3話
マリアの初恋が生まれたのは7歳の時だった。
転生前と言えばいいのか、1度目と言えばいいのか。
とにもかくにも、その時のマリアはまだ自分が中心で世界が回っていると信じている無垢な子供だった。
マリアよりも四つ年上に生まれたはずのナーシャは、不思議なことに両親のどちらの特徴も受け継がずに生まれてきた。
地味な栗色の髪に、どこか陰のある灰色の瞳。
それに比べてマリアは、母譲りの美しい青い髪と、父譲りの黄金の瞳を持って生まれた。
生まれた瞬間から、誰の目にも「特別」だと分かる子供だった。
誰にも愛される存在。
占い師にすらも啓示された王女としての素質。
マリアは、人を癒す歌を歌える唯一の王女だった。
その力を、人はアコードと呼んだ。
この国でのアコードは能力者であるエステートを管理し、従える事が出来た。
生まれながらにして力をもったマリアは人を使う事に疑問を抱く事もなければ、全てを持っていると疑う事もない。
傲慢さと無邪気さで、マリアは自分が許される存在であることを知っていた。
「私はいちごが食べたいの」
「やっぱり焼きたてのクグロフを用意して」
手に入らないと知っていて無理難題で困らせる事もあれば、思い付きのような言葉で大人を振り回した。
そのどれもに否が返される事はない。
マリアの言葉への返事は全てイエスでなければならないし、それ以外をマリアは聞こうとしなかった。
断られるという可能性そのものが、彼女の世界には存在しなかった。
「新しいドレスには、石英を縫い付けなさい」
「お姉様にあげて。私はこっちのヒールがいいの」
傲慢だけれど、憎めないほどに可愛らしい我儘な王女。
誰もがそう呼んで、マリアの歌声を聞く為に、機嫌を取ることに腐心した。
そんなマリアにとって、たとえそれが姉の持ち物であっても、気に入れば簡単に自分のものにしてしまうのは当然のことで、それに罪悪感どころか疑問を抱くことすらなかった。
姉のものは、姉がマリアに借りているだけであって、本当はすべてマリアのために存在しているのだと、そう思い込んでいたから。
だから。
だから姉を助けてくれたという小汚い子供の、一等美しい赤の眼球を欲しがった時。
その願いは簡単に聞き入れられる物ではない事に、マリアは気が付かなかった。
「あれが欲しいわ」
マリアがその子供と出会ったのは、ただの偶然だった。
その日、ナーシャが何かを連れてきたと聞いて、マリアは退屈しのぎに部屋を出た。
世界の中心は自分であるべきなのに、姉が行動した事でその誰かの興味が姉にうるつこと自体が気に入らなかった。
だから確かめに行っただけだった。
それ以上の意味はなかったはずだった。
連れてこられた子供は、一目でスラム出身だとわかる身なりをしていた。
薄汚れた服はあちこち擦り切れ、痩せた身体には殴られたような痣がいくつも浮いている。
饐えた匂いが纏わりつき、王城の清ヒロインな空気にはあまりにも不釣り合いだった。
自分を助けてくれたのだと、姉が息を弾ませて説明するのを、マリアは半分も聞いていなかった。
褒美として何が欲しいかと大人の一人が問うた。
その言葉に、子供がおずおずと顔を上げる。
その瞬間だった。
マリアの意識が、その一点に縫い止められたのは。
赤い瞳だった。
血のような、けれど血よりもずっと澄んだ、深く煮詰めたような赤。
それまでマリアが見てきたどんな宝石よりも、どんな赤よりも美しかった。
毎朝食卓に並べられるマリアが一等すきな艶やかなイチゴでさえ、この赤の前では色褪せて見えた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚。
これが欲しい。
生まれて初めて、マリア自身の意志で欲しいと思ったものだった。
「あの美しい”赤”が欲しいの」
誰が話している事など関係なく、迷いなく子供を指をさして、マリアはそう告げた。
それが人の身体の一部であること。
二度と元には戻らないということ。
それを失った人間がどうなってしまうのか。
そのどれもが、マリアの幼い頭には一片たりとも浮かばなかった。
綺麗なものが欲しい。
ただ、それだけだった。
一瞬、大人たちが顔を見合わせて黙り込んだ。
けれどそれも長くは続かなかった。
マリアの願いはいつだってそうだったように、簡単に、あっけないほど簡単に聞き入れられてしまった。
目を抉り取られた子供の姿を、マリアは知らない。
ただ液体に満たされたガラス瓶の中で、光を受けて揺れる一粒の赤はマリアが願ってすぐに与えられた。
空にかざすと、それは確かに美しかった。
けれど。
マリアが欲しかった赤とは、どこか違う色をしていた。
