第二十三章:食事の単一デバッグと、ゆっくり流れる時間(あるいは:偏食の奥にある言葉なき祈り)
「いやーーー! これ、痛い! いらないっ!」
今日の夕飯は、真依が栄養バランスを必死に考えて、細かく刻んだ野菜とお肉をこれでもかと混ぜ込んだ『特製チャーハン』だった。
しかし、3歳の裕太はそれを一口入れた瞬間、まるで毒物でも盛られたかのように激しく吐き出し、リビングの机の周りをぐるぐると走り回り始めてしまった。
「ちょっと裕太! 1秒でいいから椅子に座って! 走りながら食べたら危ないでしょ!」
真依の声は半ば悲鳴に変わっていた。
そこへ、夫の純一が分厚い育児書を片手に、眼鏡を光らせて割り込んできた。
「真依さん、裕太に『1口につき30回咀嚼するシステム』を実行させるべきです。着席して集中しなければ、消化吸収の効率が大幅に低下し、3大栄養素の最適化が……」
「そんなこと言ったって、座ってくれないんだから無理よ!」
毎日3回繰り返される食事の戦場。リビングの空気は完全に凍りついていた。
「ガハハハハ! 混ぜれば食べると思うのは、大人の浅知恵さね!」
廊下からお約束のように湯呑みをガタガタ言わせながら現れたのは、我らが美佐子ばあちゃん。その背後からは、福祉のベテラン・梅子さんが静かに微笑みながら続いてきた。
梅子さんは、机の上のチャーハンを見て真依に優しく言った。
「真依さん、裕太くんにとって、白いごはん(白米)はね、『噛み心地が単一で、噛めば噛むほど甘くなる、世界一安全な食べ物』なんだよ。途中で何が飛び出すか分からないチャーハンは、脳のセンサーが危険を察知してエラーを起こしちゃうのさ。だからね、栄養を混ぜる『足し算』をやめて、すべてをバラバラの素材に切り離す、【単一の引き算食事】にするんだよ」
梅子さんはそう言うと、白米、人参のソテー、お肉をすべて別々のお小皿に分けてテーブルに並べた。「3個くらい違う味のおかずを出しておけば、どれか1個でも白米の旨味を倍増させるものにヒットするさね。本人の集中力がふっとこっちを向いた刹那のタイミングを狙って、匂いで誘って口元へ持っていくのさ」
純一パパは「な、何ということだ……! メインサーバー(白米)のデータ仕様に合わせたパッチ配布……!」と目からウロコを落とした。
しかし、真依はそれでも、裕太の小さな背中を見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
「……ううん、梅子さん。そんなスゴいハックでも、ダメな日があるの。日によっては白米すら一切受け付けなくて、特定の食パンしか食べない。それに、言葉もまだ全然出なくて、私の言うことも伝わってるか分からない……。毎日不安で……。そんな子が、こうやって1秒も椅子に座れずにずっと動き回っているのを見ていると、もう……私、本当にお手上げなのよ……!」
真依は頭を抱えて、食卓に突っ伏して泣き崩れてしまった。
ハックを試せば治る、やり方を変えれば着席する。そんな簡単な段階ではない、もっと深くて重い「見えない壁」の前に、真依は完全に手詰まり(エラー)を起こしていた。
リビングに静寂が訪れる。走り回っていた裕太は、ふと足を止め、お気に入りの食パンの袋をじっと見つめていた。
美佐子ばあちゃんは、泣いている真依の隣にそっと腰掛け、その背中を大きくて温かい手で、ゆっくり、ゆっくりとさすった。
「真依さん。お手上げ万歳さね。お手上げっていうのはね、諦めることじゃない。大人が勝手に決めた『早く食べさせなきゃ』とか『座らせなきゃ』っていう都合のいい時計の針を、人生から引き算することなんだよ」
梅子さんも、裕太と同じ目線になるように床にしゃがみ込み、静かに語りかけた。
「そうだよ、真依さん。言葉が出ない子、パンしか食べられない子、動き続けちゃう子……現場にはね、たくさんいるの。その子たちの脳の時計はね、私たちが生きているせわしない世界とは、まったく違うスピードで動いているんだ。裏技みたいな一発解決のデバッグなんて、この世には存在しない。だったらね、大人の焦りを全部引き算して、【ただ時間をかけて、ゆっくりゆっくり、その子のペースに伴走してあげる】。それしか、本当にそれしかないんだよ」
純一パパは、手に持っていた育児書を静かに閉じた。
「……効率の最適化、時間の短縮。僕は、裕太というかけがえのないシステムの処理速度を、僕の基準で無理に上げようとしていたのですね。バグっていたのは、僕の焦り(プログラム)の方でした……」
純一は静かに裕太の隣へ歩み寄り、床に直接あぐらをかいて座った。そして、一口サイズにちぎった白い食パンを、そっと手のひらに乗せた。
裕太がふっと純一の方を振り向く。純一パパは、もう「30回噛みなさい」とも「座りなさい」とも言わなかった。ただ、優しい笑顔で、裕太と目が合うのをじっと待った。
裕太がゆっくりと歩いてきて、パパの手からパンをつまみ、口に運んでゴクンと飲み込んだ。
純一は、裕太の頭をゆっくりと撫でた。「美味しいね、裕太。パパは、いくらでも待つよ」
真依は、涙を拭いながらその光景を見つめていた。
時計の針の進み方は、人それぞれでいい。
座れなくたって、言葉がなくたって、パンしか食べられなくたって、大人が『焦り』を引き算して、同じ目線でゆっくり時間をかけてあげれば、その空間はいつだって、世界一優しくて大極楽な居場所に変わるのさね。
「ガハハ! それでいいのさね! さあ、我が家の特製ビュッフェ、時間を忘れてゆっくり楽しもうかねぇ!」
美佐子ばあちゃんの高い笑い声が、開いた窓から心地よい夜風に乗って、遠くまで響いていった。




