6話
「Ave Maria (おめでとうマリア)―――」
ナーシャの歌に合わせてマリアは誰も知らない本来の歌詞を口ずさんだ。
一歩、また一歩。
人垣の隙間を縫うようにしてナーシャへ近づいていくたびに、マリアの心が沸き立った。
もうすぐ終わる。
その瞬間を前に、マリアの脳は長い待ち望んだ歓喜に震えていた。
本来ならば、この広いパーティー会場で人々の中心にいるのはナーシャでなくマリアであるはずだった。
時に人を癒し、慰める役割を持って生まれた唯一の王女として。
エステートを従え、この国の行く末を担うアコード。
その座は、マリアのものであるはずだった。
それなのに、今は立場が逆転している。
かつて我先にとマリアの機嫌を取ろうとした従者たちは、今では誰一人としてこちらを見向きもしない。
それどころか時折向けられた視線はどれも、憐れみかあるいは軽蔑を含んでいた。
それも当然だ、とマリアは自嘲する。
十八歳になったナーシャが突如としてその力、アコードの力を目覚めさせたあの日から、マリアは偽物になったのだから。
それからというもの、マリアとナーシャの関係は大きく入れ替わった。
王宮のパーティー会場で歌を披露するのはナーシャになり、マリアと言えば偽物のアコードとして入場すら許されない扱いを受けた。
ナーシャのアコードとしての力はマリアとは違っていた。
どれだけ壊れかけていたとしても、ナーシャの歌を聞けば、彼女の声を聞けばエステート達の暴走はとまり、安定する。
時にはエステートを暴走させ、壊してしまうマリアと違ってナーシャは誰もが求めてやまないアコードとしての理想だった。
「Sit cantus meus solacium et pax animarum (私の歌が、魂の慰めと安らぎとなりますように)―――」
この国での歌声には娯楽のほかに大きな意味をもつ力があった。
人よりも鋭い五感を持つ者たち。
通称エステートと呼ばれる者達には、人よりも研ぎ澄まされた五感を持っていた。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。
そのどれかが常人離れして鋭くなる代わりに、アコードに管理されなければ、いずれその感覚に呑まれてフューグと呼ばれる暴走を引き起こす。
人口のわずか3%に満たない特異な体質。
ナーシャの取り巻きは、そのすべてがエステートだった。
だからこそ、呼ばれてもいないこの場に紛れ込んだマリアの気配は遅かれ早かれナーシャの歌に酔いしれる誰かの鋭敏な感覚に引っかかる。
マリアの香水すら纏わない匂いも、衣擦れの音一つでも彼らにとっては見過ごせない異物になり得た。
それでもいい、とマリアは思う。
気づかれる前に、ナーシャに辿り着ければそれでよかった。
マリアに与えられた役割は、そこまでなのだから。
「Ave Nasha (選ばれしナーシャ)―――」
「Ave Maria (さようならマリア)―――」
握りしめたナイフを持ったマリアは、姉の声に重ねるようにして自分だけの為に鎮魂歌を口ずさんだ。
この後、マリアはナーシャに襲い掛かり彼女を守るルカリオによって死を迎える。
それは幾度なく繰り返された変えられない事実だった。
♢♢♢
「誰のために僕が、気に入らない相手の面倒を見ていると思ってんですか、ルカリオ!」
一瞬自分に向けられたのかと身構えるほどの本気の呼び声でマリアは目を覚ました。
回らない頭で状況を把握しようと視線を動かせば、丁度ルカリオが目を逸らしている所だった。
「頼んだ覚えはない」
不遜に言い放ちながらも、明らかに分の悪さを滲ませて視線を逸らすルカリオ。
その光景に、マリアは思わず口の端を緩めた。
いつも人を嬲る側にいるあの男が、子供のように叱られている。
自分が絞め殺されかけたことなど、どうでもよくなるくらいには胸のすく光景だった。
できることならもう少し、このまま眺めていたい。
そう思うくらいには、久しく味わっていなかった愉快さだった。
けれどそれも長くは続かなかった。
視界の端で笑うマリアに気づいたのか、ルカリオが誤魔化すようにこちらへ視線を寄越す。
――巻き添えにする気だ。
悟った時にはもう遅く、テアの矛先はあっという間にこちらへと向いていた。
「随分とルカリオと仲良くなられたようですね」
皮肉たっぷりの声に、マリアはとっさに反論しようとして、喉の奥に走った鈍い痛みに顔をしかめた。
