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第十一章:「なんで約束守れないの」と焦げ付くお鍋の前で泣く夕暮れに

「まだ! まだ『これ』観るの! 終わってない! 終わってないのぉぉぉ!!」


土曜日の午後五時半。タワーマンションの開放的なリビングに、裕太の鼓膜を震わせるような絶叫が響き渡った。


この日、真依は夕食の支度の間だけ、裕太にお気に入りのアニメ映画の配信動画を見せていた。


しかし、一時間が経過し、約束の終了時刻になったため、テレビの画面をオフにした。


その瞬間、裕太の脳内にあるASDの「同一性の保持(パターンの遮断への激しい拒絶)」と、ADHDの「報酬系システムのバグ(快楽刺激からの切り替えの著しい困難さ)」が同時に暴走を始めたのだ。


裕太は床の上でのたうち回り、テレビのリモコンを壁に投げつけた。


プラスチックの電池カバーが外れ、乾電池がフローリングを虚しく転がっていく。


さらに自分の頭を何度も床に叩きつけ、手が付けられないメルトダウンに突入した。


「裕太、お約束でしょ! 時計の針が『六』になったら終わりって言ったじゃない! なんで分かってくれないのよ!」


真依は床に散らばった電池を拾い集めながら、声を荒らげた。


夕食の鍋はコンロの上でぐつぐつと音を立て、焦げ付く寸前だった。


焦燥感と、いくらルールを決めても全く通用しない無力感が、真依の心に冷たい刃のように突き刺さる。


(どうして……。事前にちゃんと約束して、本人も『はーい』って言ったのに。私の言い方が悪かったの? 世間のお母さんたちは、もっとスマートに子供の画面時間をコントロールしているのに。どうして私は、毎日毎日、こんな些細な切り替え一つで息子に憎まれるような声を上げなきゃいけないのよ……!)


どれだけ必死に育児書を読み、先回りして対策をしても、最後はいつも裕太の叫び声で一日が終わる。


母親としての自分の「不合格通知」を毎日突きつけられているような惨めさと、誰かに「あなたは悪くない、本当に頑張っている」と頭を撫でてほしい烈しい承認欲求が、真依の胸の奥から涙となって溢れ出た。


そこへ、キッチンタイマーを手に持った高野が、眼鏡の奥の目を鋭く光らせながら、静かにリビングへ入ってきた。


彼は壁の時計とテレビの画面を交互に見つめ、脳内のエラー解析システムを高速で立ち上げた。


「真依、自分を責めるのは論理的に間違っている。これは脳内の『ワーキングメモリの消失』と、時間感覚の『認知バグ』によるシステムエラーだ」


高野は真依の横に屈み込み、投げ捨てられたリモコンを拾い上げながら、自らの頭脳をフル回転させて語りかけた。


「高野くん……裕太、なんで約束を守れないの? 自分で『いいよ』って言ったのに……」


「裕太の脳にとって、さっきの『はーい』という返事は、動画の快楽刺激に没頭している最中の『単なる自動応答』に過ぎず、記憶ワーキングメモリには一秒も残っていないんだ。そしてASDの特性として、大好きな物語が突然消えることは、自分の世界そのものが『強制終了フリーズ』されたような凄まじい恐怖を伴う。さらにADHDの特性で、彼には『あと5分』といった抽象的な時間の経過が全く体感できていない。だから、彼にとっては『今、前触れもなく、理不尽に世界を奪われた』という認識になり、脳の防御衝動がパニックを起こしているんだ。……僕も子供の頃、読んでいた図鑑を母さんに『ご飯だから』とパタンと閉じられた瞬間、自分の手足が切断されたような激痛を覚えて、食卓の皿をすべて床に叩き落とした。周囲には『我儘で乱暴な子』と酷評され、僕は自分の心の中に怪物が棲んでいるのだと、毎晩毛布の中で怯えていたんだ……」


高野は自らの血を吐くような幼少期の孤独を吐露し、我が子の脳の痛みを我がことのように感じて歯を食いしばった。彼の心の声は、父親としての強い誓いで満ちていた。


(わかる、わかるよ裕太。お前はルールを破りたいんじゃない。時間が目に見えないから、心の準備ができないまま、真っ暗な奈落に落とされた気分なんだよね。僕が、お前の脳に『安全な着陸の合図』を組み込んであげなきゃいけないのに……!)


