4話
「哀れだな」
低く落とされたその言葉の意味を理解するより先に、マリアの全身から音を立てて血の気がより一層沸き立ったのがわかった。
目線しか動かせない状況で、これ以上屈辱を受けたくないという一心から、マリアは一つの結論に辿り着いていた。
――死にたいのなら舌を噛めばいい。
頤をつかまれ、力を込めようとした口に指が差し込まれたと気がついた時には、マリアの口内には錆びた味が広がっていた。
ゴリっと耳元で音がしたのは、マリアの歯が男の指の骨とぶつかったのだとわかった時。
マリアは再び絶望に落とされた後だった。
嘲笑を浮かべる男はマリアの色を失った顔に心底面白いといいたげに目を細めた。
愚かだと見下すその目には明らかな殺意が滲んでいるように見えた。
「その薄汚い口をさっさと開けてルカリオへ詫びなさい。本当なら膝をついて首を垂れさせたいところです」
ルカリオを王として敬愛する家臣らしい迷いのない物言いが、マリアの絶望に楔を打ち込む。
身じろぎするたびに鎖が擦れて鳴った。
逃げ場のない恐怖からか、それとも積み上げてきた絶望からか、マリアの奥歯がかたかたと震えていた。
それでもマリアは、こみ上げてくる全てを喉の奥に飲み下し、顎をぐっと持ち上げる。
喉が再び裂けようとも、構わなかった。
「殺せ」
血の滲んだ包帯よりもなお白い喉元を晒し、マリアは自分を見下ろすその男を嘲笑うようにして見返した。
殺意を纏った紅が瞳の奥で蠢くのを、マリアはこれまで何度も目にしてきた。
時には公務の場で、時には夜会の煌びやかな灯りの下で。
マリアを妬み、憎む有象無象と同じ色を、この男の目もまた宿している。
「俺がやすやすとあなたを殺すとでも?」
晒された首を、薄皮一枚を挟むようにして指先が撫でる。
ぬるい体温の気配だけが、マリアの唾液と血で汚れた指がすぐそばにあることを知らせるのに、その指はマリアの肌に決して触れなかった。
すぐに、指はするりと視界の外へと消えていく。
「今は傷を癒せ――俺の金糸雀」
突き放すような声とともに、指先の熱がふっと遠ざかる。
かわりに残されたのは、皮膚に薄く残った不快な感触と、口の中いっぱいに広がる錆びた味だけだった。
マリアは何も言わず、ただ男を睨み続けた。
睨むことしか、今の自分には出来ないのだとしても、睨まずにはいられなかった。
カリオは興味を失ったように視線を外すと、テアの方へと顎をしゃくった。
「傷の手当てを」
その一言に籠っているのは、慈悲でも憐憫でもない。
死なせては困る。
生かしておく理由があるから、生かす。
それだけの、道具に対するような扱いだった。
「かしこまりました」
テアは芝居がかった仕草で深々と頭を垂れた。
恭しいはずのその礼が、どこまでも白々しく響く。
腰を折る角度も、両手を胸に当てる仕種も、まるで舞台役者が観客に向けて見せる大袈裟な演技そのものだった。
けれど頭を上げた拍子に、ちらりとこちらへ向けられた紫の瞳には、隠す気配すらない嘲笑がありありと浮かんでいた。
獲物をいたぶる前の、愉悦を隠しきれない獣のような目。
マリアがその視線を睨むようにして視線を返すとテアは一つ笑みを零した。
「また来る」
誰に向けたのか知らない言葉と共にルカリオが立ち去る背中をマリアは睨みつけるほかなかった。
もう一度舌を嚙もうとしたところで、次こそ確実に阻まれるだろう。
分かっていながら同じ愚を繰り返す選択肢は、もうマリアには残されていなかった。
薄暗い部屋に、光が一筋差し込んだ。
ルカリオが開いた扉から漏れた灯りだと理解する頃に、足を止めた彼が振り返った横顔を照らした。
その表情を見たのは2度目。
マリアの記憶にあるどの顔とも違って見えた。
公務の場で見せる、作り物めいた表情でもなく。
マリアを射貫く、凍りつくような視線とも違う。
何を考えているのか、まるで分からない無の表情にマリアの背中は粟立った。
ずっと、そうだった。
何度巻き戻しても、この男の内側にマリアは触れる事すら許されなかった。
周回の中で、ルカリオ以外の誰もが決められた行動をなぞるだけだったというのに、この男だけは違った。
マリアと同じく、この男だけは常にマリアの予想の先を行く行動を取る事があった。
そういう時に決まってマリアに向けられる表情は全て先ほど見せたのと同じ無表情だった。
殺意ならばまだ、理解できた。
