第六章:お風呂で大洪水パニック!我が子を鎮める「ミノムシの魔法」
「裕太、おねがーーい! 水を止めさせて! もうお風呂場がプールになっちゃう!」
平日の午後八時。タワーマンションの美しく磨き上げられたバスルームから、真依の悲痛な叫び声が響き渡った。
この日の夜、真依は最悪の決断を下してしまった。
お風呂の時間、いつもなら高野が細かく指定した手順通りに済ませるはずが、裕太が「おもちゃのクジラさんを泳がせる」と泣いてきかなかったため、シャワーの水を出しっぱなしにすることを許してしまったのだ。
それが、ASDの「流れる水への執着(水視覚への過集中)」と、ADHDの「ブレーキの利かない衝動性」の起爆スイッチとなった。
裕太は蛇口を全開にし、勢いよく噴き出すシャワーの水を、自分の手のひらでバシャバシャと激しく叩き続けていた。
飛び散った水飛沫がバスルームの床を濡らし、脱衣所のマットまでぐっしょりと濡らしていく。
「裕太、もうおしまい! おしまいよ!」
真依がしびれを切らしてシャワーの栓をひねって止めた、その瞬間だった。
「ぎゃあああああああ!! 水! 水、流れるの! 止めてない! 裕太が止めるの!!」
裕太の顔が怒りで真っ赤に変色し、浴槽のフチに自分の頭をゴツン、ゴツンと打ち付け始めた。
激しいメルトダウンだ。
さらに、パニックの勢いで濡れた手を手当たり次第に振り回し、シャンプーボトルやリンスの容器を床に叩きつける。
ガシャーン、と硬いプラスチックが激突する音が狭い浴室内に反響し、真依の耳の奥をキリキリと締め付けた。
(またやっちゃった……。私がちょっと楽をしようとしたせいで、この子を怪我させる一歩手前まで追い込んじゃった。私はいつもタイミングを間違える。良い母親になりたいのに、ただ裕太を怒らせて、傷つけてばかり……!)
真依は濡れたタイルの上にへたり込み、ボタボタと涙をこぼした。
自分の要領の悪さへの嫌悪感と、どれだけ尽くしても報われない育児の苦しみが、彼女の心を完全に圧迫していた。
そこへ、ネクタイを緩め、スーツの袖をたくし上げた高野が、恐る恐る、しかし確固たる足取りで浴室に入ってきた。
彼は水浸しの床を一瞥し、iPadに表示された独自の「エラーログ」に素早く状況を打ち込んだ。
「真依、自分を責める必要はない。これは聴覚と触覚の『感覚過敏』、そして脳の『切り替えエラー』の複合クラッシュだ」
高野は真依の横にかがみ込み、自らも水飛沫を浴びながら、努めて冷静なトーンで話し始めた。
「高野くん……裕太、なんでこんなに怒るの? 水を止めただけなのに、どうして自分を傷つけるようなことをするの?」
「裕太にとって、シャワーの激しい水音と、手のひらに当たる刺激は、脳内を真っ白に埋め尽くすほどの『強烈な快感のオーケストラ』だったんだ。そして、ASDの特性として『自分で水を止めて完結させる』という脳内プログラムが走っていた。それを途中で強制終了されたことで、彼の脳内は今、大音量の音楽を突然消され、暗闇に放り出されたようなパニック状態にある。おまけに、狭い浴室内で音が反響したせいで、彼自身の泣き声がさらに自分の聴覚を刺激して、パニックの無限ループに入っているんだ。……僕も昔、プールの授業の終了ホイッスルが鳴るたび、耳が引き裂かれるような恐怖で、プールの底に潜って息を止めていた。あの時、誰も僕の耳の痛みを分かってくれなくて、本当に孤独だった……」
高野は裕太の小さな背中を見つめ、かつて自分が味わった「誰にも理解されなかった苦しみ」を重ね合わせていた。
彼の心の声は、父親としての強い使命感で満たされていた。
(裕太、お前は壊れたんじゃない。ただ、世界の音が大きすぎて、痛くてたまらないんだね。僕がその耳を、その脳を守るシェルターになってあげなきゃいけないのに、まだ有効なコードが書けない……!)
