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第八章:サイレンで大パニック!イヤーマフを忘れた日の裏ワザ

「あ、あ……。う、うああああん!!」 ##


木曜日の午後四時。支援センターからの帰り道、夕暮れ時の交差点で、裕太が突然その場にひっくり返り、激しく暴れ出した。


それは、遠くからかすかに聞こえてきた「ウー、ウー」という救急車のサイレン音だった。


大人にとっては「少し大きな音」に過ぎないそのサイレンが、裕太の脳内にあるASDの「極度な聴覚過敏」と、ADHDの「不快刺激への過剰防衛(闘争・逃走反応)」を同時に爆発させていた。


裕太は両耳をちぎれんばかりの力で塞ぎ、目を血走らせて道路に頭を打ち付けようとする。


「裕太、大丈夫よ! すぐ通り過ぎるから! お願いだから耳を離さないで!」


真依は必死で裕太の頭を自分の胸に抱き寄せ、その小さな耳の上から自分の両手を重ねた。


しかし、パニックに陥った裕太の力は凄まじく、真依の顔を小さな拳で何度も殴りつける。


真依の頬に鋭い痛みが走り、髪がめちゃくちゃに乱れた。


通りすがりの主婦たちが、眉をひそめてこちらを避けるように歩いていく。


その無言の視線が、真依の胸に「まともな子育てもできないのね」という刃となって突き刺さる。


(なんで……防音のイヤーマフを忘れた日に限ってこんなことが起きるの? 私はいつも準備不足。裕太がこんなに痛がっているのに、母親なのに、この大きな音を止めてあげることもできない……!)


自分の無力さへの絶望と、周囲の冷ややかな目に対する恐怖で、真依の心のコップはもう、今にも決壊しそうだった。


「誰か、私が悪いんじゃないって言ってよ……」そんな悲痛な承認欲求が、涙となって溢れ出る。


そこへ、息を切らせて駆けつけてきたのは、手に「作戦ノート」を握りしめた高野だった。


仕事を終え、二人の迎えに走ってきたのだ。高野は即座に裕太の拒絶反応と、遠ざかっていく救急車の赤色灯を目視し、脳内のバグ解析ロジックを高速で立ち上げた。


「真依、自分を責めるな! 状況のシステムエラーを僕が解説する。これは聴覚の『選択的注意の機能不全』と、脳幹レベルでの『生存危機パニック』だ」


高野は真依の隣に飛び込み、裕太の背中を支えながら、震える声でロジカルに語りかけた。


「高野くん……裕太、耳が痛いの? なんでこんなに狂っちゃうの……」


「僕たちの脳は、周囲の雑音から必要な音だけをフィルターにかけて聞くことができる。でも、裕太の脳はそのフィルターが機能していないんだ。あのサイレン音は、彼の鼓膜のすぐ横で、何百発もの爆弾が同時に爆発しているような恐怖の爆音として処理されている。さらにADHDの衝動性が『この痛みの源から今すぐ逃げろ、暴れて追い払え』とアラートを出しているんだ。……僕も子供の頃、選挙カーの拡声器の音が聞こえるたび、自分の頭が破裂する恐怖で押し入れに隠れ、自分の腕を血が出るまで噛み続けていた。周囲の大人には『我慢しなさい』『大袈裟だ』と笑われ、僕は世界がすべて敵に見えた。あの孤独な地獄を、僕は今でも鮮明に覚えているんだ……!」


高野は自らの血の滲むようなトラウマを吐露し、我が子の脳の痛みを我がことのように感じて歯を食いしばった。


彼の心の声は、父親としての執念に燃えていた。


(わかるよ、裕太。お前はただ痛くて、怖くて、必死に世界と戦っているんだ。僕が、お前の世界の音量を下げるボリュームスイッチになってあげなきゃいけないのに、なぜすぐに手が打てないんだ……!)


