10話
「それ以上は傷が開く」
静かな声に、マリアはようやく我に返った。
襟を掴んだ自分の手を見下ろせば、指先が白くなるほど力が入っている。
苦しいはずなのに、ルカリオはそれを咎めるでもなく、ただマリアの手の傷を案じているだけだった。
その事実に気づいて、マリアは唇を噛んでから力を抜き、そのまま仰向けにベッドへ倒れ込んだ。
「あなた、本気なの」
顔を覆い、震える声で問い返す。
指の隙間から見上げたルカリオの顔に浮かぶのは、面白がるような、それでいて一切揺らぎのない静けさだった。
冗談だと笑い飛ばしてくれることを、どこかで期待していた自分に気づいて、マリアは奥歯を嚙みしめる。
「冗談で言うと思うか?」
短い問いが、逆にマリアの喉を詰まらせた。
「気が知れないわ。私はもう貴族令嬢ですらない」
半ば自嘲を込めて吐き捨てる。
聖女と呼ばれる姉を手にかけようとした大罪人。
その事実だけでも、婚約者などという立場に足るはずがない。
そう突きつけたつもりだった。
けれど、返ってきたのはあまりにあっさりとした一言だった。
「そんなこと最初から知っている」
まるで今更何を言っているのだとでも言いたげな口調。
その平然とした様子が、こちらを揶揄って遊んでいるようにしか見えなくて、マリアの中に苛立ちが募る。
それでも言い合ったところで勝てる相手ではないのだと、これまでの日々で嫌というほど思い知らされていた。
マリアは頭を切り替えるように、ひとつ深く息を吐いた。
「姉を殺そうとした躾のなってない元王女が、どうやって貴方の横に並べるというの」
自分を卑下する言葉を選んで、マリアは綺麗に笑って見せた。
見た目以外で褒められるところは何もない。
「死んだことになっていることが抜けているが?」
「Tace(お黙り)」
すかさず付け足された指摘に、短く切り捨てるとルカリオは肩を竦めるようにして小さく笑った。
「失礼、躾がなっていないものでね」
自分の台詞をそのまま返されて、マリアは苦々しく顔を歪めるしかなかった。
こんな女を連れ歩くなど、悪趣味でしかないだろうに。
それに、姿を見せればどうなるかも分からない。
俯いて考え込むマリアの髪に、不意にルカリオの指が触れた。
すくい上げられた一房を、指先で緩慢に弄ぶ。
触れることを許した覚えなどない。
けれど、その手を振り払う事も咎める気にもマリアはなれなかった。
「人は見た目を変えるだけで目の色を変える」
呟くように落とされたその言葉には、どこか実感が滲んでいるように聞こえた。
スラムでボロボロだった頃から、今の美丈夫と呼ぶに相応しい姿へと変わったのは他でもないこの男だったのだから。
だからこそ、誰よりもこの男自身が知っているはずだった。
貴族社会の、見た目への執着じみたこだわりを。
彼はどんな気持ちだったのだろうかとそんな想像が浮かんで、マリアはすぐにそれを振り払った。
「いっそのこと男のふりでもさせるか?」
からかうような声で紡がれたその言葉に、マリアは触れられた髪の毛先に戯れる手を睨みつけた。
振り払うように顔を背けても、指先は毛先を決して逃がしてくれはしない。
「まさか、髪を切れというの」
母譲りのロイヤルブルー。
生まれた瞬間から「特別」の証だったこの色を手放すことに、マリアの中で微かな抵抗が湧いた。
くだらない矜持だとわかっていても、簡単に頷けるものではなかった。
長い年月をかけて伸ばし、特別を象徴するこの色を奪われてなるものかとそんな幼稚な意地が、今更のように顔を出す。
「いいや、それは惜しい」
あっさりとした返答に、マリアは詰めていた息を吐き出す。
安堵しかけた自分に気づいて、余計に苛立ちが募った。
こんな些末なことで一喜一憂させられているのが、腹立たしくて仕方がない。
「毛繕いも碌にしない獣にはわからないでしょうね」
皮肉のつもりで放った言葉だったが、深く考えたわけではなかった。
ただ、この男の口から出る言葉のすべてに、何かしらの過去が透けて見える気がして落ち着かなかった。
けれどルカリオは片眉を上げただけだった。
「そうだろうな」
「はぐらかすのが得意ね」
「貴方ほどではない」
軽く返されて、マリアは口を噤む他なかった。
どうせ本当のことなど言うつもりがないのだろう。
この男の言葉の九割は、真実と虚偽の境目を曖昧にしたまま投げて寄越されるものだと、もう嫌というほど分かっていた。
「ただ、この色は染めた方が良さそうだ」
指先はまだマリアの髪を弄んだままだった。
爪まで手入れが行き届いた指先にマリアの髪が絡みついたり、かと思えば指先で髪の間を梳かれるのは不思議と不快ではなかった。
むしろ、その規則的な動きに、いつの間にか意識を持っていかれそうになる自分に気づいて、マリアは慌てて思考を引き戻した。
