第十章:「上質な服なのに、なぜ?」と朝のクローゼットで泣くママへ
「ちがう! これ、裕太のズボンじゃない! チクチクする! 痛いのぉぉぉ!!」
火曜日の午前七時四十五分。朝の光が差し込む寝室で、裕太の絶叫がタワーマンションの壁に木霊した。
この日、真依は衣替えのために、裕太のクローゼットの奥から新調したばかりの夏物のハーフパンツを取り出していた。
綿百%で、肌触りも抜群の、世間一般では「上質な子供服」とされるものだ。
しかしそれが、ASDの「極度な触覚過敏」と、ADHDの「不快刺激に対する過剰な拒絶衝動」の引き金を引いてしまった。
裕太はパンツを穿かされた瞬間、まるで火傷でもしたかのように飛び上がり、自らせん切るような勢いでズボンを引きちぎり、床に投げ捨てた。
そのまま全裸でベッドに潜り込み、狂ったように自分の太ももを掻きむしりながら暴れている。
「裕太、お願いだから穿いて! どこもチクチクしないでしょ? もうすぐお迎えのバスが来ちゃうのよ!」
真依は床に散らばった衣類の山に囲まれながら、半泣きでベッドの毛布を引っ張った。
しかし、裕太は毛布をガチガチに噛み締め、野生の小動物のように体を硬直させて真依の手を拒絶する。
時計の針は無情にも進んでいく。
朝の準備が完璧に遅れるという焦燥感と、自分の選んだ服が息子をここまで苦しめているという事実に、真依の胸は引き裂かれそうだった。
(どうして……。お店で一番柔らかい生地を選んだのに、なんでダメなの? 私、また裕太の地雷を踏んじゃった。毎日、毎日、この子の『正解』を当て続けなきゃいけないなんて、もう私の心が持たない。普通のお母さんみたいに、『これ着ようね』『はーい』って、どうしてそんな普通の会話が我が家ではできないのよ……!)
「母親としての正解」を世間からも息子からも得られない絶望感。真依の胸の奥で、誰かに「あなたのせいじゃない、よく頑張ってるよ」と抱きしめてほしいという激しい承認欲求が、行き場を失って涙となって溢れ出た。
そこへ、ネクタイを締めながら、手に「作戦ノート」を開いた高野が、静かだが緊迫した足取りで入ってきた。
彼は床のハーフパンツのタグと裏地を鋭くスキャンし、脳内の感覚エラーログを瞬時に検索し始めた。
「真依、パニックにならないでくれ。状況は至って論理的だ。これは皮膚感覚の『閾値のバグ』と、衣服の『構造的刺激エラー』だよ」
高野は真依の肩を優しく支え、ハーフパンツの裏地を指差しながらロジカルに語りかけた。
「高野くん……裕太、なんでこんなに痛がるの? タグも切ってあるのに……」
「裕太にとって、あの新しいズボンの裏地にある『ポリエステルの縫い糸』や、生地の『糊』のわずかな硬さは、僕たちの感じる百倍以上の鋭利な『剣山』として皮膚に突き刺さっているんだ。大人には分からないが、ASDの触覚過敏は、特定の繊維を『刃物』や『虫が這う不快感』として処理してしまう。それを真依が『大丈夫だから穿きなさい』と強制したことで、彼のADHDの防御衝動が『生命の危機』と判断して過剰防衛を起こしているんだ。……僕も子供の頃、新品の制服の襟が首に触れるたび、首を絞められているような窒息感を覚えて学校の門前で吐いてしまった。周囲の大人には『我が儘を言うな』『根性がない』となじられ、僕は自分の皮膚が呪われているのだと、暗闇でシーツを抱いて泣き続けた。あの孤独な恐怖を、僕は今でも覚えている……!」
高野は自らの生々しい過去の痛みを吐露し、我が子の脳の痛みを我がことのように感じて拳を固く握りしめた。彼の心の声は、父親としての強い使命感に燃えていた。
(わかる、痛いほどわかるよ裕太。お前はワガママを言っているんじゃない、本当に痛くて、皮膚が悲鳴を上げているんだね。僕が、お前の身体を守る『安全な防護服』をシステム的に用意してあげなきゃいけないのに……!)
