第七章:「なんで進まないの」と通学路で泣き崩れる朝に
「進まない……。どうして、なんで進まないのよぉ……!」
月曜日の午前八時十五分。
雲一つない青空が広がる通学路の歩道で、真依は文字通り頭を抱えて座り込んでいた。
今日は近所の児童発達支援センターの体験入所の日だった。
九時までに行かなければならないのに、家を出てからわずか五十メートルの地点で、裕太の足が完全にロックされてしまったのだ。
原因は、歩道に新しく引かれた、眩しいほどに真っ白な「境界線」だった。
裕太の脳内にあるASDの「完璧主義的なこだわり」と、ADHDの「一度囚われたら止まれない過集中」が、この白線によって最悪の化学反応を起こしていた。
裕太は白線のスタート地点に両足を綺麗に揃えたまま、石像のように凝固している。
「裕太、お願いだから一歩歩いて! ほら、右足を出して!」
真依が焦って裕太の手を引っ張った、その瞬間だった。
「いやだぁぁ! 踏めない! 右、ちがう! 揃ってない! 揃ってないのぉぉ!」
裕太は狂ったように叫び、自分の手を真依の肉に爪が食い込むほどの力で振り払った。
そして、自分の靴のつま先が白線から一ミリでもズレるのが許せないらしく、何度も何度も、その場でぴょんぴょんと激しく飛び跳ねながら、狂気的な正確さで両足を揃え直す行動を繰り返し始めた。
月曜日の朝の通勤ラッシュ。
足早に通り過ぎるスーツ姿の大人たちが、「朝から迷惑な親子だな」と言わんばかりの冷ややかな視線を、容赦なく真依に突き刺していく。
(また私の進め方が悪かったんだ。最初から白線のないルートを選べばよかったの? もう、何が正解なのか分からない。世間の普通のお母さんたちは、今頃普通に幼稚園に子供を送り届けて、優雅にコーヒーでも飲んでいるのに。どうして私だけが、こんな道端で子供に拒絶されて、世間からゴミみたいに見られなきゃいけないのよ……!)
真依の胸の奥から、底知れない孤独感と、世間に「立派な母親」だと認めてもらえない絶望が溢れ出し、視界が涙で滲んだ。
そこへ、手に「作戦ノート」を抱え、リュックを背負った高野が、すたすたとした正確な足取りで追いついてきた。
出勤前に二人の様子を見に来たのだ。
高野は裕太の足元と、白線の先にある横断歩道を鋭く見つめ、脳内のエラーコードを高速で検索し始めた。
「真依、泣かないでくれ。状況は完全に論理的だ。これはASDの『視覚的対称性への固執』と、ADHDの『衝動的な強迫観念』のループ現象だよ」
高野は真依の隣に屈み込み、自分の眼鏡の位置を直しながら、数式を説明するように早口で言った。
「高野くん……裕太、ただの白い線がなんでそんなに怖いの? 歩くだけじゃないの……」
「裕太にとって、あの白線は単なる道路の模様じゃない。脳の視覚処理のバグで、まるで『そこから落ちたら死んでしまう崖のフチ』か、『完璧に歩かなければ世界が崩壊する絶対のルール』に見えているんだ。ASDは、物事が自分のルール通りに整列していないと、凄まじい脳内ストレス(不快感)を覚える。それを真依が『早く歩きなさい』と強引に引っ張ったことで、裕太の脳はルールを守れない恐怖でパニックになり、ADHDの衝動性が『その場で足揃えを繰り返す』という強迫的な行動(バグの無限ループ)として暴走しているんだ。……僕も小学生の頃、横断歩道の白い部分だけを踏んで歩くルールを自分に課していた。ある日、トラックに煽られて黒い部分を踏んでしまった時、僕は自分が汚物になって消えてしまうような恐怖で、その場にへたり込んで一歩も動けなくなった。あの時、担任の先生に『ワガママ言うな』と叩かれて、僕は世界中の誰も信じられなくなったんだ……」
高野は自らの過去の深いトラウマを吐露し、胸を締め付けられるような痛みに顔を歪めた。
彼の心の声は、我が子の脳の痛みを誰よりも生々しく、痛烈に感じていた。
(わかる、わかるよ裕太。お前はルールを破るのが怖いんだ。世界が壊れてしまうのが恐怖なんだよね。僕が、お前の足元にある見えない崖に、安全な橋を架けてあげなきゃいけないのに……!)
