11話
鏡の前に座らされてから、もうどれほどの時間が経ったのかマリアには、もうよく分からなくなっていた。
「目は開けないでくださいね」
テアの無愛想な声と共に、筆が瞼に乗せられる。
筆から散った粉が鼻孔を掠め、くしゃみが飛び出るとテアの手つきが止まった。
「生理現象よ」
「素直に謝罪も出来ねぇんですか」
すました顔でマリアがポツリと呟けば、荒れた苦言と舌打ちと共に再開された。
随分と口調が悪くなったなと吐息に混ぜて笑い声を零せば鋭い視線を飛ばしてくる。
――大人しくしろ、ということらしい。
言葉にされなくても、この数日でその程度の意思疎通は出来るようになっていた。
沈黙の中、筆先の感触だけが顔の上を滑っていく。
長い、長い時間だった。
「どうですか、ルカリオ」
「悪くないな」
暫くの間目を閉じる事を強要されている時間が終わると、テアはマリアでなくルカリオに声をかけた。
それに若干イラつきながらマリアは目を開け鏡を見た時、マリアは息を飲んだ。
鏡の中の女は、マリアが十六年かけて育て上げてきたものを何一つ残していなかった。
母譲りのウェーブかかった青い髪は、ストレートな栗色の髪に。
父譲りの金の瞳は、よくある榛色をしている。
傲慢さの滲んだ目つきが特徴な気の強そうな顔立ちが、驚くほど無害な顔に書き換えられていた。
それなのに不思議と、失われたという実感が湧かなかった。
むしろ初めて自分ではない誰かになれたことに、どこか奇妙な安堵すら覚えている自分がいた。
こんなにも簡単に、王女としての自分は塗り潰せてしまうものだったのか。
そう思うと、これまで後生大事に抱えてきた矜持や恐怖が、急に子供じみたもののように思えてくる。
鏡の中の女に向かって、マリアは一度だけ、確かめるように瞬きを繰り返した。
指先で頬に触れてみれば、そこにあるのは確かに自分の輪郭のはずなのに、鏡の中の他人がそれをなぞっているようで、妙な浮遊感が拭えなかった。
「趣味の悪い首輪ね」
今日までずっと鏡のない生活をしていたマリアはそのタトゥーを初めてまじまじとみた。
喉の傷を隠すように、咲き誇る一輪のダリアの意匠が肌の上に咲いていた。
首から右の鎖骨へと伸びるそれは、まるで本物の花のように艶やかな生々しさで咲き誇っている。
今まで身に着ける事のなかった赤。
その色は後ろでテアに着飾られる様子をじっと見つめている男の瞳の色によく似ていた。
「首輪をご所望だったからな。よく似合っている」
――私が貴方に飼われると言えば満足?
あの日、意地と挑発のつもりで放った言葉が、今更のようにマリアの耳の奥で蘇る。
言葉遊びのつもりだった。
言質を取ったつもりでいたのは、自分の方だったはずなのに。
まさかそれを、こんな形で刻みつけられるとは思ってもみなかった。
鏡の中の男の玲瑯な顔を睨むように見つめて言えば、赤い瞳が愉快そうに細められる。
その男はいつの間にかテアのいる場所に立ち、マリアの首を空気越しにするりと撫でた。
手袋を纏わないその手の冷たさに、ぞくりと肌が粟立ったのは寒さのせいだけではない。
その指先が辿るのは、かつてマリア自身が己の手で裂いた場所だった。
「気安く触らないで」
マリアを辿る指を振り払うように拒めば、その手はあっさりと離れていった。
名残惜しさの欠片もないあまりにも素直な引き際に、マリアはかえって拍子抜けする。
くつくつと喉の奥で笑う男を、マリアは鏡越しに睨みつけた。
「テア」
助けを求めるつもりなど毛頭なかった。
それなのに名を呼んだ声には、自分でも気づかないうちに縋るような響きが滲んでいたのかもしれない。
「はいはい、続けますよ」
いつもなら助け舟を出してくれないはずの男がさも面倒くさそうに、それでいて二人の間に素早く割り込んでくる。
敬愛する主に対してあまりにも遠慮のないその態度に、マリアは思わず片眉を上げた。
「まだ貴方の準備がすんでませんから」
問いかけるより先に、マリアの疑問を感じ取ったのだろう。
ぴしゃりと言い放ったテアが、無遠慮にマリアの頭を摑んで前へ向き直させる。
乱暴なようでいて、指先は存外丁寧に髪を梳いていく。
そんな二人のやり取りに、ルカリオはそれ以上何も言わず、定位置とも言えるベッドの端に腰を下ろした。
まるで手負いの獣が、餌にありつけぬまま巣へと戻っていくような背中だった。
その姿に、マリアは密かに溜飲が下がる思いがした。
