場を与え、他国の奏者の公演があれば招待をする。美しい音楽が春の菫のようにたくさん花開いていくために金も時間も惜しまなかった。手紙のやりとりは幾年にも及び、黒漆に輝く螺鈿のレターボックスはいつしかたくさんの封筒で埋め尽くされていたが、彼らの直接の賛辞を彼女はすべて拒んだ。会う必要はない。暖炉の前で、公園を散策しながら、脳裏をよぎるのはいつも同じ曲。オルガはそれで十分微笑むことができたのだ。
◆
若い才能は、いつしかたくさんの踏み台を超え、大きな舞台に足をかける。大きな舞台で成功を収めた彼らは、オルガがいなくてもどんどんと次のチャンスをつかんでいった。そう、セルゲイもいつしか彼自身で若い才能を舞台に上げるようになっていた。
西の国境の方で動乱が起きたらしい。豪華なドレスをまとった口から出た話題は物騒でも、きらびやかなホールでの社交は続いている。ここでは野蛮な話は不要なのだ。話題はすぐに入れ替わった。『今日はセルゲイの初めてのヴァイオリン協奏曲ですわね』『彼が見いだした若い才能がソリストらしいですわよ』最新の話題は祖国が誇る作曲家とその愛弟子である。
セルゲイ・ミハイロヴィッチとソリストが舞台に現れた。指揮台に立つセルゲイがソリストに顔を向ける。観客に背を向けたセルゲイの表情はよくは見えないが、オットーというソリストはさぞやセルゲイを信頼しているのだろう。指揮者をまっすぐな目で捕らえたあと一つだかかくけかすかに頷いた。オーケストラの儚いメロディーは数小節だろうか、すぐにオットーはバイオリンを構え、切なさに胸をかきむしられるような、弦が咽び泣くような、そんな美しいニ長調の主題を奏で始めた。
最終楽章が終わる。万雷の拍手にもかかわらず、オルガは呆然としていた。
「オットーはなかなかの才能ですな。噂では、昼な夜なとセルゲイが手取り足取りヴァイオリンを教えているのだとか」
隣の見知らぬ紳士の声に我に返る。その瞬間、胸の奥底から突如としてこみ上げてきたのは、彼女が今まで知り得なかった感情だった。帝国の冬を閉ざす吹雪のように冷たく、けれど――そう、かつて夫に見せられた機関車の石炭のように、外は黒く静まり返っているのに中は恐ろしいほどの熱がくすぶっている、そんな激情。言葉にするならば、それはきっと「憎しみ」ではないか。
オルガに、いやタチアナにただ一つ残った宝物だったあの曲は奪われてしまった。
だからオルガはセルゲイの秘密を奪ったのだ。
オルガは気がついた。あのメロディーはターニャのために奏でられたものより、はるかに情熱的で、切ない。セルゲイはオットーに愛も才能も思い出も全てを捧げたのだ……!
奪われたものは奪うことでしか贖えない。
震える手で、一気に秘密警察に手紙を書く。
「帝国の至宝が汚されようとしています。皇帝の禁じた同性愛に殉じようとしています。ああ、公に告発される前に、名誉ある死を……!」
署名はしない。告発には不要だ。書き終えたときにはすっかり震えは止まっていた。
託された手紙の宛先を見た執事は一度だけオルガに目を向けた。視線が合うことはなかったが、彼は黙って部屋を出た。
それからしばらくして、新聞各紙の一面を「セルゲイ・ミハイロヴィッチ急死」の文字が飾った。
***
【至高の旋律、帝都に散る――作曲家セルゲイ・ミハイロヴィチ急逝】
我らが誇る作曲家セルゲイ・ミハイロヴィチが、四日夜、滞在先にて悪質な水を口にし、突発性のコレラを発症して急逝された。
感染症の拡散を防ぐため、遺体を納めた棺は速やかに、かつ密やかに埋葬された。
皇帝陛下はこの早すぎる死を深く悼まれ、国葬を執り行うことをお決めになられた。
***
オルガは執事から受け取った新聞を読み、手にしていたミルクの入った紅茶のカップを置いた。
レースの手袋をはめた指で死者の名をそっとなぞり、目を閉じたオルガに、あの日の手紙を自ら届けた執事は声をかけなかった。彼はずっと見ていた。心躍るように初めてのセルゲイの感謝の手紙を開いたオルガの微笑みも、菫色の便せんを手に取り、少し首をかしげて書き始める姿も、いとおしげに黒漆のレターボックスをなでる姿も。夫が亡くなった夜、一人、聞いたことのない曲を奏でる姿もずっと彼は見守っていた。
◆
あれから20年。
オルガとセルゲイの生まれた国はもうない。かつてと同じものはもはや大地と白い氷と雪に閉ざされた針葉樹の森だけ。その大地もあまたの赤い血を吸った今、同じではないのかもしれない。革命軍により皇帝一家は密かに処刑されたという。オルガもまた、破産を装って夫の遺産を密かに銀行に預け、かつて帝国の貴族たちが野蛮な動乱の地とした国境を超え、西の国へと逃れていた。
世界は緩やかに中産階級が力をつけ、いつしか平民と言われるものも金さえ払えばかつての貴族の娯楽に足を運べるようになっている。
とはいえ、やはり社交の場は普段着でというわけにはいかない。それなりのドレスに、それなりのマナー、それなりの装飾品は必要だ。亡命貴族のなかには、マナー講師として口糊をしのぐもの、持ち出した先祖伝来の宝石を売りに出すものも少なからずいた。
最近めっきり老け込んだオルガにとって、今日はもしかしたら生涯最後の演奏会かもしれない。オルガは祖国を出るとき、何も持ち出さなかった。夫から贈られた真珠の飾りも、黒漆の箱も。最近は性能がよくなったガラスのアクセサリーをつけるものも多いらしいが、彼女はあまり食指が動かなかった。彼女にとって価値ある人が生み出したものは音楽だけである。ドレスも宝石もさほど心躍るものではなかった。いつもと同じドレスに袖を通す。ただそれだけだ。
彼女が人生最後に選んだ演奏会の曲目は、亡き帝国の誇る大音楽家、セルゲイ・ミハイロヴィッチ・オイゲノフスキーのヴァイオリン協奏曲。ソリストは天才少年と言われている。
第一楽章が終わったところで、あまりの腕に思わず拍手が沸き起こる。オルガは拍手に紛れ第二楽章を聴くことなく席を立ち、誰もいないホワイエを抜け、そして一度も振り返らなかった。
いつものように黒のドレスをまとった彼女は、夜の闇を照らす薄明かりの街灯に照らされ、それはさながら喪服のようにも見えた。彼女は国を出てから、いや、あの夜から黒以外のドレスを着ることはなかった。
悼んでいるのは、夫か、祖国か、幼いターニャか、それとも――。
「ターニャのための曲だよ」
「私の曲! お兄ちゃんの曲、だいすき! ずっと聴かせてね!」