しかし、理屈が分かったところで、この公道の真ん中で硬直する裕太をどう動かせばいいのか、高野の論理回路にも有効な解決のコマンドは浮かばなかった。
その時、パタパタと軽快なサンダルの音と共に、あの救世主の声が響き渡った。
「あらあらあら! 白い線の一本橋で、可愛いカニさんたちが大渋滞を起こしてるじゃないの!」
エプロン姿の美佐子が、どこからか「黄色い養生テープ」を手に持って、あはははと笑いながら現れた。
近所だからと様子を見に来てくれたのだ。
美佐子は周囲の冷たい視線など一瞥もせず、ズカズカと裕太の前にしゃがみ込んだ。
「美佐子さん! すみません、裕太が白線から離れられなくなっちゃって……」
「真依さん、謝るんじゃないわよ! この子は今、世界で一番難しい『大冒険』をしてる最中なんだから! 応援してあげなきゃ!」
美佐子はそう言うと、手に持っていた黄色い養生テープをベリッと引きちぎり、裕太の足元から一歩先、白線とはまったく関係のないアスファルトの上に、ペタッとバツ印(×)を貼った。
「ほら、裕太。カニさんの次の陣地は、あそこの『黄色いお星様』だよ。トントンって、お星様をジャンプしてみようか!」
美佐子は裕太の目線を覗き込み、不敵にニィッと笑ってみせた。
その瞬間、裕太の激しい足踏みが、ピタッと止まった。
裕太の視線が、脳を縛り付けていた「白い直線」から、新しく出現した「黄色いバツ印」という個別の視覚ターゲットへと移動したのだ。白線という「終わりのない無限のルール」が、黄色いテープによって「次のステップへ進むための有限のアトラクション」へと上書きされた瞬間だった。
裕太はきょとんとした後、おずおずと右足を踏み出し、黄色いテープの真上に足をポンと乗せた。
一歩進んだのだ。
「え……!? 進んだ……! 歩けたわ、高野くん!」
真依は歓喜の声を上げ、自分の両手で口を覆った。
「あははは! 大成功! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその五!『無限のこだわり線は、別の視覚ターゲットで寸断し、ステップ化せよ』!」
美佐子はさらに一歩先に黄色いテープを貼りながら、真依の頭を優しく小突いた。
「この子たちはね、見えている世界が狭くて深すぎるの。だから、一度ハマった線からは自力じゃ抜け出せない。それを無理やり引っ張るんじゃなくて、ハマっている線のすぐ横に、もっと面白そうな『次の目印』をポンと置いてあげるのよ。そうすれば、ADHDの衝動性が新しい目印にピッと切り替わって、自然と次の足が出るのよ!」
高野は作戦ノートに、凄まじい熱量でペンを走らせ、魂の底から揺さぶられていた。
(素晴らしい……! ゲシュタルト崩壊を起こしている視覚刺激に対し、異色・異形の代替刺激を提示することで、脳の注意の焦点を強制的にシフト(アテンション・シフト)させる。母さんのこの現場対応力は、最高峰の行動療法だ……!)
真依は、美佐子の魔法のような手法と、高野のロジカルな解析を、頭の中でしっかりと復習した。
すり減ってボロボロだった彼女の心に、母親としての新しい血が巡るような、確かな手応えが満ちていく。
真依は涙を拭い、美佐子と高野に向かって、毅然とした笑顔で言った。
「……分かりました! こういう時は、『早く歩きなさい!』って子供の行動だけを責めるんじゃなくて、裕太が囚われている視覚のルールを理解して、別の目立つ色や形の『次の目標』を作ってあげればいいんですね。
声掛けも、『白線を踏んじゃダメ』じゃなくて、『あっちの黄色いマークを踏んでみよう!』って、ポジティブなゲームに変えてあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね!?」
「三百点満点! 真依さん、もう我が家のチーフ監督決定ね!」
美佐子は真依の背中をガツンと叩いて豪快に笑った。
世間からの冷たい目が、もう今の真依には全く怖くなかった。
自分たちには、この凸凹の道を一緒に歩んでくれる最高のチームがいるのだから。
「さあ、白線のバグはこれにてクリア! 高野は遅刻しないように会社へダッシュ! 真依さんと裕太は、黄色いステップで体験入所へレッツゴーだよ!」
美佐子の号令に合わせて、裕太は黄色いテープをリズムよく踏みながら「とんとん、お星様!」と嬉しそうに歩き出した。高野と真依は、朝の光の中で深く見つめ合い、お互いの存在への感謝を込めて、力強く頷き合うのだった。




