第九章:「普通の買い物すらできない」とスーパーの入口で立ち尽くす夜に
「いやだ、乗らない! 動いちゃう! 裕太、これ乗らないの!!」
金曜日の午後五時。近所のスーパーの自動ドアの前で、裕太の鋭い悲鳴が夕暮れ前の駅前広場に響き渡った。
普段は何の問題もなく通り抜けていたはずの自動ドア。
しかしこの日、メンテナンスの関係で、ドアの開閉スピードがいつもよりわずかに「遅く」設定されていた。
さらに、ドアのガラス面には、新しく「熱中症対策・遮光用」の、ギラギラと光を反射するハーフミラー仕様のフィルムが貼られていたのだ。
それが、ASDの「パターンの変化への過敏さ」と、ADHDの「不意の視覚刺激によるフリーズ」の導火線に火をつけた。
裕太は自動ドアの手前一メートルのところで、まるで目に見えない壁にぶつかったかのようにピタリと足を止め、その場に突っ伏した。
両手で頭を抱え、まるで爆撃を避けるかのように体を丸めて絶叫している。
「裕太、お買い物にいけないでしょ! ほら、ただのドアよ。みんな普通に通ってるじゃない!」
真依は両手に持った買い物袋の重みで指を白くさせながら、必死に裕太の脇の下に手を差し入れて引きずり起こそうとした。
しかし、パニック状態の裕太は全身を軟体動物のようにグニャグニャに脱力させ、床にへばりついて激しく抵抗する。
背後からは、夕方の買い物に訪れた大勢の主婦や会社員たちが、怪訝そうな顔で二人を避けて通り過ぎていく。
「早くどいてくれないかしら」
「母親が甘やかすから……」
そんな無言の非難の視線が、真依の背中に冷たく突き刺さる。
(どうして……。昨日までは普通に入れたのに、なんで今日はダメなの? 私、何かこの子を怒らせる余計なこと言っちゃった? もう、普通に買い物に行くことすら、私たち家族には許されないの……?)
真依の胸の奥から、世間の「普通」という枠組みから完全に弾き飛ばされたような絶望感と、「誰か、私が悪いんじゃないって言って……」という引き裂かれそうな承認欲求が溢れ出し、視界が涙でぐしゃぐしゃに歪んだ。
そこへ、革靴の足音を響かせながら、手に「作戦ノート」を抱えた高野が息を切らせて駆けつけてきた。
会社帰りにスーパーでの合流を予定していたのだ。
高野は即座に自動ドアのフィルムと開閉のテンポを凝視し、脳内のシステムログを高速で立ち上げた。
「真依、自分を責めるのは非論理的だ! 状況のシステムエラーを僕が解析する。これは視覚情報の『フレームレートのバグ』と、自己像の『予測符号化エラー』の複合クラッシュだよ」
高野は買い物袋を真依の手から引き取り、裕太の横に屈み込みながら、震える声でロジカルに語りかけた。
「高野くん……裕太、何が怖いの? ただのドアなのに……」
「裕太にとって、あの自動ドアは昨日までのドアとは『完全に別の危険物』にアップデートされてしまっているんだ。いつもと違う遅いスピードで開くドアは、彼の脳内にある『予測マニュアル』を完全に裏切る恐怖のバグだ。さらに、ガラスに貼られたミラーフィルムのせいで、ドアが動くたびに自分の歪んだ影がギラギラと迫ってくる。ASDの特性として、その予測できない光の動きに脳がハイジャックされ、ADHDの防衛衝動が『侵入不可! 脳が破壊される!』と、全力でシャットダウン(フリーズ)を命令しているんだ。……僕も子供の頃、実家の扇風機に新しいメッキのカバーがついた日、回転する光の反射が怖くて居間に一歩も入れなくなった。周囲の大人には『ワガママな偏食児』と同じ扱いをされ、誰も僕の視界が恐怖でチカチカしていることを理解してくれなかった。あの時の、世界に取り残されたような孤独を、僕は今でも生々しく覚えている……!」
高野は自らの胸を締め付けるようなトラウマを吐露し、我が子の脳の痛みを我がことのように感じて歯を食いしばった。
彼の心の声は、父親としての強い覚悟に満ちていた。
(わかる、わかるよ裕太。お前はただ、目の前の世界が壊れたように見えて怖いんだね。僕が、お前の視界のバグを修正するパッチを当ててあげなきゃいけないのに、なぜすぐにコードが書けないんだ……!)