しかし、理屈は分かっても、一度暴走した裕太の脳をどうやって着地させればいいのか、高野のシステムもまた過負荷で立ち往生しかけていた。


その時、ガチャリとリビングのドアが開き、あのからりとした大声が響き渡った。


「はいはいはい! 映画のスクリーンが真っ暗になって、可愛い迷子の子羊ちゃんがパニックを起こしてるわねえ!」


両手に大きな「砂時計」と「赤いミニカー」を持った美佐子が、あはははと笑いながら現れた。


夕飯のお裾分けを持ってきてくれたのだ。


美佐子は暴れる裕太の前にズカズカと進むと、床に寝そべる裕太の視界のド真ん中に、その3分計の砂時計をドスンと置いた。


「ちょっと、美佐子さん!? もう画面は消しちゃったんです。今さら時計を見せても――」


「消してから言うから怒るのよ! この子たちには、終わりが『目に見えて近づいてくる恐怖』じゃなくて、『次の楽しいことへのカウントダウン』を見せてあげるのよ!」


美佐子はお腹を抱えて笑うと、砂時計の横に、裕太が大好きな赤いミニカーをポンと置いた。


そして、裕太の耳元で、弾むような声で言った。


「ほら、裕太。あのテレビの国のお友達はね、今から夜のご飯を食べに行くんだって。だから、この赤い砂が全部下にトントンって落ちたら、今度は裕太がこのミニカーの運転手さんになって、ご飯の国へ出発する番だよ。ばあちゃんと一緒に、砂が落ちるのを見てようか」


すると、どうだろう。


さっきまで床を殴りつけていた裕太が、涙で濡れた目をピクッと動かし、サラサラと落ちていく赤い砂の粒と、その横にある大好きなミニカーをジーッと見つめ始めた。


裕太の脳内で、ADHDの「視覚的な動くものへの集中力」がポジティブに働き、砂が落ちるプロセスそのものが「次のゲームへの準備時間」として処理され始めたのだ。


最後の砂が一粒、カタンと落ちた瞬間、裕太は自らミニカーを握り締め、「しゅっぱつ!」と小さな声を上げた。


「え……!? 泣き止んだ……。テレビを点け直さなくても、次の行動に移れたわ!」


真依は目を見張り、涙を拭うのも忘れて美佐子の手元を凝視した。


「あははは! 大成功! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその九!『終わりの合図は、時間の視覚化カウントダウンと、次の楽しみ(報酬)のセットで予告せよ』!」


美佐子は裕太の背中をポンポンと叩き、真依の肩をガシッと掴んだ。


「この子たちはね、突然の『ゼロ』が怖いの。だから、砂時計やタイムタイマーみたいに、時間が減っていく様子を目で見せてあげるの。そして一番大事なのは、『おしまい』で終わらせないこと。おしまいの後には、もっと面白い『次のミッション』が待ってるよって繋げてあげれば、ADHDの脳みそは喜んで次のスイッチに切り替わるのよ!」


高野は作戦ノートに、凄まじい筆圧でペンを走らせ、魂の底から感嘆していた。


(視覚的タイムマネジメントと、フォワード・チェイニング(前方連鎖化)の応用……! 終わりを『喪失』ではなく『次の行動への移行トランジション』として脳に再認識させる。母さんの知恵は、行動分析学の真髄そのものだ……!)


真依は、美佐子の鮮やかな手法と、高野のロジカルな解析を、頭の中で必死に復習した。


すり減っていた彼女の心に、また一つ、裕太の日々を支えるための確かな方程式が刻まれていく。


真依は涙を笑顔で拭い、美佐子を見つめて言った。


「……分かりました! 動画やゲームを終わらせる時は、時間が来たからって突然画面を消すんじゃなくて、砂時計やタイマーを使って『あとこれだけで終わりだよ』と残り時間を視覚的に見せてあげるんですね。


そして声掛けも、『もうおしまい!』って禁止するんじゃなくて……『これが終わったら、次はミニカーの運転手さんの時間だよ!』って、次の楽しい行動へスムーズにバトンを渡してあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」


「十万点満点! 真依さん、もう我が国の最高司令官ね!」


美佐子は真依の背中をパシッと叩いて豪快に笑った。


世間の「普通のしつけ」なんて、もう今の真依には必要なかった。


この凸凹な世界を、視覚とロジックの魔法で楽しくリデザインしていく自分たちチームの絆こそが、何よりの強さだった。


「さあ、画面切り替えのバグはこれにて完全アップデート完了! 裕太運転手、ミニカーを走らせて、みんなで美味しいお鍋の国へレッツゴーだよ!」


美佐子の明るい号令に、裕太はミニカーをブブーと鳴らしながら、笑顔で食卓へと歩き出した。


高野と真依は、温かい湯気が立ち上るリビングでお互いの顔を見合わせ、凸凹な未来を一緒に作り上げていく強い信頼を込めて、深く、深く頷き合うのだった。



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