1話
「Ave Nasha(愛されるナーシャ) ―――」
月明かりが差し込み、煌びやかに着飾った人々がうごめく中。
マリアの姉、この馬鹿げた世界のヒロインであるナーシャが歌う声だけがパーティー会場に響き渡った。
♢♢♢
「あーあ、馬鹿なお姉様♡」
そういってマリアは歌う事をやめて茫然と自分を見上げてくる姉の、汚れた頬に触れた。
傷だらけの仲間を抱えている姉を見下げてマリアはその滑稽さに笑みを零した。
最初から一人で逃げてしまえばよかったのに。
人の事ばかり優先して自分を蔑ろにする癖に、マリアが欲しかった愛情に囲まれる姉が大嫌いだった。
「てめぇ、ナーシャに触れるな!」
元はマリアの許嫁だった獣の咆哮みたいな叫び声をあげた男がマリアを睨みつける。
全身を鎖に繋がれ血まみれで、剣を握る事すら出来ないくせにマリアの喉元に食らいつこうとする男の緑色の目は怒りに燃えていた。
やっとだ、とマリアは胸中で呟いた。
もうすぐ、マリアはどこまで頑張っても脇役の世界から逃れることが出来る。
この数か月の苦労が漸く終わりを迎える事に喜びからかマリアの頬には笑みがこぼれ落ちる。
目を覚ましてからはずっと、悪夢のような日々だった。
間違いを犯せばもう一度初めから。
途中セーブもない一度目のやり直しをマリアは繰り返して漸くここまでたどり着いた。
虐げられた姉は彼女を愛する男達に守られて、その元凶ともいえる妹はこれから姉が選んだ最愛の人に殺される。
それが何度繰り返しても変わらないマリアに割り振られた役割だった。
「最後に言い残す言葉はあるか?」
ヒタリ。
音もなく突然首筋に当てられた冷たい鉄の感触にマリアは身を震わせた。
恐怖からではない。
ようやく、こんな姉の為にあるくそったれな世界から抜け出せることへの、抑えきれない喜びから生じるものだった。
マリアはゆっくりと振り返った。
ずっと待ち望んでいた、マリアに死を与えてくれる男が何の感情もない赤い双眸を細めた。
「貴方がお姉様の最愛なんて気が知れない」
そう言って男の手に持つ剣を素手で掴み、男が動くよりも先にマリアは自分の首をその手で裂いた。
「マリア!」
掠れていく意識の中で、何故か泣きそうな顔をして、マリアを見つめる姉は知らない。
ナーシャの最愛に選ばれたこの美丈夫の正体を。
スラム出身の騎士にして王女の婚約者という立場を獲得したルカリオが、ナーシャを危険に晒してでも王位を手に入れようとする狂っている男だということを。
――馬鹿なお姉様。
あれだけ何度も別の人を選ぶようにと手を回してあげたというのに、結局はいつも同じ人を選ぶなんて。
もう開くことも出来ない目を閉じてマリアは口を開けて笑った。
ああけれど。
常に何を考えているかわからなかったあの男が、予想外の事に声を荒げる姿を見られたのなら、悪くない最期だった。
そう思いながら、マリアは意識を手放した。
♢♢♢
「―――――」
声にならない悲鳴を上げて、マリアは目を開けた。
目を覚ました瞬間、真っ先に襲ってきたのは痛みだった。
これまでのやり直しの中で、幾度となく味わってきたどの痛みとも違う。
骨の髄まで、いや、血液の一滴一滴までもが煮え立っているかのような、灼けるような熱と痛みが全身を這い回っていた。
全身の毛穴という毛穴から、ぶわりと冷たい汗が噴き出す。
心臓が痛いくらいに早鐘を打っているのに、指先は氷のように冷え切っていて、その温度差だけでどうにかなりそうだった。
自ら死を選んだはずだった。
自分の意思で、自分の手で、剣を向けた男の手ごと引き寄せて喉を裂いた。
あの瞬間の、皮膚が裂ける生々しい感触も、男の驚いた顔もはっきりと覚えている。
――それなのに。
今、自分が今どんな状況に置かれているのか理解できなかった。
数え切れないほど繰り返してきた周回の中で、これは初めて訪れる状況だった。
再び襲い掛かって来る痛みから飛び出る、喉の奥から絞り出そうとした悲鳴は掠れた空気の塊にしかならなかった。
目の奥が、チカチカと明滅する。
まるで、喉に焼けた鉄の烙印を押し付けられたような、そんな痛みが眼球の裏側にまで突き抜けていく。
呼吸をするたびに、喉の奥が引き攣れて、ひゅう、ひゅうと空気が漏れるような音がした。
それが自分の喉から出ている音だと理解するまで、随分と時間がかかった。
死にたい。
思考のすべてが、その一言に塗りつぶされていく。
