第五章:「もう理由がわからない」と泣き崩れる通路の先で
「裕太! 待ちなさい、裕太! そっちはダメ、そっちはお店の裏側よ!」
日曜日、家族で訪れた大型ショッピングモールの喧騒の中、真依の悲鳴のような声が響いた。
ほんの一瞬、真依が財布からスタンプカードを出そうと目線を落とした、わずか三秒の隙だった。
裕太の脳内にあるADHDの「衝動性のレーダー」が、エスカレーター脇の非常階段へと続く薄暗い通路の奥、点滅する緑色の「誘導灯(非常口サイン)」をキャッチしてしまったのだ。
裕太は、自分が真依の手を振りほどいたことすら自覚していない。
ただ、網膜に飛び込んできた「点滅する緑の光」という強烈な視覚刺激に吸い寄せられるように、泥棒ネコのような素早さで人混みをすり抜け、ダッシュで通路の奥へ消えていった。
「裕太――!」
真依は買い物のビニール袋を床に落とし、ヒールの音を激しく響かせながら通路へ飛び込んだ。
心臓が痛いほど脈打ち、胃の奥が過呼吸でひっくり返りそうになる。
通路の奥の重い防火扉の前で、裕太はうずくまっていた。
しかし、追いついた真依が「もう、何やってんのよ!」と彼の肩を掴んだ瞬間、裕太は「ぎゃあああああ!」と鼓膜を突き刺すような大絶音で絶叫し、床を激しく転げ回った。
「嫌だ! 嫌だ! 触るな! まだ! まだ緑、終わってない! 終わってないぃぃ!」
裕太は自分の髪をむしり、自分の顔を叩きながら暴れる。
完全に我を失った「メルトダウン(かんしゃく)」の状態だった。
周囲の買い物客が、何事かと冷ややかな視線を投げかけてくる。
(どうして……ただ追いかけただけなのに、なんでこんなに狂ったように怒るの? 私が何か間違ったの? もう、この子の考えていることが一ミリもわからない……!)
世間からの「しつけのなっていない母親」という無言の烙印が背中に突き刺さるようで、真依は惨めさとパニックで、裕太と一緒にその場に座り込んで泣き出しそうだった。
そこへ、背後から驚くほど冷静な、しかしどこか早口の足音が近づいてきた。
高野だ。
彼は手にお手製の「作戦ノート」を携え、鋭い目線で裕太と誘導灯の点滅を交互にスキャンしていた。
高野の顔からは、かつての機械的な笑顔は消えていたが、代わりに「システムのバグを解析する技術者」のような、冷徹でいて必死な真剣味が宿っていた。
「真依、落ち着いて状況を分析するんだ。今、裕太の脳内では、ASDの『過剰な視覚集中(過集中)』と、ADHDの『切り替えの困難さ』が最悪の形でコンパイルされている」
高野は真依の横に膝をつき、ノートのページを素早くめくりながら、データを示すように指差した。
「高野くん……これ、どういうことなの? 私はただ、危ないから連れ戻そうとしただけなのに」
「裕太にとって、あの点滅する緑の光は、僕たちの見ている世界の十倍以上の輝度で脳に突き刺さっている。そしてASDの特性として、『光の点滅が十回終わるまで見る』といった、自分だけの『一連の儀式』を脳内で開始してしまっていた可能性が高い。それを真依が『途中で遮断(バグを強制終了)』したんだ。彼にとっては、世界の法則が突然ひっくり返されたような、凄まじい恐怖とパニックなんだよ。僕も子供の頃、母さんがテレビのチャンネルを急に変えた瞬間、世界が滅亡するような恐怖で部屋の壁を蹴り破ったことがある」
高野は自らの過去の苦痛を思い出し、指先を強く握りしめた。彼の心の声は、裕太の苦しみを誰よりも理解していた。
(痛いほどわかる。裕太、お前はワガママで暴れているんじゃない。脳の中の情報が整理できなくて、洪水に溺れそうになりながら、必死で世界を繋ぎ止めようとしているんだ。僕が、お前の構造を翻訳してあげなきゃいけないのに……!)