ロジックは分かっても、イヤーマフがない今、どうやってこの「音の暴力」から裕太の脳を救い出せばいいのか、高野のシステムもまた過負荷オーバーロードで硬直しかけていた。


その時、頭上からバサッと大きな影が降ってきた。


「はいはいはい! 音の爆弾岩が降ってきて、可愛い小鳥たちが大パニックねえ!」


大きな自分のパーカーを脱ぎ捨てた美佐子が、Tシャツ姿で、あはははと笑いながら現れた。


散歩の途中で二人を見つけたのだ。


美佐子は周囲の視線など突風で吹き飛ばすかのように、脱いだばかりの厚手のパーカーを、裕太の頭から顔全体まで、すっぽりとテントのように被せた。


「ちょっと、美佐子さん!? 裕太、暗くなると余計にパニックに――」


「暗くするんじゃないの! 外の音を『遮断』して、中に『自分の音』を響かせるのよ!」


美佐子はパーカーの裾を裕太の首元で軽く絞って「即席の防音テント」を作ると、その中を覗き込み、胸の奥に響くような、低くて太い声で「うーーーーーー」と一定の音を出し始めた。


美佐子の体に手を触れていた裕太が、ピクッと身体を震わせる。


すると、どうだろう。


さっきまで死に物狂いで暴れていた裕太が、美佐子のパーカーの中で、徐々に手足の力を抜き、コトッと真依の膝に頭を預けて静かになったのだ。


「え……? 嘘、泣き止んだ……? 美佐子さん、一体何を?」


真依は涙で濡れた顔を上げ、驚愕の表情で美佐子を見つめた。


「あははは! この子たちはね、外の不快な音が鳴っている時、自分の体の中から出す『うー』っていうハミングの音(自鳴音)を響かせると、不思議と外の音が聞こえなくなるのよ! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその六!『イヤーマフがない時は、厚手の服で頭を包み、低いハミングで脳の音を塗りつぶせ』!」


美佐子は裕太の頭をパーカー越しによしよしと撫で、真依に向かってウインクした。


「高野が言った通り、この子たちの耳は丸裸なの。外の音が痛いなら、自分の声でお耳の中にバリケードを作ってあげればいい。お腹の底から響く低い音は、脳みそをトロンと落ち着かせる効果もあるのよ!」


高野は作戦ノートの余白に、凄まじい筆圧でペンを走らせ、魂が震えるほどの感銘を受けていた。


(骨伝導と自発的音声ボーカル・ステレオタイプによるマスキング効果……! 不快な外部刺激を、予測可能で心地よい内部刺激(自己刺激行動)に意図的にすり替えることで、聴覚過敏のバグを回避したのか。母さんの現場の知恵は、脳科学の最先端を行っている……!)


真依は、美佐子の鮮やかな解決の瞬間と、高野のロジカルな解析を、頭の中で必死に復習した。


すり減っていた彼女の心に、また一つ、裕太を守るための強力な武器が加わった確信が満ちていく。


真依は涙を力強く拭い、美佐子を見つめて言った。


「……分かりました! こういう時は、『泣き止みなさい!』って無理に声をかけるんじゃなくて、まずは服などで耳と視界を覆って音の侵入を減らし、一緒に低い声を出すことで、裕太の脳の中に『音の防波堤』を作ってあげればいいんですね。声掛けも、『うるさくないよ』って否定するんじゃなくて、『一緒に、うー、って言ってみようね』って、脳を安心させる行動を促してあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」


「五百点満点! 真依さん、もう立派な音響監督よ!」


美佐子は真依の背中をガシッと叩いて豪快に笑った。


真依の胸を締め付けていた「母親としての孤独」は、その力強い肯定の言葉によって、誇らしい達成感へと変わっていった。


世間がどう見ようと関係ない。


このチームで、裕太の世界を優しくチューニングしていけばいいのだから。


「さあ、音のバグはこれにて大団円! 高野、真依さん、裕太をおんぶして、今夜は実家で熱々のおうどんでも食べてんまりしようじゃないの!」


美佐子の温かい号令に、パーカーから顔を出した裕太が「うどん、ちゅるちゅる!」と小さく笑った。


高野と真依は、夕暮れの街の中でしっかりと手を繋ぎ合い、凸凹な未来へ向かって、また確かな一歩を踏み出すのだった。


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