理屈は分かっても、一度暴走した裕太の脳をどうやって着陸させればいいのか、高野の論理回路もまた、水浸しの床の上で立ち往生していた。
その時、脱衣所のドアがガラリと勢いよく開いた。
「はいはいはい! お風呂場が大洪水のアマゾン川になってるわねえ!」
大きなバスタオルを何枚も抱えた美佐子が、不敵な笑みを浮かべて入ってきた。
彼女は濡れるのも構わず、ズカズカと浴槽のフチまで進むと、暴れる裕太の身体を、抱きすくめるのではなく、持ってきた大きなバスタオルで頭からすっぽりと包み込んだ。
「ちょっと、美佐子さん!? 裕太、今触られると余計にパニックに――」
「ただ触るから怒るのよ! こうやって、ギューーッと包んであげるの!」
美佐子はタオル越しに、裕太の小さな身体を、まるでミノムシのようにかなり強い力でギュッと抱きしめ、そのまま浴槽の隅の狭いスペースへ裕太を座らせた。
そして、脱衣所から持ってきた「イヤーマフ(防音ヘッドホン)」を、タオルの上から裕太の耳にパッと装着した。
すると、どうだろう。さっきまで火がついたように泣き叫び、壁に頭をぶつけていた裕太が、バスタオルの中で「ふう……」と小さく息を吐き、急に大人しくなったのだ。
「え……? 嘘、暴れるのをやめた……。美佐子さん、何をしたんですか?」
真依は目を見張り、涙を拭うのも忘れて美佐子の手元を凝視した。
「あははは! この子たちはね、皮膚の感覚が過敏なクセに、身体がどこに存在してるか分からなくなる『固有覚の未発達』ってやつでもあるのよ。だから、バスタオルで強い圧力をかけてギュッと包んであげると、むしろ『守られてる』って安心するの。おまけにイヤーマフでうるさい反響音を消して、狭い隅っこに入れてあげれば、そこがこの子だけの『安全な宇宙船』になるのよ!」
美佐子は裕太のタオルの上からポンポンと優しく叩き、ニカッと笑った。
「お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその四!『パニックの波が来たら、強い圧迫で身体を包み、音を消した狭い場所に隔離せよ』!」
高野はiPadのメモ帳に恐ろしい速度でフリック入力をしながら、目の前の光景を頭脳に刻み込んだ。
(なるほど……! 深部感覚(圧迫刺激)を与えることで副交感神経を優位にし、聴覚刺激を遮断して、狭い空間で視覚情報を限定する。母さんは感覚統合療法の基本を、本能だけで実践しているのか……!)
真依は、美佐子の鮮やかな手際と、高野のロジカルな裏付けを必死に頭の中で復習した。
すり減っていた彼女の心に、暗闇を照らす確かな灯台の光が見えた気がした。
真依は深く息を吸い込み、美佐子の目を見て言葉を紡いだ。
「……分かりました。こういう時は、力ずくでお風呂から連れ出そうとしたり、『静かにしなさい!』って声を張り上げるんじゃなくて、まずはバスタオルでギュッと包んで『圧迫の安心感』を与えてあげるんですね。声掛けも、パニックの最中はあえて何も言わず、イヤーマフで音を遮断して、裕太が自分で落ち着ける『感覚のシェルター』を作ってあげる……。美佐子さん、これで合ってますよね?」
「二百点満点! 真依さん、もうプロの指導員になれるわよ!」
美佐子は真依の濡れた肩をガシッと掴み、豪快に笑った。
真依の胸を苛んでいた「母親失格」の呪縛が、美佐子の太鼓判によって、心地よい達成感へと溶けていく。
「さあ、お風呂のバグ修正はこれにてお開き! 高野、真依さん、床をパパッと拭いたら、みんなで温かいココアでも飲んで作戦会議の続きをしようじゃないの!」
美佐子の明るい声に導かれるように、高野と真依は水浸しの床を拭き始めた。タオルの中から、イヤーマフをつけた裕太が、安心したような顔でひょっこりと顔を覗かせる。完璧な家族なんてどこにもない。けれど、この歪な凸凹を三人四脚で乗り越えていくための新しいシステムが、今夜もまた、確かにアップデートされたのだった。