しかし、理屈は分かっても、今目の前で暴れ狂う裕太をどうやってこの「パニックの底」から救い出せばいいのか、高野のシステムにはまだその具体策が登録されていなかった。
高野もまた、裕太の叫び声に脳の聴覚過敏が刺激され、頭を抱えて硬直しかける。
その時、通路の天井を揺るがすような、からりとした大声が響いた。
「はいはいはい! 迷子のシマウマちゃんたちが、暗闇で大渋滞を起こしてるわねえ!」
美佐子が、派手なひまわり柄のエコバッグを肩にかけ、ズカズカと通路の奥から現れた。
彼女の目線は、暴れる裕太でも、パニックの真依でもなく、裕太の視線の先にある「緑の誘導灯」へまっすぐに向けられた。
「美佐子さん! すみません、私の不注意で、裕太がパニックになっちゃって……」
「真依さん、あんたのせいじゃないわよ。この子は今、あの緑の光と『結婚』しちゃってるの。引き離そうとしたら、そりゃあ怒るわよねえ!」
美佐子はお腹を抱えて笑うと、エコバッグの中から、家から持参してきた「ある物」をガサゴソと取り出した。
それは、なんてことのない、真っ赤な色透明のプラスチック製の下敷きだった。
「ほら、裕太。世界の色を、ちょっと変えてみようか」
美佐子は裕太のメルトダウンの絶叫を恐れる風もなく、その赤い下敷きを、裕太の目の前、誘導灯との間にスッと差し込んだ。
その瞬間、裕太の叫び声が、ピタリと止まった。
裕太の涙で濡れた瞳に映っていた「強烈な緑の光」が、赤い下敷きを通したことで、くすんだ、刺激のない「茶褐色」へと一瞬で変化したのだ。網膜を焼き付けていた過剰な視覚刺激が遮断され、裕太の脳内に急速に静寂が戻っていく。裕太はきょとんとして、激しく上下させていた肩の力をふっと抜いた。
「え……? 嘘、泣き止んだ……? 赤い下敷き、ですか?」
真依は涙を流したまま、信じられないものを見る目で美佐子の手元を見つめた。
「そうよ! お気楽美佐子ばあちゃんの子育てメソッドその三!『脳に刺さる刺激は、フィルターを一枚挟んでマイルドにせよ』!」
美佐子は下敷きを裕太に握らせ、彼の小さな頭をよしよしと乱暴になでた。
「高野が言った通り、この子たちは特定の光や音が、針みたいに脳に刺さるの。それを力ずくで止めようとしても、痛くて暴れてるんだから逆効果。だったら、その針を丸くしてあげればいいじゃない。この赤い下敷きを通せば、眩しい緑の光もただの退屈な色になる。刺激が弱まれば、ADHDの衝動も自然と落ち着くのよ」
高野はノートに猛烈な勢いでペンを走らせながら、深く、深く感嘆の息を吐き出した。
(視覚の補色効果を利用して、特定の波長の光を減衰させ、脳の過覚醒を鎮める……。母さんは科学的根拠を知らずに、経験則だけでこの『視覚フィルターメソッド』を構築していたのか……!)
真依は、美佐子の鮮やかな解決策と、高野のロジカルな解説を頭の中で反芻し、すり減っていた心に一本の芯が通るような感覚を覚えた。
真依は膝の汚れを払い、裕太の目線に合わせて優しく語りかけた。
「……そっか。こういう時は、まず『ダメ!』って怒鳴って行動を禁止するんじゃなくて、裕太が何に囚われているのかを観察して、その刺激を和らげる工夫をしてあげればいいんですね。声掛けも、『こっち来なさい!』じゃなくて……『赤い下敷き、見てみようか』って、次の行動への切り替えを優しくナビゲートしてあげる……。美佐子さん、これで合ってますか?」
「100点満点! さすが真依さん、飲み込みが早いわねえ!」
美佐子は真依の背中をガツンと叩いて笑った。真依の胸の内にあった「母親としての自信喪失」の痛みが、その力強い承認によって、じわりと温かい達成感へと上書きされていく。誰かに「あなたは間違っていない」と言ってもらえることが、今の真依には何よりの救いだった。
「さあ、バグの修正は完了したぞ。タイムテーブルを15分修正して、今度こそみんなで美味しいパフェでも食べに行こうじゃないの!」
美佐子の号令に、裕太は赤い下敷きを大事そうに抱えながら「ぱふぇ!」と小さな声を上げた。高野と真依は顔を見合わせ、今度は張り付けた仮面ではない、心の底からの苦笑いと、確かな希望を込めた笑顔を交わし合うのだった。




