5話
「また随分と暴れたようだ」
呆れを存分に含んだ声に、マリアは肩を震わせた。
扉が開く音すら立てず、けれどわざと足音だけは響かせて歩み寄ってくる男は、今日も変わらず恐ろしいほど美しい。
月明かりを吸い込んだ銀髪が、一歩ごとに揺れ瞳よりも明るい赤が嫌でもマリアの視界に映りこんだ。
姉の婚約者としても、国の重要人としても寸暇を惜しんで働いているはずのルカリオは、それでも一日に一度、必ずマリアの元を訪れた。
マリアが眠っていようが、目を覚まして睨みつけていようが、彼にとってはどうでもいいことらしい。
まるで日課の一つに数えられているかのような無機質さで、この男は今日もマリアの前に現れた。
苛立ちをぶつけても、癇癪のように声を荒げても、時には縋るように頼み込んでみても。
その紅い瞳は、どこまでいってもその色は凪いだままだった。
マリアの感情の波が高くなればなるほど、その赤は静かに、まるで観察する研究者のように輝きを増す。
それがたまらなく不愉快だった。
「食事を取らないのは、当てつけか?」
反射で体を両肘で支え起こしたマリアに、近づいたルカリオの赤が鈍く月明かりで光る。
マリアに伸びてくる手には、今日も変わらず黒い手袋がつけられていた。
革の匂いが鼻先をかすめる。
その手から逃れるようにマリアが顔を背けると、空を切った指を見たルカリオは、面白がるように口の端を持ち上げた。
「当てつけだと思うなら、それでいいでしょう。あなたに理由を教えてあげる義理なんてないもの」
吐き捨てるように返すと、ルカリオは片眉を上げただけだった。
挑発が効いていないことが、余計にマリアの神経を逆撫でする。
この男は何故か、マリアが感情的になることに喜びを見出す趣味を持っているらしい。
最初こそ、その紅い瞳に見下ろされるだけで身が竦んだ。
けれど怪我が塞がり、体力が戻ってくるにつれて、マリアはただされるがままではいられなくなった。
嫌味を投げられれば、それ以上の嫌味で返す。
ループを繰り返す中で摩耗し、削れ落ちていったはずの傲慢さが、ここ数日まるで見計らったように顔を覗かせるようになっていた。
「テアが困っている」
「勝手に困っていれば」
抑えようとしても、それ以上に上手なこの男が容易く引き出してしまう。
だからマリアはもう、隠すことをやめた。
隠したところで、この男には全て見透かされているのだと、嫌というほど思い知らされている。
それならば一層の事貯めた鬱憤を晴らすほうがずっと合理的だった。
「飼い主らしく直々に食べさせてやろうか?」
顎を捉えられ、双眸と目が合う。
指先だけのはずなのに、そこから伝わる体温が肌の内側にまで染み入るようで、マリアは思わず息を詰めた。
憎々しげに見上げて身じろぎすれば、許さないというように乗り上げてくる。
まるで鼻先同士でキスをされているのかと思うほどの距離だった。
近くに寄ると男の体から不快な錆びた匂いが香った。
戦場から湯浴みもせずに仕事を終えてすぐに駆けつけたらしい。
よく見れば、緩く結われた髪は少し乱れ、切れ長の目元にもうっすらと疲労の色が滲んでいる。
それに気づいてしまった自分に、マリアは内心で舌打ちをした。
疲れを見せて気を遣わせるような演技力はルカリオにはない。
つまりマリアはルカリオの雰囲気が普段と違う事を感じ取れるほど、彼が訪問してきている事に他ならない。
「飼われる小鳥も、死に際くらいは選べるでしょうに」
声はまだ掠れていたが、以前よりはずっとはっきりと言葉を紡げるようになっていた。
それだけが、今のマリアにとって唯一取り戻せた尊厳のようなものだった。
「生かすことも、飼い主の務めだと知らないようだ」
ルカリオは、マリアの言葉にとぼけたように小首を傾げる。
その顔に浮かぶのは、こちらを試すような、嫌味な笑み。
まるで幼子の駄々をあやすような余裕が、余計に神経を逆撫でする。
慣れたように手が伸びてきて、その手が触れる前にマリアは距離を取った。
定位置とも言うべき枕もとに腰かけた男の手が追いかけるようにマリアの一筋だけ逃げ遅れた髪を捕えた。
「飼い主、飼い主って。随分と気に入ったようね」
「浮かれてもいる……漸く手に入れた金糸雀なものでね」
軽くいなすようなその声色にすら、マリアの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
どこまで自分を愚弄するのか。