「随分と慣れているのね。誰かの髪を染めた経験があるのかしら」
「試してみるか?」
冷艶清美な相貌が以前見た従者にそっくりな笑みでマリアを笑った。
「髪を染めただけで人を欺けると思っているの?」
「済むかどうかは、やってみればわかる」
「気がしれない」
「どちらが」
軽くいなされて、マリアは口を閉じた。
沈黙が落ちる。
指先はまだマリアの髪を弄んだままだった。
その手がゆっくりと、今度は首へと滑り落ちる。
冷たい手のひら。
マリアの首など、あっさりと覆い尽くしてしまうほど大きな手だった。
急所に触れる骨ばった指の感触に、皮膚の下がざわりと粟立つ。
「この傷も誤魔化す必要がある」
浅かったとはいえ首全体を覆うように残ってしまった傷跡をなぞられて、マリアの喉から小さな声が零れた。
びくりと肩が跳ねる。
その反応を面白がるように、赤い瞳が僅かに細められた。
「……ダリアが似合いそうだな」
唐突に落とされた花の名前に、マリアは束の間意味を測りかねて瞬いた。
けれどすぐに、その言葉が指すものに思い至る。
首元の傷を隠すための話をしているらしい。
花の意匠を施した首飾りか、あるいはチョーカーの類か。
まるで本気で社交界に連れて行くつもりのような口ぶりに、マリアの背中に冷や汗が伝った。
「死人を着飾って連れ歩くつもり?」
震える声で問うと、ルカリオは至極当然だと言わんばかりに頷いた。
「檻の中に閉じ込めておくだけならこんな小細工は要らない」
「私を傍に置く為に?」
「俺の金糸雀だと見せつけるために」
こともなげに紡がれたその一言に、マリアは絶句する他なかった。
金糸雀。
これまで何度もマリアをそう呼んだルカリオの真意を悟ってマリアは目を伏せた。
――私は所詮お姉様の代わり。
そんな考えが頭をよぎった。
誰よりも能力が高い彼にとって、社会的に死んでいるアコードは都合がいいのだろう。
存在も許されず、名前すら表向きで使えないこの身は、彼の思うままに形を与えられ、飾られ、見せびらかされる。
姉だけでは足りない分を補っているのかもしれない。
ルカリオは、恐らくマリアが知る中で1番エステートとしての力が強い。
だからこそ、人権すら存在しない底辺から姉の最愛に選ばれた。
「閉じ込めていればいいのに」
「それは難しいだろうな」
「なぜ?」
「貴方には自由が一等似合う」
はく、とマリアは息を呑んだ。
檻に閉じ込め、飼い慣らそうとしているはずのこの男の口から、まさかそんな言葉が零れるとは思ってもみなかった。
けれど何より恐ろしいのは、目の前のこの男がそれを冗談でも脅しでもなくまるで当然のことのように語っていることだった。
「ただ傍に置いて、時に囀らせるだけで十分だ」
答えになっていない答えを残して、男は緩やかに口の端を持ち上げた。
嫌になるほど様になるその微笑みは、肖像画にすれ
ばさぞ世の人々を虜にするだろうと、マリアは現実逃避するしかなかった。
♢♢♢
「だからって正気を疑うわ、バレたら――」
「そんな事は起こらない」
言い切るように言われてマリアは口を噤む。
淡々とした返答に、反論の糸口すら見つけられなかった。
すべてが、既に彼の中では決まりきったことのように語られる。
「私を、何に使うつもりなの」
掠れた声で絞り出したその問いに、マリアは自分でも驚くほど怯えていた。
ルカリオは何も答えなかった。
ただ、髪から離れた指先が、今度はそっとマリアの顎に触れる。
上向かされた視界いっぱいに、赤が広がった。
指先の冷たさとは裏腹に、そこに込められた力はどこまでも慎重で、壊れ物にでも触れるようだった。
答えを急かすことも、視線を逸らすこともできないまま、マリアはただじっと、その赤い瞳の奥を見つめ返すことしかできなかった。
何かを探るように、あるいは何かを堪えるように、赤い瞳が微かに揺れる。
その揺らぎの意味を読み解く術を、マリアはまだ持っていなかった。
答えを急かすことも、視線を逸らすこともできないまま、ただじっと、赤い瞳の奥を見つめ返すことしかできなかった。
「なにも」
――嘘だ。
もうすでに、ナーシャの代わりとして使っているくせに。
傷ついた彼の目に映るべきは、いつだって姉だったはずだ。
壊れかけたエステートを鎮める唯一無二の歌声も、誰からも愛される穏やかな心根も、自分にはどれ一つとして持ち合わせていない。
それなのに、この男は今こうして、自分をわざわざ手元に置こうとしている。
理由が何であれ、そこにマリア自身の価値など介在していないはずだった。
姉の代わり、あるいは埋め合わせ。
そんな考えが喉元まで出かかって、けれど拗ねていると思われたくなくて、マリアは結局、口には出せなかった。
認めてしまえば、まるで自分がそれを望んでいるかのようで、それだけはどうしても許せなかった。




