第二十四章『うちの子、はじめての療育へ行く 〜「何かさせなきゃ」を引き算する、お気楽安心デバッグ〜』
「明日……初めての療育施設ですよね。裕太、ちゃんと入ってくれるかしら……」
金曜日の夜、リビングで連絡帳を前にして、真依は胃のあたりがギューッと重くなるような不安に襲われていた。
3歳の裕太はまだ言葉が出ない。そんな我が子にとって、見たこともない建物に行くこと自体が、恐怖でしかないのは痛いほど分かっていた。
「もし玄関で大爆発(癇癪)したら、ママ仕事に遅刻しちゃうよ……」
真依の不安は当然だった。3歳の裕太は、一度不機嫌モードのスイッチが入ってしまうと、脳のブレーキが完全に壊れてしまう。そうなったらもう、誰の言葉も届かない。施設にある安全なサークル(守られたスペース)に一度入れて、本人の脳のオーバーヒートが冷めて落ち着くまで、ただじっと待つしかなくなってしまうのだ。
「真依さん、大丈夫。パニックというエラーを起こす前に、今夜のうちに『安心の伏線』をあてとけばいいんだよ」
そう言って優しく微笑んだのは、福祉のベテラン・梅子さんさね。隣では、我らが美佐子ばあちゃんもお盆の上の湯呑みをガタガタ言わせながら、温かい目で見守っている。
梅子さんがカバンから優しくノートを取り出した。そこには、明日行く施設の建物の外観と、中で楽しそうにミニカーで遊ぶ子どものイラストが、分かりやすい絵で描かれていた。
「これだよ、真依さん。今夜、裕太くんに『明日はこの建物に行って、中でこんな感じで遊ぶんだよ』って、絵で見せるだけ見せておくのさ」
「絵で見せるだけ……?」
「そう。言葉じゃ伝わらなくても、凸凹のある子の脳は『映像』を記憶するのが大得意なんだ。前日に絵を見ておくことでね、明日、実物の建物の前に立ったとき、裕太くんの脳内スクリーンに『あ! これ、昨日見た建物だ!』って安心の電気がピカッと灯るのさ。未知の恐怖を、最初から『知っている場所』に引き算してあげるんだよ」
真依はハッとした。そんな方法があるなんて、思いもしなかった。さっそくその夜、寝る前の裕太に「明日、ここに行くよ」と絵をそっと見せておいた。
そして、翌朝。
初めて訪れる療育施設の門の前で、真依はゴクリと唾を呑んだ。隣に立つ夫の純一も、緊張で肩をガチガチに強張らせている。
裕太がトコトコと歩き、建物の前に立った。
一瞬、裕太の体がビクッとこわばる。真依の心臓が跳ね上がった。――癇癪のブレーキが壊れるか!?
しかし、裕太は小さな小首を傾げ、それからパッと顔を輝かせた。
「あ! あ!」
裕太の手が、建物を指さしている。その瞳には、恐怖ではなく明らかに「知っている!」という喜びの色が浮かんでいた。昨夜、ママと一緒に見た絵の記憶が、裕太の心を優しく守ったのだ。
「……昨日、見た建物だ! 脳内データが完全に一致しています!」純一が驚きの声をあげる。
「よし、今だよ!」
奥からエプロン姿の梅子さんが合図を送った。
裕太が「昨日見た場所だ」と安心し、自動ドアをくぐって中に入ったその瞬間――。
奥から控えていた施設のベテラン職員さんが、すーーーっと慣れた手つきで、裕太の横に滑り込んできた。
「裕太くん、おはよ。次の行動はこっちだよー。トミカの発車オーライ!」
その動きはまさに職人技だった。裕太が「中に入るのを拒否しようか」と考える隙を1ミリも与えず、流れるようなステップで、裕太の手を優しく包み込んで奥へとエスコートしていく。
気がついたときには、裕太はすでに日当たりの良いプレイルームの真ん中で、大好きな赤いミニカーを走らせていた。
「ぶっぶー!」と声をあげて笑う裕太。ふと我に返ったときには、もう最高に楽しい空間のど真ん中に、自分がいることに気づいたのだ。
職員さんたちの鮮やかすぎる連携アシストに、真依は涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
「……すごい。パニックを起こす前に、こんなにスムーズに安心の世界へ繋いでもらえるなんて……。私、何かさせなきゃって、焦ってばかりでした」
梅子さんが、ミニカーに夢中な裕太を見守りながら、真依の肩を優しく叩いた。
「お母さん、これがプロの現場の引き算さね。前日にママが安心の伏線を敷いて、当日は職員が隙を与えずに楽しい空間へアシストする。『ここはありのままの僕でいていい、世界一安心な場所なんだ』って、今、脳にしっかり書き込まれたんだからね!」
純一パパも、眼鏡を外して目頭を押さえながら、深く感動していた。
「素晴らしい……。事前のイメージ(予告)と、現場の電光石火の誘導。完璧なシステム連携です……!」
「ガハハ! それでお気楽よ! さあ真依さん、純一、裕太くんは私たちが最高に楽しく預かるから、あんたたちはお気楽に自分たちの時間を過ごしてきなされ! 大極楽のハグを!!!」
美佐子ばあちゃんの温かい笑い声に背中を押されながら、真依は晴れ晴れとした笑顔で、一歩を踏み出した。我が子の笑顔と、信頼できるプロの背中に、絶対の安心を預けて。