しかし、理屈は分かっても、今全裸で暴れる裕太をどうやって着替えさせればいいのか、高野の論理回路にも即座に有効な解決コードは浮かばなかった。
その時、パタパタと小気味よい足音と共に、あのからりとした大声が寝室のドアを開け放った。
「はいはいはい! 朝から全裸のイノシシちゃんが、ベッドのジャングルで大暴れねえ!」
大きな洗濯カゴを抱えた美佐子が、あはははと笑いながら現れた。
朝のゴミ出しのついでに立ち寄ったのだ。
美佐子は部屋の惨状など気にも留めず、カゴの中から、高野が昔着古してヨレヨレになった「クタクタの綿100%のTシャツ」と、一本の「ハサミ」を取り出した。
「ちょっと、美佐子さん!? 裕太、今は新しい服を見せるだけでも怒っちゃって――」
「新しいからダメなのよ! この子たちが求めてるのは、高級品じゃなくて『安心できるボロ布』よ!」
美佐子はお腹を抱えて笑うと、裕太の目の前で、高野の古いTシャツの裾をハサミで大胆にジョキジョキと切り始めた。
そして、それを裏返しにし、縫い目が完全に「外側」にくるように引っ繰り返したのだ。
「ほら、裕太。これは『お父さんの魔法のズボン』だよ。チクチクの虫さんは、ばあちゃんが全員退治しといたからね!」
美佐子はベッドに潜る裕太の足元へ、裏返しのクタクタの布をそっと滑り込ませた。
その瞬間、裕太の激しい抵抗が、ピタッと止まった。
裕太の足に触れたのは、何百回も洗濯されて繊維の角が完全に丸くなった、高野の匂いがする極上の柔らかい布だった。
さらに、縫い目や洗濯タグという「皮膚への攻撃オブジェクト」がすべて外側に排除されたことで、裕太の脳の触覚レーダーは、一切のアラートを出さずに静まったのだ。
裕太はきょとんとした後、自らその裏返しの服に足をちゅるんと通した。
「え……!? 穿いた……! 暴れないで、自分から着替えたわ!」
真依は目を見張り、涙の溜まった両手で顔を覆った。
「あははは! 大成功! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその八!『新しい服の感覚ノイズは、裏返しと古着のコンボで完全無害化せよ』!」
美佐子は裕太の頭をクシャクシャと撫で、真依の肩をガシッと掴んだ。
「この子たちはね、皮膚の神経が丸出しなのよ。だから、世間の『おしゃれ』とか『新品』なんて、ありがた迷惑の極み。穿き慣れた服を裏返しにして、縫い目を全部外に出してあげるだけで、脳みそは『あ、これ安全なやつだ』って納得するの。ADHDの衝動も、不快感がなければ暴れないわよ!」
高野は作戦ノートに、凄まじい熱量でペンを走らせ、魂の底から感嘆していた。
(縫合線の外部化と、経年変化による繊維の軟化……! 衣服の構造を物理的に反転させ、触覚の閾値を超えない『感覚的ゼロ刺激環境』を創り出したのか。母さんのこの現場の知恵は、まさに感覚統合療法の極致だ……!)
真依は、美佐子の鮮やかな手法と、高野のロジカルな解析を、頭の中で必死に復習した。
すり減っていた彼女の心に、また一つ、裕太の朝を平和にするための確かな方程式が刻まれていく。
真依は涙を笑顔で拭い、美佐子を見つめて言った。
「……分かりました! 朝の着替えで暴れる時は、『早く着なさい!』って無理強いするんじゃなくて、裕太が感じている皮膚の痛みを理解して、新品は一度何度も洗濯して柔らかくするか、あえて裏返しにして『縫い目やタグを直接肌に触れさせない』工夫をしてあげればいいんですね。声掛けも、『格好悪いから裏返しはダメ』じゃなくて、『チクチクがない魔法のズボンだよ』って、安心を保障してあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」
「一万点満点! 真依さん、もう我が家のチーフ・スタイリストね!」
美佐子は真依の背中をパシッと叩いて豪快に笑った。
世間の「普通の服装」という枠組みなんて、もう今の真依にはどうでもよかった。
目の前の我が子が、痛がらずに笑顔でいられること。
それを作れる自分たちチームの絆こそが、何よりの誇りだった。
「さあ、着替えのバグはこれにて完全パッチ完了! 裕太、お父さんのボロ布ズボンで、元気に支援センターへ出発進行だ!」
美佐子の明るい号令に、裕太は裏返しのズボンをパタパタさせながら「まほうのズボン、チクチクない!」と嬉しそうに走り出した。
高野と真依は、朝の光が満ちるリビングでお互いの顔を見合わせ、凸凹な未来を一緒にデザインしていく強い信頼を込めて、深く頷き合うのだった。