今まで幾度となく殺され、幾度となく殺してきたはずのマリアだったが、こんな痛みは知らなかった。
死はいつだって一瞬で、その先には何もない円環だけがあったはずだった。
マリアは、無意識に首に手をやろうとしたが腕は動かなかった。
正確には、動かそうと身じろぐと、耳のすぐ側で硬質な金属同士が擦れ合う音がして、マリアはそこで初めて自分が拘束されているのだと理解した。
手首にも、足首にも、冷たく重いものが巻き付いている感覚に背中がゾッと粟立った。
それが恐怖なのか、それとも絶望から来るものなのかは判断できない。
ただ腹の底から湧き上がる不快感に、逃れようのない痛みに震えが止まらなかった。
――どうして。
あの時、マリアは確かに死んだはずだった。
姉が選んだ最愛の男に、マリアは殺される。
それがこの狂った世界で、マリアに割り振られた唯一の役割だった。
ずっと待ち望んだ終わりを迎える為にあらゆることに耐えて、馬鹿げた道化劇を演じてやった。
だからこそ、最後くらいはいいだろうと自分の手で引導を渡した。
誰にも邪魔されないように、けれど確実に。
それなのに、どうしてこんなにも生々しい痛みを、こんなにも長く感じ続けているのか。
まだリセット出来ていないのだとしたら。
ループを抜け出したのだとしたら。
その可能性に思い至った瞬間、マリアの中に込み上げてきたのは安堵ではなく、純粋な抑えようのない怒りだった。
腹の底から獣のような唸り声をあげてマリアは叫んだ。
――殺せ!
声にならない叫びを繰り返して暴れると、鎖が食い込んだがマリアは構わなかった。
こんな思いをするくらいなら、いっそ一思いに殺してくれと、最後にみた赤色を思い浮かべる。
中途半端に生かされて、焼けつくような熱と、引き裂かれるような喉の痛みと、動かない身体に閉じ込められたまま、ただ苦しみ続けるくらいなら。
今すぐにでも、あの、憎悪に染まった手で息の根を止めてほしい。
今までのマリアが抱いたことのない他人への願いが頭を支配していくのがわかった。
繰り返される日々から逃れるためにマリアは死を回避してきた。
生に執着するふりを、飽きるほど繰り返してきたはずなのに。
今、マリアの内側から湧き上がってくるのは、紛れもなく本物の生々しい「死にたい」という願いだった。
まさかこれが、あの惰性で演じ続けてきた道化の褒美だとでもいうのだろうか。
何度も何度も、間違えることを許されないまま繰り返してきた茶番の、最後に待っていたのがこの痛みだというのか。
マリアの胸の奥底から、誰に対してなのかわからないどす黒い怒りがせり上がってくる。
自分の思い通りにならない世界があるのだと、どこまでいっても脇役でしかないのだと、嫌でも思い知らされてきた。
全てを与えられ、それが当然だと信じていたマリアにとって、それは屈辱以外の何物でもなかった。
まだ私を愚弄する気なのか。
そんな先の見えない絶望の中で、マリアの研ぎ澄まされた神経は音を拾った。
誰かが、こちらへ近づいてくる。
その誰かへの恐怖を誤魔化すように、マリアは頬の内側を噛みしめてその足音の主を待った。
軋む扉が開き、突然もたらされた光にマリアは一瞬目を眇める。
そこに立っていた予想外の人物にマリアは言葉を失った。
予想していた姉の取り巻きでもないその存在。
ルカリオを王と掲げ、全ては彼の為にという一念だけで動く男がそこにいた。
「テア……」
声はでなかった。
けれど部屋に踏み込んできた男には、それだけで十分伝わったらしい。
大人にしては大きな紫の瞳がマリアを映し、面白くもなさそうに歪んだ。
「お目覚めはいかがですかプリンセス。ない頭を存分にお使いになられたようで……随分お寝坊さんでしたね」
淀みない、悪意だけで彩られた言葉。
その口調に、マリアは自分は夢を見ていないのだなと現実逃避のような感想を抱いた。
そうしてからすぐに今、ここにいる自分は現実なのだと絶望する。
テアは反応を楽しむように、口の端を吊り上げた。
昔読んだおとぎ話の絵本の中で見た、しましまの尻尾を持つ猫。
あるいは、頭のおかしな帽子屋。
その両方によく似たイカれた笑い方だった。
「さて――」
テアはゆっくりと膝を折り、拘束されたマリアと視線を合わせる。
仰臥させられた状態で近づいて来る男から逃れる事は許されない。
「貴女がまだ生きている理由、聞きたくありませんか?」