久し振りに傲慢で不遜なマリアの王女が顔を出した。
閉じ込められたまま、飼い主の帰りを待ち望む姿がマリアの与えられた新しい役割なのだとしたら随分と役不足だ。
自分の役は自分で決めてきたし、これからもそれは変わらない事を証明してやらなければならない。
そんな怒りに突き動かされてマリアは憎たらしく歪んだ唇に狙いを定めた。
素人同然の行動にもかかわらず、ルカリオはマリアを避けなかった。
だからこそ勢いを殺さずに顎をぶつけるように狙った唇に歯を立てた。
ガチッと歯がぶつかる音に、マリアの視界を埋め尽くしていた赤が遠ざかった。
一瞬の静寂。
自分がしたことの重大さに気づくよりも早く、マリアの中を満たしたのは、言いようのない爽快感だった。
初めてだった。
何度繰り返しても、この男に一矢報いたことなど一度もなかったのに。
不意を突かれたとはいえ、マリアの動きに反応したらしい男の口端は血によごれていた。
背中を逸らすようにして離れたルカリオの、眉間に皴が寄った表情はマリアの溜まっていた鬱憤を晴らすには十分だった。
「――は」
ルカリオが短く息を漏らした。
これまでマリアが見てきたどの表情とも違うその顔には驚きが浮かんでいた。
いつもの、余裕に満ちた顔とも、人を嬲る笑みでもない純粋な驚き。
今では苛立ちにも見える表情が、確かにそこにあった。
マリアはそれを見逃さなかった。
「躾の仕方を教えて差し上げましょうか?」
マリアは血によごれた唇の端を舌で拭うと不敵に笑った。
自分でも驚くほどにその笑みは自然に浮かんだ。
あれほど毛嫌いしていたはずの相手の血の味が、やけに甘く好きだったイチゴに似ていた。
「あっはっは!」
弾けるような哄笑に、マリアは驚いて身をすくませた。
酷い罵りと共に強い怒りをぶつけられるとばかり思っていた。
殺されるならそれでもいいと、どこかで開き直ってすらいた。
それなのに目の前の男は、片手で顔を覆い、見たことのない表情で肩を震わせて笑っている。
ルカリオが公務でも、政敵の前でも、こんな無防備な顔を彼が晒したことは一度もない。
それどころか、声をあげている姿なんて想像もできないくらいに一遍してルカリオの表情筋は、相手を不快にさせるものか負の感情ばかりを乗せていたように思う。
「な……何がおかしいのよ」
震える声で睨みつけると、笑いの隙間から覗いた紅い瞳が覗いた。
「貴方は本当に、俺を苛立たせる天才だ」
手の隙間から覗いた赤い目が狂猛に光る。
瞳孔が開いている。
下手を打ったと気が付いた時にはのしかかられて首に手がかかっていた。
虹彩だけでなく瞳孔まで赤いと現実逃避のようなことがよぎる。
「――ぐっ」
首に食い込む指の力に、マリアの喉から掠れた声が漏れる。
ルカリオの手は大きく片手でマリアの首を掴む事など容易かった。
普段から鍛えられ、重い剣を持つ手で容赦なく圧迫されていく喉がひしゃげた声を奏でた。
呼吸を性急に奪われていく感覚に自然と身体が暴れるが、うえに乗った男は微動だにしなかった。
望んでいたはずの死を近くに感じて、恐怖からか反射的にルカリオの手を外そうとマリアの手がルカリオの手に伸びる。
視界が滲んでそれが悔しくてマリアはルカリオを睨みつけようとすると目に入った赤は、見覚えのある色をしていてマリアの手が落ちる。
滲む視界の中で、間近にある紅を見上げる。
――ああ、この目だ。
七歳のあの日、初めて欲しいと願った色がそこにあった。
何度巻き戻しても、褪せることのなかった赤色。
どうしてよりによって、こんな時にまでその赤に心を奪われてしまうのだろう。
伸ばしかけた手から、力が抜けていく。
抵抗する意味を、マリア自身が見失っていた。
「ルカリオ!」
鋭い声が割り込んだ瞬間、首を締め付けていた力がふっと消えた。
なだれ込むように空気が肺を満たし、マリアは激しく咳き込む。
滲んだ視界の端で、テアがシーツを放り投げてこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
何か言おうとした唇からは、音にならない吐息しか出てこない。
「――何を、なさっているんですか!!」
低く抑えた声で問うテアの視線が、ルカリオとマリアの間を素早く行き来する。
答えないルカリオの表情に浮かんでいたのは、殺意でも後悔でもない、ただ自分自身の行動に戸惑うようなおいて行かれた子供のような表情だった。
マリアは見覚えのある淀んだ赤を最後に意識を失った。