「王女様、少しは大人しくしていて頂けると助かるんですがね」
「私は何もしていない」
「視線と顔が物語ってんですよ。ルカリオを侮辱するなど、本来なら絞首刑です」
「望むところね」
「それ以上話すと、舌を噛みますよ」
話しかけてきたのはテアのはずなのに、理不尽にも会話の主導権は取り上げられる。
痛い思いをするのも御免なので黙っていると、テアは満足げにブラシを通し続けた。
櫛の歯が頭皮を滑る感触は存外心地よく、マリアは知らず肩の力を抜いていた。
「嫌いな相手を着飾るのは楽しい?」
「好き嫌いはともかく、綺麗なものをさらに磨き上げるのは人の性でしょう」
淀みなく返された言葉に、含みなどないのだろうとマリアは思う。
どこに連れて行くのかは明かしてくれないくせに、念入りに一房ずつ髪を梳いていくテアは、自分は留守番だというのに分かりやすく楽しそうだった。
鼻歌でも聞こえてきそうなその顔を見ているうちに、ふとマリアは疑問に思った。
過去の自分も、こんな顔をしてルカリオを着飾らせていたのだろうか。
綺麗なものを、ただ愛でるためだけに。
彼の中にある感情など何一つ考えもせずに。
鏡の中の栗色の髪を見つめながら、マリアは初めて後ろめたさに似た何かを飲み込んだ。
「どこにいくの?」
鏡台の前で身支度が整った頃、マリアはようやくそれを口にした。
栗色の髪を結い上げられ、簡素だが仕立ての良いドレスに袖を通した今になって、今更のように疑問が浮かぶ。
どこかへ連れて行かれることは分かっていても、目的までは聞かされていなかった。
「前に言っただろう。連れ出すと」
ベッドに腰かけたまま、ルカリオは事も無げに答えた。
まるで昨日の続きを話すような気安さに、マリアは眉根を寄せる。
「それは知ってるわ。でも、こんなに急に」
「あなたの覚束ない演技力が拙すぎるから予行練習ってことですよ、マリア」
答えたのはルカリオではなく、後ろで道具を片付けていたテアだった。
「王女として社交界で道化として踊る貴方は大層愉快でしたが、貴方はこれからルカリオに見初められた男爵以下の貴族令嬢として生きる事になるんです」
「?」
「つまり、お散歩のついでに庶民の暮らしを学ぶという事だ」
聞き返す間もなく被せられた言葉に、マリアは口を噤む他なかった。
お散歩のついでの予行練習。
前半のふわっとした可愛らしい言葉と、後半の緊張感走る言葉を同列に語るルカリオにマリアはどう返していいかわからなかった。
お散歩って貴方、存外可愛らしい言葉を使うのねという言葉は脳内だけで留まらせた。
余計なことを言って彼の気まぐれがへそを曲げてしまえばまた暫く軟禁状態になってはたまらない。
それに、公務で少し話をする程度にしか訪れた事のない下町にはとても興味があった。
マリアが答えを探している間に、ルカリオが扉を出ようとしている所だった。
「――どうして、そこまでしてくれるの」
「さあ。理由なんて、僕自身にもよく分かりませんね」
思わずこぼれた問いに、テアは一瞬だけ、いつもの飄々とした表情を崩した。
だがそれも束の間、彼はすぐにいつもの調子を取り戻すと、肩を竦めて見せた。
その背中を追いかけようとすると自分を呼び止める声にマリアは振り返った。
「貴方は阿呆ではありますが、馬鹿ではないでしょう。一度学んだことは身に着けられるはずです」
「随分と買ってくれるのね」
「ルカリオが傍に置くと決めたのだから、仕方ないでしょう」
テアはそう言いながら、マリアの肩に厚手の外套をかけた。
仕上げとばかりに髪の乱れを整え、一歩下がってマリアの全身を検分する。
その視線には、いつもの嫌味の色はなく代わりに真剣な色を携えた紫があった。
「ここを出たら、貴方はもう王女ではありません」
二人にしか聞こえないような沈められた静かな声がおちた。
今まで散々毒を吐いてきたこの男が、今この瞬間だけは別人のように見えてマリアは瞬きを返した。
「道化を死ぬまで演じるつもりなら……せいぜい、うまく別人を演じなさい」
その言葉に、マリアは知らず息を呑んだ。
突き放すような響きの中には、砂糖菓子をそっと懐に忍ばせてくるような優しい響きが混じっていた。
この毒舌家が、こんな顔をすることもあるのだと、マリアは初めて知った。
栗色の髪の別人として、初めて彼の隣に立つ。
その一歩を踏み出す前に、マリアは一度だけ、鏡の中の自分と目を合わせた。




