9話
「口を開けろ」
差し出されたイチゴを前に、マリアは眉根を寄せた。
艶やかな赤い果実が、ルカリオの指先に摘まれてゆらりと揺れる。
今世では、一度もこんな真似をさせた覚えはない。
それなのに、何故かひどく既視感があった。
記憶の奥底で、もっと幼い自分が同じような光景を見た気がする。
だが、それがいつのことだったのか、どうしても像を結ばない。
焦れったさに似た感覚だけを残して、その既視感はすぐに霧散した。
「自分で食べられるわ」
まだ本調子とは言えない身体を起こしたマリアは差し出された手を睨みつけた。
ルカリオは意に介した様子もなく、イチゴを持つ手をそのまま引かなかった。
「包帯を汚したいなら止めないが?」
挑発するような声色に、マリアは黙るしかなかった。
分かっていて言っているのだ、この男は。
今のマリアには何かを物を掴むことが出来ない事も、寝台から起き上がって歩くことすらまだ億劫だということを。
「……悪趣味ね」
「どうとでも」
喉の奥で笑う気配がして、マリアは奥歯を噛みしめた。
差し出されたままのイチゴから、目を逸らす。
食べたくないわけではなかった。
むしろ、久方ぶりに見る鮮やかな赤い果実は、腹の虫を刺激するには十分すぎた。
けれど。
目の前の男に食べさせられるとなると別だった。
「我慢比べか?」
「……っ」
じっと自分を見つめる男を傍に置き続ける事と、食べさせられてさっさと追い払う事を天秤にかけてマリアは口を開けた。
唐突にイチゴにかぶりついたというのにルカリオの赤い目が、面白そうに細められる。
「餌をやるだけでこれとは先が思いやられる」
「つぎ」
強がってそう返すと、ルカリオはくつくつと笑いながら次のイチゴを摘まみ上げた。
こちらを煽る言葉を無視して口を大きく開けると、二つ目に差し出されたイチゴが、ゆっくりと口元に近づいてくる。
その仕草に一切の躊躇いがないことに、マリアはふと違和感を覚える。
かつて、この男は決してマリアに私的な奉仕をしようとはしなかった。
褒美を求めれば、国のため、民のためとはぐらかし続けた男が。
今は、まるで日課であるかのように、当然の顔をしてマリアの世話を焼いている。
考えを巡らせていると、口の中にイチゴの果肉が押し込まれた。
「……っ」
甘酸っぱい果汁が舌の上に広がる。
その味に、思考が上書きされる。
噛みしめた果肉の感触に、さきほどまで考えていた事がするりとこぼれ落ちていった。
それから、せっせと世話をされる日々が続いた。
首の傷は薬のきつい匂いと引き換えに目に見えて塞がっていき、代わりに瘡蓋の痒みがマリアを苛むようになった。
掻きむしろうとするたびに、いつの間にか隣に控えているテアの手が素早く伸びてきて止められる。
「また傷が広がりますよ」
「どうでもいい」
「ここがそんなに気に入ったのなら言付けて差し上げましょうか?」
言外にルカリオを呼ぶと言われてしまってはマリアは渋々ながらも従うしかなかった。
相変わらずルカリオは毎日顔を見せるし、テアは嫌味だけでなく小言を言ってくるようになった。
包帯を替える手つきも、匙を運ぶ角度も、初めの頃の乱暴さが噓のように優しくなっていく。
その意味を、感情を理解できなかった。
基本的にあちらの用事がなければ一人きりにされる部屋の天井を見上げる時間は相変わらず長かった。
けれど、以前のように不安定な感情に押し潰されそうになることは少なくなっていた。
代わりにマリアの頭を占めるのは、昼間交わした他愛のない言葉の断片や、ルカリオの纏う微かなインクの匂いといった、これまでの人生では気にも留めなかったはずの些細な記憶だった。
そのことに気づくたび、マリアは自分自身に苛立ちを覚えた。
「今日は柘榴が手に入った……どうした?」
「……別に」
今日もルカリオは顔を見せた。
書類仕事の合間を縫って来ているのだろう、彼が寝台の端に腰を下ろすと、血なまぐさい匂いが鼻をつく。
食事はもう一人で出来るようになった。
