8話
マリアの初恋が晒されたのは、十五歳になった時だった。
その頃にはもう、マリアは自分の中に燻り続けるこの感情が、ただの主従の情でも、庇護欲の延長でもないのだと、はっきりと理解していた。
王女としての自分に、家臣への恋慕など不要なものだということも。
かなり早い段階から弁えていたつもりだった。
けれど。
理解する事と、それを殺す事は、まったく別の作業だった。
知識として知っていることと、感情がそれに従うことは、決してイコールでは結ばれない。
マリアはその事実を、身をもって思い知らされていた。
マリアは、自分の感情を殺そうとはしなかった。
いや、殺そうと試みたことすら、片手で数えるほどしかなかったかもしれない。
誰に窘められるでもなく、諫言を口にする者がいたとしても聞く耳を持たず。
心の赴くままに彼へと近づき、纏わりつき、機会があれば理由をつけて隣に座らせ、その視線がついぞ自分に向けられる事のないという厳然たる事実に傷つきそれを自ら憐れんだ。
思えば、子供の頃からずっとマリアは彼に消えない傷ばかりを与え続けてきた。
七歳のあの日、綺麗なものが欲しいというだけの、あまりにも幼稚で身勝手さで彼の片目を奪った。
あの時のマリアに、罪の意識など欠片もなかった。
ただ美しいものを手元に置きたいという、子供らしい無邪気な欲求だけがそこにあった。
それから幾年もの月日を経てもなお、変わらずマリアは彼を側に置き続けた。
よくできた人形を見せびらかすように。
あるいは自慢の宝飾品のように。
事あるごとに人前へと引きずり出しては見せびらかし、マリアのモノだと知らしめてきた。
その扱いに、彼がどんな顔をしていたのかすら、マリアはろくに気に留めたことがなかった。
「私の側近は優秀でしょう」
「これも彼が成し遂げたことなの。素晴らしいと思わない?」
そう言うたびに、周囲の人間は口々にマリアの采配を。
あるいはその「拾い上げてやった」という慈悲深さを褒め称えた。
スラム出身の子供を側近に取り立てるなど、なんと寛大な王女だろうかと。
けれど、その称賛の裏側で、その慈悲と呼ばれるものがどれほど彼の尊厳を踏みにじってきたのかマリアは想像すらしなかった。
彼が人前に晒されるたびに感じていたかもしれない屈辱も、片目を失った過去を何度も掘り返される痛みも、マリアは一瞥すらむけなかった。
子供だったからでは許されることではない。
それは、成長するにつれてマリアも薄々分かっていたはずだった。
けれどマリアは、無邪気という言葉を都合よく隠れ蓑にして、彼にいくつもの決して消える事のない傷跡だけを刻み続けてきた。
悪意はなかったで片付けられるほど、彼の受けた傷は軽いものではなかったはずなのに。
それでも、マリアは自分を憐れむ事をやめなかった。
むしろ、年を追うごとにその感傷は色濃く育っていった。
これを一生、誰にも打ち明けられないまま抱えて生きていくのだろう。
誰にも理解されない恋心を、誰にも気づかれないように押し殺し、ひっそりと墓場まで持っていくのだと。
まるで悲劇の主人公にでもなったつもりで、そんな傲慢な感傷に、マリアは幾度となく浸り続けた。
夜、一人の寝台の中で、報われない想いに枕を濡らすことさえあった。
自分がどれほど彼を傷つけてきたかを、都合よく棚上げにして。
自分だけが、この叶わぬ恋に傷つく哀れな側なのだと、マリアは疑いもせず信じ切っていた。
「あなたに褒美を与えようと思うの」
それは、彼が幾度目かの功績を上げた祝いの席でのことだった。
スラム出身とはとても思えないほどの実力と、切れるような頭脳で、彼はいつだってマリアの望むままに動き結果を運んできたある日の事。
これまで彼は、反乱の芽を摘み、隣国との交渉を纏め、時にはマリアの機嫌一つで理不尽に飛ばされた命令すら完璧にこなしてみせた。
そしてその度に、マリアは彼を見せびらかすようにして褒美を与えた。
彼の功績そのものよりも、その功績を「与えてやった」自分の采配の正しさを、周囲に誇示するために。
「では、マリア王女と二人きりでお願いがあります」
その言葉に、マリアは震えるほどの歓喜を覚えた。
これまで何を与えようとしても、彼は決して私的な望みを口にしなかった。
褒美はいつも国のため、民のため、あるいは他の誰かのためという言葉になってついぞマリアは彼に求められる事はなかった。
それが今、初めて。
彼が、マリアと二人きりの時間を望んでいる。
あの美しい赤に、初めて「望み」というものが宿って、こちらを映していることにマリアの胸は喜びで満たされ、歓喜に震えた。
はしたないと陰口を叩かれるだろうほどの性急さでマリアはその日のうちに彼を自室へと呼びつけた。
侍女すら遠ざけて、二人きりの部屋でマリアは隠しきれない期待に頬を染めながら甘く息を吐いた。
「私とあなた二人だけで、何を願うの?」
言葉の端々にまで、浮かれた響きが滲んでいた事にすらマリアは気付かなかった。
「どんなものでも構いませんか」
静かな声だった。
いつもと変わらない、抑揚の少ない声。
けれどその静けさの奥に何が潜んでいるのか、その時のマリアには読み取る術がなかった。
「当然よ。この国の名にかけて、二言はないと誓いましょう」
