7話
「ああ……貴方の大切なお姉様がどうなっても構わないのなら、そのまま朽ちればいい」
「大切なんかじゃない」
食い気味に返した声は、自分でも驚くほど強い響きを持っていた。
図星だと悟られたくない。
相手の口車にのってはいけない。
そう思うのにルカリオのこちらを挑発するようなしたり顔にマリアの短い導火線に火がついた。
「なんなら、心中するための道具も用意してやろうか?主人公になったつもりの道化がどんな幕引きをするのか、興味がある」
「口の聞き方に気をつけなさい」
「そっくりそのままお返ししよう、元王女様」
「貴様っ――」
狭い部屋の中で交わされる応酬は、まるで剣の切っ先を突き合わせているかのように、一言ごとに緊張が増していった。
怒りで吠えたマリアは、震える呼吸を整えながら必死に思考を巡らせる。
どうして、自分は生かされているのか。
今、自分がどこに囚われているのか。
ナーシャは、今どうしているのか。
そういった、はっきりとした答えを与えてくれることは、これまで一度もなかった。
ただ、気まぐれのように断片的な言葉の切れ端だけを、この男は投げて寄越す。
まるで、腹を空かせた獣に骨の欠片を放るように。
「私が貴方に飼われると言えば満足?」
ゆっくりと、ルカリオの目を見てマリアが告げると、ルカリオは瞠目した。
まるでマリアが素直に問いを口にした事が意外だったとでもいうようなその顔に、マリアの眉間に自然としわが寄る。
「今なら貴方とダンスを踊れるくらいには」
言葉遊びとはいえ、マリアは言質を取った。
マリアが生きてさえいれば、ナーシャは危険な目に合わないかという問いを正しく理解したのだろう。
ルカリオは嗜虐的な笑みを隠しもしないで答えたのが何よりも証拠だった。
考えてみれば、奇妙なやり取りだった。
何度目かの周回で、マリアはこの男に対してありとあらゆる我儘を投げつけてきた。
時には無理難題を、時には理不尽な命令を。
それらすべてに、この男はただ黙って従い続けてきた。
感情を殺し、忠実な駒として。
今目の前でマリアに膝をつくルカリオの姿は、あの頃の従順さとよく似ていて、けれど決定的に違う何かを孕んでいる。
従っているのではない。
この男は、従うふりをすることで、こちらの手の内を確認しているのだとマリアは気が付いた。
目覚めてから彼が寄越したのは、マリアをこの世に繋ぎとめるための鎖のような言葉たちだった。
いつからなんて聞く価値もなかった。
ただルカリオを自分から遠ざける事は許されなかったから、傍に置いた。
目を離してはいけないと思っていたのは、マリアだけではなかったのかもしれない。
時間だけはありあまったマリアに、じっくりと考えさせるようにその反応を観察してくる赤色は、正直言って不愉快でしかなかった。
それでも、マリアは彼の狙い通りに、その欠片を必死に拾い集めずにはいられない。
知らないということは、知っている以上に恐ろしい。
それは、何度も命を落としてきたマリアだからこそ、骨身に沁みて理解していることだった。
そんな恐怖に突き動かされた思考の中で、長い沈黙の末にマリアの口からこぼれ落ちたのは、およそこの場にそぐわない一言だった。
「Fragaria (いちご)――」
呟くようなその声に、ルカリオは片眉を上げた。
一瞬、虚を突かれたようにその赤い瞳が瞬く。
けれどそれも束の間、何が言いたいのか正確に理解した男は、見せつけるようにマリアの前に歩み寄ると膝をついた。
汚れた床につくことすら厭わないその仕草に、マリアの胸の奥が小さくざわめく。
赤い瞳が、弓なりに細められた。
それは今までの、嘲るような、値踏みするような笑みとは、どこか質の違うものだった。
「仰せのままに」
どちらが道化なのかと言いたくなるほどの振る舞いで落とされたのは、かつてマリアの隷下としてルカリオが見せていた姿を模した了承だった。
無駄に様になるそれは、顔立ちがいいからだけではない。
今や王室の人間に最も近い男が膝をついているという優越感以上に、マリアの腹に渦巻くのは不快感だった。
けれど相手の思惑通りに苛立っていると思われたくなくて、マリアは質素なベッドの上で寝巻き姿のまま、それでも優雅に足を組んでみせた。
慣れ親しんだ王女としての態度を取るのは、随分と久しぶりのことだった。
「本気にするとは思わなかったわ」
「さて?俺は昔から、貴方の言葉には忠実だっただろう」
そう言って立ち上がる男の声には、隠しきれない嘲笑が滲んでいた。
忠実、というにはあまりにも歪んでいるそれにマリアは頬がひくつくのを感じた。
ループをする前の七歳の自分が無邪気に振り回した我儘の数々を、この男は一つも覚えていない。
それなのに、なぜか背中がざわつくのは、本心を悟らせないように振舞う男の言動のせいなのか。
今は判断がつかない。
それでもループをする上で必要に駆られてルカリオを振り回した自覚はあったから何も言い返せなかった。
「本当に持ってくる気なの」
「撤回するか?」
「いいえ」
試すような視線に、マリアは唇を引き結んだ。
撤回すれば、それこそこの男の思うつぼだからと首を振って答えるとルカリオは満足そうに喉を鳴らした。