ロジックは理解できても、この人混みの中でどうやって裕太の脳の視覚エラーをリセットすればいいのか、高野のシステムもまた過負荷で立ち往生しかけていた。
その時、自動ドアのセンサーが反応するエリアの外側から、パンパンと小気味よく手を叩く音が響き渡った。
「はいはいはい! ギラギラの鏡の国に迷い込んで、可愛い子熊ちゃんがフリーズしちゃってるわねえ!」
買い物カゴを腕に下げた美佐子が、あはははと笑いながら店内の奥から現れた。
たまたま先にお惣菜コーナーにいたのだ。
美佐子は周囲の冷ややかな目など突風で吹き飛ばすかのように、カゴの中から一本の「キャベツ」を取り出すと、それを自動ドアのガラスの前にスッと差し出した。
「ちょっと、美佐子さん!? スーパーの売り物で何を――」
「鏡の中の自分を見るから怖いのよ! 面白い『ターゲット』を動かしてあげれば、そっちに目が釘付けになるわよ!」
美佐子はキャベツを、まるで操り人形のように自動ドアの動きに合わせて、右へ左へとユーモラスに動かしてみせた。
すると、どうだろう。
さっきまで床にへばりついて絶叫していた裕太が、涙をためた目をピクッと動かし、美佐子の持つキャベツの動きをジーッと見つめ始めた。
「ほら、裕太。キャベツの飛行機が、ドアと一緒に、せーの……トントン、って飛んでいくよ。捕まえてごらん!」
美佐子がキャベツを動かしながらドアの向こうへ一歩下がると、裕太の視線はミラーフィルムのギラギラや変な開閉スピードを完全に無視して、キャベツという「単一の動く視覚ターゲット」に完全にロックオンされた。
裕太の脳内で、ADHDの「興味のあるものへの突発的な集中力」がポジティブにパッと切り替わったのだ。
裕太はおずおずと立ち上がると、キャベツを追いかけるようにして、あれほど拒絶していた自動ドアをすんなりと通り抜けてしまった。
「え……? 嘘、入れた……! ドアを通れたわ、高野くん!」
真依は歓喜の声を上げ、涙を拭うのも忘れて美佐子の手元を凝視した。
「あははは! 大成功! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその七!『視覚のノイズに怯える時は、圧倒的に興味を引く別ターゲットを動かして、視線をジャックせよ』!」
美佐子はキャベツをカゴに戻し、真依の頭を優しく撫でた。
「高野が言った通り、この子たちは変化が怖くてフリーズしちゃうの。それを『怖くない!』って無理に引っ張っても、脳みそが拒絶してるんだから動けないわよ。だったら、その怖いノイズが目に入らなくなるくらい、目の前で面白いおもちゃや野菜を動かして、脳みそのスイッチを『おもしろそう!』に切り替えさせてあげればいいのよ!」
高野は作戦ノートのページに、凄まじい筆圧でペンを走らせ、魂の底から感嘆していた。
(視覚的ディストラクション(注意反転法)の応用……! パニックを引き起こす環境ノイズに対し、動的な高顕著性ターゲット(サリエンス・ターゲット)を意図的に割り込ませることで、恐怖の回路をバイパスさせたのか。母さんの現場の知恵は、本当に臨床心理学の枠を超えている……!)
真依は、美佐子の鮮やかな解決の瞬間と、高野のロジカルな解析を、頭の中で必死に復習した。
すり減っていた彼女の心に、また一つ、裕太の世界を優しく広げてあげるための確かな知恵が満ちていく。
真依は涙を力強く拭い、美佐子を見つめて言った。
「……分かりました! こういう時は、『何が嫌なの!』って問い詰めて引きずるんじゃなくて、裕太の視界を遮るように、何か別の興味を引くものを目の前で動かして、『注意の切り替え』を手伝ってあげればいいんですね。声掛けも、『早く入りなさい』じゃなくて……『あのお野菜の飛行機、追いかけてみよう!』って、恐怖を楽しいゲームに塗り替えてあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」
「千点満点! 真依さん、もう我が家のチーフ・プロデューサーね!」
美佐子は真依の背中をガシッと叩いて豪快に笑った。
真依の胸を苛んでいた「世間への恐怖」は、その力強い肯定によって、誇らしい達成感へと完全に上書きされていった。
「さあ、自動ドアのバグはこれにて完全クリア! 高野、真依さん、今夜はこのキャベツを使って、みんなで山盛りの熱々お好み焼きパーティーにしようじゃないの!」
美佐子の明るい号令に、裕太は美佐子のカゴを覗き込みながら「おこのみやき、ぱーてぃー!」と嬉しそうに飛び跳ねた。
高野と真依は、賑やかなスーパーの明かりの中でしっかりと微笑み合い、凸凹な未来を三人四脚で楽しむように、力強く歩みを進めるのだった。