意識を失っていたのはわずかな時間だったらしく、それでも汚れた服はいつの間にか着替えさせられている。
せっかく塞がりかけていた首の傷が、また開いてしまったのだろう。
声を出そうとするたびに、皮膚の内側を引っ掻くような痛みが走った。
表情を歪めたマリアに気づいたのだろう、テアは肩をすくめると睨みつけてきた。
「傷が開いているので、声を出さないで下さい」
数日前にお役御免になったはずの言いつけを、マリアは渋々ながらも受け入れた。
従わなければ、より面倒なことになる。
それだけは、短い付き合いの中でもう十分に理解していた。
「はぁ……少しは大人しくして頂けませんかね」
短く零された小言に、マリアは無言のままルカリオを指さした。
――あいつが悪い。
声にならないその主張は、正しく伝わったらしい。
テアの眉間の皺が、これ以上ないというくらいに深くなる。
「指をさすのはおやめなさい。ここが外なら不敬罪で首を刎ねられますよ? ……まったく躾のなっていないことは存じておりましたが、まさかinfans――七歳以下の子供ですら知っていることすら学んでいないとは。この国の未来が心配です」
「首を刎ねられるなら大歓迎よ」
「屁理屈はおやめなさい。手も動かさない」
言い返そうと開きかけた口を、マリアは結局噤んだ。
これ以上刺激しても得なことは何もない。
渋々引いたマリアを一瞥したテアもまた、はぁ、と深いため息をひとつ落として口を噤んだ。
そんな中、マリアに噛まれた傷をつけたままのルカリオだけが、一部始終を面白そうに眺めていた。
――気に食わない。
元はと言えばルカリオがおかしくなってマリアの首を絞めた事が原因なはずなのに、いつの間にか傍観者としてこちらを見ている二つの赤をマリアは睨みつけた。
つい先ほどまで、この赤に殺されかけていたはずだった。
なのに今は、まるで何事もなかったかのように壁に凭れて、興味深そうにこちらを観察している。
その温度差にマリアの胸の奥で、名前のつけられない苛立ちがちりちりと燻る。
そこでふと頭をよぎったのは、目覚めてすぐ聞こえたテアの小言だった。
""誰の為に気に入らない相手の面倒を見ていると思ってんですか""
あの言葉には、明確なヒントがあった。
テアが気に入らない相手は恐らくマリアの事。
その面倒を見る理由が、ルカリオのため。
点と点が繋がるように、ぽつりぽつりと思考が像を結んでマリアの中で形になっていく。
「私が生かされているのは……ルカリオのため」
深く考えたわけではなかった。
ただ、口をついて出た言葉だった。
けれど。
マリアが脈絡なく、唇を動かしたというのに正しく拾ったらしいテアは、僅かに目を見開いた。
その紫の瞳に浮かんだのは、これまで見せてきたどの表情とも違う、ほんの一瞬の驚愕だった。
いつも饒舌なこの男が、何も言わない。
それが逆に、マリアの言葉が的を射ていたことを何よりも雄弁に語っていた。
それから投げやりな吐息を落とすとテアはルカリオに目配せをした。
意味深なやり取りをする二人。
視線だけで交わされる会話に、マリアはただ蚊帳の外に置かれるしかない。
何を確認し合っているのか。
何を、隠そうとしているのか。
マリアにはわからないやり取りの後、テアは今日一番のため息を落とすと共に告げた。
「私は少し席を外します。いいですか?くれぐれも殺し合いはしないで下さいね」
「「無理」」
「その調子でよろしくお願いしますね」
言うだけ言って、テアは返事も待たずに踵を返して去っていった。
その足取りに、迷いはなかった。
むしろせいせいしたとでも言いたげで、スキップしているように見えたのは気のせいじゃない。
意外と騒がしい男が居なくなると、その場は静まり返った。
暗にルカリオに聞けというテアのメッセージを受け取ったものの、いざその機会が訪れるとその次の言葉が出てこなかった。
何度も繰り返してきたこの地獄が終わった意味を、生かされている理由をずっと欲していたのに。
「どうして生かされているのかを知れば死ぬ気はなくなるか?」
マリアが黙ったまま俯いていると、男は脈略もなく問いかけてきた。
問われたのは、ずっと問うてきた男にはぐらかされてきた言葉だった。
意味を理解してルカリオに目を向けると、彼は片方の目だけを細めて見せた。
答えないままでいると、ルカリオは腕を組んだまま、ふと息を吐くように笑った。
どうしようもないなとでも言うような、声は聞こえなかった。