けれど、先ほど男が落とした哀れむ言葉と共にあった、あの底の見えない静かな眼差し。
あれは殺意でも侮蔑でもない、もっと得体の知れない何かだった。
扉が閉まると、重い音が響いた。
金属の蝶番が軋み、それきり部屋には物音ひとつ残らなくなる。
残されたのは、マリアと、テアだけ。
「さて」
テアが、手袋を外しながらゆっくりとマリアの傍にしゃがみ込んだ。
革の手袋が指から抜き取られる、乾いた音。
それだけで、これから何をされるのか予感めいたものがマリアの背筋を這い上がる。
声にならない声で、そう問おうとした。
けれど掠れた吐息だけが漏れて、まともな言葉にはならなかった。
テアの手つきは、およそ治療のためのものとは思えないほど乱暴だった。
マリアの汚れた口を拭う指には、痛みを与えることを厭わない。
いや、むしろそれを楽しんでいるとしか思えない容赦のなさがあった。
同じような力で、無理に声を出そうとした首の傷から滲んだ血がにじむ包帯を変えるテアに、マリアは声にならない呻きを喉の奥に押し殺す事で耐えるしかなかった。
「本当に、どこまで愚かなんですか?あなたは」
吐き捨てるような言葉は、マリアに問うと言うよりも独り言のような響きだった。
数日経って理解したのは、自分が死に損なったという動かしようのない事実だった。
決死の思いで首を裂いた傷はマリアが思っていたよりも浅かったらしい。
ペンよりも重い物を持たないでいた事が仇になったとため息を零すと目の前の紫が歪んだ。
血は止まり、皮膚は塞がり、あれほどマリアを苛んでいた高熱も下がった。
死ぬことすら自分には許されていないのだと思い知らされた日からマリアを縛っていた鎖は外され、ただ一日中ベッドの上に転がされるだけの日々が続いていた。
まるで本当に鳥籠に入れられた小鳥のような生活が続いていた。
「はい、あーん」
からかうような声とともにテアが匙を口元へと運んできた。
ルカリオの言いつけを律儀に守るこの男は監視の意味もあるのか四六時中マリアの傍にいた。
本当なら殺したいほど憎い相手のはずのマリアを甲斐甲斐しく世話をする彼の忠誠心。
最初こそ手荒な手当てをしてきたくせに、ここ数日はマリアをまるで5歳児を相手にするような手厚い介護にマリアは疲弊していた。
「ほらさっさと口を開きなさい」
言葉と共に唇に押し付けられたマリアは、反射的に顔を背けた。
食欲などあるはずもない。
それに何より、この男の手から何かを施されるということ自体が、マリアにとっては耐え難い屈辱だった。
「そうやっていくら意地を張っても無駄ですよ。貴方はルカリオの許可なく此処から出られません……まあ、無駄に足掻こうとするその頭に関心はして差し上げますよ」
くつくつと喉の奥で笑った男が今度は果物を絞ったグラスを差し出す。
テアは世話を焼く合間にも饒舌に嫌味を並べ立てる事を止めなかった。
一言で済むはずのことも、わざわざ三言も四言も重ねて、マリアの反応を楽しむのだからタチが悪い。
そのどれもを拒否するようにマリアが手を振ると、グラスはシーツに転がりテアは大きな舌打ちを零した。
「っ……」
「手を動かすなと一体何度言えばわかるんです?」
痛みに顔を歪めるマリアの両手を検分するテアは呆れた声を隠そうともしない。
首を切る時にルカリオの剣を握った両手の傷は首よりも深かった。
あの時は首を切る事ばかりに気が行って、握ったソレが生身の刀であることには甲斐甲斐しく介護されるようになってから最初に教えられたループを抜けた後の情報だった。
「そろそろ彼が来る頃ですね」
懐から取り出した懐中時計を確認したテアの言葉と同時に扉が開くと、テアは手早く汚れたシーツと布団を持った。
「くれぐれも彼に失礼のないように」
「だったらそれ相応の罰を与えればいいでしょう?」
「1週間、物を口にしない事がここまで脳を鈍らせるとは。後世に残す素晴らしい研究結果ですね」
マリアの挑発を倍以上の嫌味で返してきたテアは、そのままマリアを置いて扉に向かっていく。
途中でルカリオと短い言葉を交わすと、彼の敬愛する主をまねるようにして伸ばしているのだろう襟足が猫のように揺れて消えていくのをマリアは睨みつけて見送った。
扉の隙間から差し込んでいた光が、すっと陰る。
入れ替わりに部屋へと踏み込んできた男はそこに居るのか疑わしい程に静かだった。