その笑い方に、マリアは既視感を覚えた。
「……? 何か言いたそうだな」
「別に。あなたが早く行けばいいと思っているだけよ」
追い立てるように手を振ると、ルカリオは喉の奥で低く笑い、一礼して部屋を出て行った。
その芝居がかった仕草の一つ一つに、皮肉が滲んでいるのが憎らしい。
扉が閉まる音を聞きながら、マリアはひとり残された部屋で膝を抱えた。
♢♢♢
幽閉されて数日が経った。
時間つぶしにとテアが寄越したチェス盤を弄んでいると、いつものように顔を出したルカリオが、珍しく自分から一局打とうと言ってきた。
普段の精神状態であれば、迷わず断っていたところだった。
それでもマリアは頷いた。
何かに没頭していなければ、思考は際限なくループしていた過去へと逆戻りしてしまう。
それだけは、避けたかった。
記憶が周回を跨いで引き継がれるが故に、マリアはこれまで、できうる限りのことに興味を持って生きてきた。ただ美しいだけの王女ではいられないのだと悟った時、真っ先に手を伸ばしたのが「知る」ということだった。そのうちの一つに、チェスがあった。
本来ならば男性の教養とされているそれを、マリアはルカリオから学んだ。
正確に言えば、教えを乞うたことなど一度もない。
一人で盤に向かい、つまらなそうに、けれど必要に駆られたように駒を並べる彼の指先を、ただ黙って見ていただけだった。
それだけで、いつの間にか覚えてしまっていた。
対局相手を必要としない詰将棋めいた問題を、ルカリオは涼しい顔で次々とこなしていく。
元々、何でも器用にこなす男だとは知っていたが、たった一日でルールを飲み込み、三日と経たぬうちに宮廷の誰よりも強いプレイヤーになっていたと聞いた時は、さすがのマリアも呆れを通り越して感心したものだった。
「どうしてd6にナイトを置いたの」
「a4のビショップがc3に動く」
「私ならクイーンをh5に置くわ」
「それだと、自分のビショップに動きを封じられる。そら、g3にいたポーンのせいで、貴方のb1にいるクイーンはあっけなく取られるぞ」
珍しく手袋を外した男の、綺麗に整えられた指先がクイーンを弾き飛ばす。
代わりに、静かな音を立てて黒のビショップが盤上に立った。
淀みない解説に、マリアは素直に感嘆するほかない。
何度対局しても、この男の頭の中がどうなっているのか、まるで見当がつかなかった。
盤面を見下ろすルカリオの視線は、駒の一つ一つではなく、盤全体をひと目で捉えているように見えた。
まるで、まだ誰も指していないチェックの景色までもが、あらかじめ彼の目には映っているかのように。
マリアが必死に一手先を読もうとしている間に、彼は既に十手も二十手も先へ意識を飛ばしている。
剣の稽古でも、政務の場でも、この男はいつだって周囲より半歩先を歩いていた。
その正体が、この盤上でようやく形になって見えたような気がした。
「悔しいけれど、貴方には敵わないわね」
素直に零した言葉に、ルカリオは片眉を上げた。
珍しい台詞だと言いたげな顔だった。
「負けを認めるとは、貴方らしくもない」
「負けを認めているんじゃないわ。ただの事実を口にしているだけよ」
減らず口で言い返せば、ルカリオはくつくつと喉の奥で笑った。
その笑い方には、これまでのように相手を嬲る響きはなく、ただ純粋に愉快そうな色だけがあった。
「駒を取らせるのだけがチェスじゃない」
盤の上に視線を落としたまま、ルカリオがぽつりと零す。
「相手を誘って、こちらの駒が揃うまで時間を稼ぐ。相手よりも手札が少ないと分かっているのであれば、貴方の得意な自分の駒を犠牲にするのは最終手段にするべきだ」
「貴方は駒を斬り捨てるのは得意そうね」
「一緒に斬り捨てるほうが合理的な事もある」
ルカリオの落とす一つ一つの言葉がなぜかマリアに突き刺さる。
駒を取らせる。
犠牲にする。
盤面を作り変える。
それはまるで、これまでマリアが繰り返してきた周回そのものを言い当てられているかのようだった。
姉を守るために自らの悪名を積み重ね、何度も命を投げ出してきた日々。
あれもまた、望むべき勝利のために、自分という駒を犠牲にし続けてきただけのことだったのかとクイーンを守るために転がったポーンを見て思う。
「あなたは、今何を狙っているの」
ふと零れた問いに、ルカリオは顔を上げた。
赤い瞳が、まっすぐにマリアを射抜く。
答えるつもりがあるのかどうかすら、その表情からは読み取れなかった。
「さてな」
短く返されたその一言だけを残して、白黒を交代したルカリオはもう何度目かになる一手を静かに指した。
彼は一度指した動きを繰り返す事をしない。
それは、ループの中でマリアの予想を裏切り続けた動きそのものだった。
白のクイーンが、盤の中央へと進み出る。
その時、この世界で生きるマリアの人生は、この小さな盤の上によく似ていると思った。
誰が王で、誰が駒で、誰が盤の外からすべてを見下ろしているのか。
周回を繰り返してきた中で自分はずっと、誰かに指されるままの一つの駒に過ぎなかったのかもしれない。
だとしたら。
今度こそ、自分の意志で動いて見せたい。
盤上のポーンの動きを考えながら、マリアは静かにそう思った。




