2話
2話
「――どういう意味」
掠れた声を絞り出したマリアに、テアは答えなかった。
ただ笑みの形だけを残したまま、紫の瞳の奥に怪しい炎を揺らめかせている。
「さぁて、どこから話しましょうか」
くつくつと喉の奥で笑ったテアはふいと、視線を動かした。
先ほどの一言などなかったかのような、あまりに滑らかな話の切り替えに、マリアの中で疑念だけが澱のように沈降していく。
「まずは……ええと、レーヴェ侯爵家の件からにしましょうか」
姉を目覚めさせるために、マリアが仕込んできた数々の罠。
死ねば露見しても構わないと、隠す気すらなく残してきた「悪事をしたふり」の痕跡の数々。
横領の証拠を故意に見つけやすい場所に。
密輸の記録を、あえて読み解けるように。
姉の立場を脅かそうとした貴族たちを一人ずつ、自分の悪名と引き換えに沈めてきた。
「レーヴェもリンドバーグも、あなたに嵌められたとも知らずに、今頃は塔の中でさぞ良い夢を見ていることでしょうねぇ。それにしても、ご丁寧なことです。証拠の並べ方まで、まるで見てくださいと言わんばかりだ」
テアは指を折りながら、マリアが仕掛けた罠にまんまと嵌った貴族たちの名を一つ、また一つと読み上げていく。
爵位剥奪、財産没収、僻地幽閉に絞首刑。
マリアがこれまで知らなかった落ちぶれた貴族達の顛末を、まるで菓子の在庫でも数えるかのような軽やかさでテオは並べていく。
口調は穏やかなまま、それなのに相貌は何も映らない。
仰臥したままのマリアに言い聞かせているようにも聞こえる言葉を聞かされるたびに、マリアは胃の底が冷えていくのを何処か他人事のように感じていた。
仕込んだ罠は、確かにこの手で蒔いたものだった。
けれどそれを芽吹かせたのは彼らで。
それなのに、こうして他人の口から一つ残らず暴かれていくのを聞くのは、まるで自分の身体を無遠慮に暴かれているようで落ち着かなかった。
どこまで知られている。
どこまで、この男とその主は、マリアの企みの底を見透かしているのだろうか。
レーヴェ侯爵の書斎に横領の証拠を仕込んだのは、真冬の夜だった。
リンドバーグ子爵の密輸の帳簿を、あえて解読しやすい暗号で書き換えたのは、その半月後。
どれも、彼らの醜い毒牙を抜くために、マリアが計算し尽くして仕込んだものだった。
露見すればマリアの名がさらに地に堕ちるだけで、失うものなど最初からなかった。
だからこそ迷わずにやれた。
それなのに、こうして種明かしをされる今になって、初めて手のひらに冷や汗が滲むのを感じている自分に、マリアは苦く笑うしかなかった。
「なぜ」
問い詰める声だけが、ねちねちと部屋の中に反響する。
「なぜこんな真似を。あなたほどの人が、どうして自分の名を汚してまで」
言葉に詰まる。
言い訳を探す気力すら、マリアの中には残っていなかった。
本当のことなど、言えるはずがない。
何度も繰り返した人生の果てに、姉を守るためだけにこの身を投げ出してきたのだと、そんな殊勝な言葉をこの男に向かって吐く資格が自分にあるとは思えなかった。
「その辺にしておけ、テア」
低く、静かな声が割って入った。
その瞬間、マリアの喉がひゅっと鳴った。
呼吸の仕方を、一瞬忘れたような感覚だった。
一度目に、どうしても欲しいと願った赤だった。
繰り返すたびに恐怖にも似た、どろどろとした怒りへと姿を変えていった赤だった。
何度巻き戻しても、初めて彼の目を見た時の衝撃はついぞ色褪せることのなかった赤い双眸がそこにあった。
いつの間にそこにいたのだろう。
全くといって気配のなかった男に、マリアだけでなくテアも動揺を見せた。
何を考えているのか、昔からわからなかった。
成長するにつれて、いや、成長する前からすでに整いすぎていた花貌。
プラチナを溶かしたような銀毫は、襟足だけを伸ばして緩く一つに束ねられていた。
鎖骨の下あたりで、深紅の虹彩よりも一段暗い赤が踊っている。
その赤をもつ男をマリアは一人しか知らない。
姉の婚約者としてマリアに立ちふさがり続けた男。
そして、何度巻き戻しても、マリアの記憶に暗澹として残り続けた男でもあった。
自分がどれほど非道な事をしてきたのか、マリアはやり直しの中で嫌というほど思い知らされてきた。
双六のスタート地点に戻される感覚で俯瞰して自分の役割をこなしていたマリアにとって、この男だけは感覚を麻痺させてくることはなかった。