だというのに、この男は毎日現れてはマリアに餌を手ずから与えたがった。
馬鹿にされているのかと最初は拒否をしたが、口を開けるまでじっとこちらを見る目にはからかう色が見えない事もあり、マリアは折れた。
本当にマリアのことを小鳥か何かだと思っているのだと思う事にした。
「私はいつまでここにいるの?」
柘榴を丁寧に剥いて一粒ずつ与えてくる男の沈黙に耐えかねて、マリアはそう切り出した。
これまで幾度となく繰り返してきた問いだったけれど、返ってくる答えはいつも曖昧なはぐらかしばかりだった。
どうせ今日もどうせ同じだろうと、思い視線を自分の手元にやりながら半ば諦めながら言葉を落とす。
男の柘榴を摘む手には、汚れ一つない。
その手は今日も冷たいのだろう。
マリアの部屋に来る時、手を執拗に洗っているとテアが教えてくれたことを思い出しながら思った。
「そろそろ出してやろうと思っていた」
けれど、返って来たのは珍しく迷いの乗った言葉だった。
拍子抜けするほどあっさりとした返答に、マリアは眉をひそめる。
素直に答えが返ってくることを珍しく思うよりも先に警戒心が顔を出す。
「本当に?今更、私を逃がすとでもいうの」
「いいや」
「だったら首輪でもつけてお散歩にでも出かけるつもり?」
皮肉を込めて返すと、ルカリオは面白そうに片眉を上げただけだった。
自分から、飼われている事を口にした事を後悔した時には遅かった。
半分ほど減った柘榴を置いて、男の冷たい親指がマリアの唇を拭った。
赤い汁が雪花石膏で作られた手に映える。
マリアはまるで誘われるように、その親指に唇を寄せた。
ちゅっと、可愛らしい音が鳴る。
紅も乗っていないのに紅梅に色づく小さな唇から移った熱がルカリオの凪いだ表情を染めた。
「鳴いて差し上げましょうか?」
「ああ」
からかうつもりで零した言葉だったのに、男の珍しい表情を見て気が緩んだのか、マリアは自分から尋ねていた。
返ってきたのは、迷いのない頷きの一つだけだった。
一度離れた手が、またゆっくりとマリアの唇に伸びて、その輪郭を辿る。
誘うようにマリアが口を開くと、ルカリオの親指は首の傷を確かめるように動いてから、静かに離れていった。
「歌ってくれ、金糸雀」
珍しく素直に願いを告げた男はマリアの肩にそっと頭を預けた。
部屋に入ってきた時から、限界だったのだろう。
ルカリオの銀髪から覗く項は、青白いを通り越して灰色に近く、首筋にかかる吐息はひどく荒い。
このまま放っておけばフューグ――感覚暴走を引き起こす。
この男が壊れようが、死のうがどうでもいいが彼が暴走してしまえば下手をすれば国一つを崩壊しかねない。
血だけでなく埃と汗に混じった彼の薄い体臭は決していいとは言えないが、マリアは仕方なく受け入れて喉を震わせた。
――Amice meus Pierrot(私のピエロ)
――Votum tuum in epistola scribe.(貴方の願いを手紙に書いて)
浮かんだのは、この国で古くから伝わる子守歌だった。
別に疲れた彼に安眠を願って選んだ訳じゃない。
ただ、今歌いたいと思ったのがこの歌だっただけだと言い訳をしているうちに、ずしりと身体全体に重みが乗った。
「人の世話をするのも板についてきましたねぇ」
扉が静かに開く音がして、テアの潜めた余計な一言と共に、すっかり深い眠りに落ちたルカリオを自分の寝台に横たえた。
ここに囚われて初めて歌って聞かせた時は、一節も持たずに眠りに落ちたルカリオに押し潰され、慌ててテアを呼びつけたことがあった。
あの一件を、この男は未だに根に持っているらしい。
呼びつけられたこと自体にではなく、マリアが騒いだせいで主の貴重な睡眠時間が削られたことに対して、だとすれば。
その忠誠心の在り方には、マリアも思わず舌を巻く。
おそらくルカリオ以上にブレない男は、この城のどこを探してもいないのではないか。
マリアはそんなことを、こっそりと思った。
「私はまたどこかに幽閉?」