マリアが欲しいと願ったあの赤とは、まるで別物だった。
「お前のものだから、返してあげる」
自分の欲しかったものはこれではない。
まだ生々しく赤黒い血の跡が滲むガラス瓶。
中に沈む一粒の赤は、たしかに光にかざせば美しかったけれど、マリアの胸を焦がしたあの輝きとは、決定的に何かが違っていた。
命の宿らない、ただの器官。
それだけのものに成り下がってしまった赤の瞳。
そう悟った瞬間、マリアの興味はあっさりとその瓶から離れていった。
だから、それを子供に返してやることにした。
深く考えたわけではない。
ただ、いらなくなったから元の持ち主に返してやろうという気まぐれだった。
告げると同時に、マリアは手にしていたガラス瓶を片目を失ったばかりの子供の胸元に向かって投げ渡した。
本来ならば、褒美を賜り傷だらけの身体を清められ、丁寧な手当てを受けることくらいは許されて然るべき子供だった。
姉の恩人として、王宮に迎え入れられてもおかしくない立場だった。
それなのに、マリアに傷ものにされた子供に与えられたのは冷たい牢獄だった。
マリアが興味を持った途端、彼がマリアのものとなった以上、処遇が決まるまでは誰も彼に何かをすることを許されなかった。
不憫に思ったマリアは彼を牢獄から連れ出した。
身体を清めさせ、彼に似合うだろう服を見繕った。
そうやって少し磨いただけで、子供はこれまでマリアが見てきたものの中でマリアの次に美しいモノになった。
震える手で自分のものだったモノを握りしめたまま、子供は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、マリア王女」
声は掠れていたけれど、その内心にどんな感情が渦巻いていたのかマリアが想像することは一度もなかった。
ただ、包帯の隙間から覗く、残された方の赤い瞳に。
片目を失ってもなお損なわれない、あの美しい赤に。
マリアは再び目を奪われていた。
窓から差し込む光が、その赤を淡く照らし出す。
これが欲しい。
先ほどとは違う意味で、マリアはそう思った。
――それならば、それごと自分のものにしてしまえばいい。
欲しいものがあるなら器ごと囲ってしまえばいいのだ。
そうすれば、あの赤は、いつまでもマリアの目の届く場所で輝き続けてくれる。
七歳の子供の思考にしては、随分と歪んだやり方で、マリアはその結論に辿り着いた。
その日のうちに、マリアはその子供を自分付きの側近として召し抱えることを決めた。
誰に相談することもなく、誰の許しを得ることもなく。
マリアの世界では、それが当たり前のことだったから。
大人たちがまた顔を見合わせて何かを言いかけたが、マリアはそれを聞く前に、もう子供の方へと歩み寄っていた。
「今日からあなたは私のものよ」
まだ何も知らない、七歳の王女の傲慢で自己中心的な宣言だった。
その日から、子供は名を与えられた。
――ルカリオ
マリアが幼い頭でどうにか捻り出した、たいした由来もない響きだった。
それでも彼は、その名を拒むことなく受け入れた。
まるで、それ以外の選択肢など最初から持たされていなかったかのように。
拾われた子供にしては、あまりにも聡かった。
文字を教えれば一度で覚え、剣を持たせれば大人顔負けの筋を見せた。
周囲の大人たちが驚愕するその成長を、マリアはただ自分が見出した宝石が磨かれていく様として、無邪気に誇らしく思っていた。
彼の胸の内に何が渦巻いているのかなど、想像したことすらないままに。
♢♢♢
――どこかで、鎖の音がした。
夢の底から浮かび上がるように、マリアは意識を取り戻した。
熱に浮かされたまま、まぶたの向こうにぼんやりと淡い光が滲んでいた。
ああ、また悪夢を見たのだと、熱に浮かされた頭が教えてくれる。
何度目だろう。
数えることも億劫になるほど繰り返してきたのは一番忘れたいと願った記憶だった。
あの瞬間、あの一言さえなければそう思ったことは数えきれない。
けれど、同時にマリアは理解していた。
すべての始まりは、あの日の自分自身だった。
綺麗なものが欲しいと無邪気に指をさしたあの日。
あれから全てが始まり、マリアは罪を償い続けているのだと。
自分が蒔いた種が、歳月を経て未だにこうして首元に鎖となって巻き付いている。
皮肉にも、その事実に気づいたのは、死に損なって囚われの身となった今このときだった。
かすかに瞼を開ければ、薄暗い部屋の隅にあの赤がじっとこちらを見つめていた。
声もなく、感情も読めないまま。
マリアが一度は奪い、それ以降は手を付けなかった宝石が静かに二つ暗い部屋で光っていた。