いつもマリアの想定よりも早く現れ、そして計画を台無しにしてくれる存在。
姉の最愛にして、マリアの天敵ともいえるルカリオが扉に凭れかかるように立った。
「随分と遅いお目覚めだなぁ、プリンセスマリア」
くすり、と喉の奥で笑いを転がしながら男は首を傾げた。
「いや、今は咎人か。それとも……道化、か?」
目は少しも笑っていないのに、声だけがひどく楽し気だった。
マリアを挑発し、辱めたいという意図が、隠す気もなくその声に滲んでいる。
存外、口数の多い男だった。
相手を煽るとき、上下をわからせたいとき、普段余計な事を言わない癖に、その厚みのある色の薄い唇はよく動く。
何のつもり、とマリアが睨みつけてみるが男は意に介した様子もなく。
それどころか面白がるように指先を振ってマリアに一歩、また一歩と近づいて来る。
わざと立てられた靴音が石床に反響するたび、マリアの心臓が痛いほどに脈を打った。
灯りに照らされる影が、実物よりもさらに大きく床に伸び男がたどり着くより先に仰向けになったマリアの体にかかった。
来るな、と発しようとした声は、掠れた息になって喉の奥に消えていく。
どろりとした何かが喉からこぼれ落ちる感覚に、マリアの背筋がぶわりと粟立った。
男はマリアのすぐそばまで来ると、ベッドに腰かけて視線の高さを低くする。
手を伸ばされれば簡単にマリアの顔に触れられる位置で、マリアの顔を覗き込んでいる男は赤い目を瞬かせた。
鎖に繋がれたまま血にまみれ、みっともなく身動きひとつ取れないマリアを値踏みするようにゆっくりと見下ろすその顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「いい格好だな」
低く落とされたその一言には侮蔑よりも、もっと質の悪い何かが滲んでいた。
ルカリオは緩慢な動きで、見せつけるようにして手袋を外していく。
普段、見せられる事のない白皙が現れるのを、マリアは見ているしか出来ない。
手袋を外しているのはルカリオだというのに全てを晒させられているのはマリアの方だった。
男は目を細め、マリアの震える唇の動きを見透かすしたように呟いた。
「殺してくれ、と顔に書いてある」
図星だった。
今すぐにでも終わらせてほしいと、そう乞う言葉が喉元まで出かかっていた。
視線を無理矢理動かせば黒い手袋がその場に落とされ白いシーツに無残な形で落ちている。
その、可哀想な姿にマリアは自分の行く末を重ねた。
許さないとでも言うように、冷気をまとった指がマリアの顎を掬った。
顎に添えられた指先が、そのまま顎から首にかけての稜線をなぞる。
氷のように冷たい皮膚の感触に、マリアの喉から声にならない吐息が漏れた。
振り払う力すら、今のマリアには残されていなかった。
「だが、あいにくと」
男の口角が、これまでで一番深く吊り上がる。
初めて彼と相対したときに見惚れた赤が二つ、ゆっくりと瞬いた。
髪よりも白い睫毛に覆われた虹彩に、獰悪な色が乗る。
「それを叶えてやる義理はない」
耳元に落とされたその囁きには、慈悲の色などかけらもなかった。
むしろ、これから先にマリアに待ち受けているものがどれほど恐ろしいのかを知っている静かな愉悦だけがそこに満ちていた。
「……どうして」
震える声で問い返すマリアに、男は答える気配すら見せなかった。
ただ、赤い瞳の奥にゆらりと何かが揺れている。
それが答えの代わりだとでも言うように、男はゆっくりと立ち上がる。
見上げる形になったマリアの視界いっぱいに、燃えるような赤だけが焼き付いていた。
「貴方には資格がないのでね」
突き放すような一言だった。
何かを見定めようとする、静かな観察の色がマリアをじっと見つめている。
まるで、これからマリアが何を選びどう足掻くのかを、じっくりと値踏みしているかのようにも見えた。
「テア」
短く己の従者の名を呼ぶと、男は踵を返した。
どこかにいったのかと思っていた従順な僕は、その呼び声に間髪入れずに返事を返した。
「後はお任せください」
テアの言葉に振り返ることもなく戸口へと向かうその背中は、記憶よりもずっと大きい。
扉が閉まる寸前、廊下の松明の灯りが一瞬だけ室内に差し込み、男の横顔を照らし出した。
その表情に浮かんでいたのは、これまでマリアが見てきたどんな嘲笑とも、どんな殺意とも違う得体の知れない、静かな横顔だった。