数刻も経たずに目を覚ました顔色の良くなった男へと探るように問いながら、マリアがルカリオを見上げて小首を傾げると、ルカリオはじっとこちらを見ていた。
紅い瞳が、まっすぐにマリアを射抜く。
その視線の強さに、マリアは思わず息を詰めた。
いつも通りのこちらを馬鹿にするでもなく、不機嫌でもない無の表情を向けられる事がマリアは苦手だった。
「いや、傍に置く」
「どうやって?」
言葉と同時に、視線を逸らしたルカリオが外を見る。
釣られるようにしてマリアも窓を見ながら聞き返す声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「わからないか」
問いと共にルカリオの指が彼の顎に当たる。
彼の癖でもあるその、親指と人差し指で顎を支える仕草に嫌な予感を感じてマリアは唇を引き結んだ。
この男の言葉には、いつも裏がある。
だけど、本当に伝えたい言葉は真っすぐな言葉を紡ぐ。
相手がその鋭い刃で傷つくと知っても容赦なく。
それが一人の女が大切に育てた恋心でさえも跡形もない程に。
「貴方の肩に乗って囀れるほど私は小さくないもの」
マリアが肩をすくめて答えると、ルカリオはまるで天気の話でもするようなあっさりとした口調で告げた。
「貴方を俺の傍に置く」
一瞬、部屋の中から音が消えた。
傍、と聞こえたのは聞き間違いだと思いたかった。
けれど、再びこちらを見据える紅い瞳には、揶揄うような色も、面白がるような色も見当たらない。
ただ淡々と、決定事項を述べるだけの静けさがそこにあった。
「……は?」
予想よりも随分低い腹の底から響く声が落ちた。
王女として教育を受けてきたはずの体裁も、取り繕う余裕もどこかに吹き飛んでいた。
「意味が分からないわ。あなたはお姉様の――」
「今は違う」
食い気味に遮られた言葉に、マリアは思うままに疑問を口にした。
「どうして?貴方はお姉様に選ばれて……王室の一員になるのが狙いだったのでしょう?」
マリアの声は硬く、まるで刃を突きつけるようだった。
窓から差し込む夕陽が、ルカリオの横顔を赤く染めている。
その表情には、動揺の色など欠片もなかった。
「そんなことを言った覚えはない」
「言わなくても誰でもわかる事でしょう。それを手放すなんて愚か者でしかない」
「それもいいな」
悪戯に返された言葉に、マリアは眉を寄せる。
まるで自分の言葉など、この男にとっては風に舞う塵ほどの価値もないかのようだった。
「言葉遊びはやめて。ちゃんと答えなさい」
「質問が多すぎる」
肩をすくめ、からかうような響きが混じり始めたその声に、マリアは更に困惑を深めた。
彼は、ナーシャの婚約者であるはずだった。
少なくとも、マリアが知っている限りで姉の婚約者という立場は、この男にとってすべてだったはずだ。
王位を、権力を、その手にするための唯一の足掛かり。
それを、まるで路傍の石でも捨てるように切り捨てるつもりだというのか。
その考えが、ここに来てまったく読めない。
胸の奥がざわつく。
ルカリオという人間を、マリアは知っているつもりでいた。
冷徹で、計算高く、感情など道具としてしか扱わない男だと。
だが今、目の前にいる彼の瞳には、これまで見たことのない光を宿して静かにマリアの怒りを受け止めている。
「何を企んでいるの」
震える声でルカリオの襟を掴んで問い詰めると、マリアの視界を紅一色が占める。
虹彩の中に、怒りと戸惑いを乗せた自分が映り込んでいた。
「なにも」
「嘘。あなたが理由もなく動くはずがないでしょう」
「なら、理由があれば信じるのか?一度も俺を信じた事がないというのに?」
「――っ」
静かに問い返されて、マリアは言葉に詰まった。
マリアの怒りをぶつけられているというのに、男はどこか嬉しそうな顔で短く答える。
きゅっと開いた瞳孔が、何よりも雄弁に男の喜びを物語っていた。
このまま首を絞めてやろうかとすら思い、マリアは更に指に力を込める。
「悪趣味な遊びね」
歯の隙間から押し出すように呟けば、マリアの手にルカリオの冷たい手が重なった。