浮かれた声で、マリアは胸に手を当てて誓いすら立てた。
何を望まれても構わない。
彼が望むのなら、地位でも、この国の一部でも、自分さえも与えてやりたい。
そんな傲慢な心でマリアはルカリオの言葉を待ち望んだ。
「その眼を、やめてもらえますか」
一拍の間があった。
マリアは、その言葉の意味を理解できずに瞬きを繰り返した。
「その、眼……?」
問い返す声が震えて、見つめていたはずの赤い目が初めて、暗く淀む。
「わからないか?」
そこで初めて、彼の声色が変わった。
これまでずっと聞いた事のない敬意のない口調に喜ぶまもなく、落とされたのはマリアが隠し通そうとした事実だった。
「反吐みたいな、俺の身体に纏わりつく気持ち悪い視線をよこすなと言っているんだ」
何を言われたのかマリアはわからなかった。
呼吸の仕方すら忘れて言葉の意味を考えた時、マリアの頭に過ったのは気づかれていたという恐怖だった。
何かの聞き間違いであってほしい。
そんな縋るような願いだけが、真っ白になった頭の中をぐるぐると空回りする。
けれど、目の前の男の表情は、聞き違いだと笑い飛ばすことを許してはくれなかった。
「何が目的だ?」
彼は、今まで一度も見せたことのない表情でマリアを見下ろしていた。
軽蔑。
その二文字だけが、彼の赤い瞳の奥に、燃えるように刻まれていた。
いつも、マリアの視線を受け止めて凪いでいたその赤が。
マリアがこの世で最も美しいと焦がれ続けてきたはずのその色が。
今はただ、汚らわしいものを見るような、冷え切った光だけをマリアに向けていた。
「君主のつもりかと思えば、女のような顔をして……まさか、箱入りの王女様がスラムの犬に懸想しているとでも?」
考えるそぶりで顎に手を置いた後、一拍置いて嘲笑うような口調。
その瞬間、マリアの喉から声にならない悲鳴が漏れた。
違う。
そう叫ぼうとした。
懸想などという、そんな軽い言葉で片付けられるものではないのだと。
これは、七年以上もかけて、マリアの中でゆっくりと形を変えながら育ってきた感情なのだと。
けれど、その否定の言葉すらも音にならなかった。
ゆっくりと、ソファーに崩れるようにして座るマリアの前に立ったルカリオは、顎を逸らすマリアを嗤った。
伸びてくる手がマリアの首に触れる。
ゾッとするほど冷たいその大きな手を無礼だと払いのけることも出来ない。
見下ろす双眼から逃れるようにマリアは目を伏せた。
今なら彼に殺されてもいい。
追い詰められても尚、マリアは悲劇のヒロインであろうとした。
そんな気持ちを理解したように、ルカリオは喉の奥で笑うと一歩、マリアから距離を取った。
マリアがひとり、彼の為にと丁寧に育てた花園。
それを壊すのもまた、ルカリオだった。
「二度とその眼を向けずに、その欲に溺れてひとりで心中してくれ」
落とされた願いは、静かだった。
心臓を素手で鷲づかみにされ、そのままゆっくりと握り潰されていくような感覚。
痛いと叫ぶことすら許されない、そんな痛みにあえぐマリアを静かに見つめる赤はこれまでみたどれよりも暗く淀んでいた。
心中しろ。
その言葉の意味を真に理解したのは褒美を与えてから数日たってからの事だった。
翌日からルカリオはいつも通りマリアの前に現れた。
公務の報告をし傍らに控え、時折マリアへ向ける視線も、以前と何ら変わりない冷静さを保ったままだった。
まるで、何事もなかったかのように。
その徹底した平静さに、マリアは理解するしかなかった。
昨日、あれほどはっきりと拒絶を告げた男が、今日はもう何事もなかったかのように振る舞っている。
ならば自分も、そうするしかないのだと。
大切に守ってきた宝物を壊されたことなどなかったことにして。
砕けた感情の欠片を、見なかったことにして。
マリアは、いつも通りの顔を作ることを強要された。
――私とルカリオの間には、嫌悪以外に何もなかった。
その事実を理解した瞬間、マリアの世界は音を立てて崩れていった。
足元から、積み上げてきたものすべてが崩落していくような感覚。
ずっと、彼はマリアを憎んでいた。
綺麗なものが欲しいと無邪気に指をさした、あの七歳のあの日から彼のマリアへの感情はもう決まっていたのだと理解させられた。
着せ替え人形のように扱った日々。
自慢の宝飾品のように、事あるごとに人前へ引きずり出した瞬間。
功績を挙げるたびに見世物のように晒した記憶。
そのひとつひとつが、彼の中に静かに、けれど確実に積もっていく憎悪に過ぎなかったのだと。
祝いの席で肩を並べて微笑んだ記憶も。
誰よりも近くにいると信じて疑わなかったあの距離も。
彼が黙ってマリアの我儘を聞き続けてくれた、あの日々のすべてが。
――偽りだった。
自分が愛だと思い込んでいたものは、最初から、ただの一方通行の暴力に過ぎなかった。
そう突き付けられて、マリアはようやく気付く。
誰にも打ち明けられない恋だと。
誰にも理解されない想いを、ひとりで抱えて生きていくのだと。
そんな悲劇の主人公のような感傷に、幾度となく浸ってきた自分が、今はただ滑稽で、そして惨めに思えた。
悲劇の主人公は、マリアではなかった。
ずっと、彼の方だった。
そうしてマリアが育んできた初恋は、彼自身の手によって跡形もなく踏みにじられ、ないものにされた。




