第二十章:限界予算のおつかいミッション(あるいは:適当の数値化ハック)
「高野さん、お願い。ちょっとスーパーで、牛乳と、あと何か美味しそうな果物を『適当』に買ってきてくれない?」
土曜日の午後、夕食の準備を始めようとしていた真依は、冷蔵庫を覗きながらお気楽にそう言った。
悪気は全くなかったのだが、真依はあろうことか、我が家の夫に最も言ってはいけない禁断のワードを口にしてしまったのだ。そう、――『適当に』である。
案の定、高野は玄関で靴を履きかけた姿勢のまま、雷に打たれたように完全にフリーズしていた。
「……エラー。脳内システムが『適当』の定義を検索中ですが、該当する客観的データが存在しません。さらに『美味しそう』という主観的評価基準を、僕の視覚センサーだけで判別するのは不可能です、真依さん」
「もう、なんでもいいから……。あ、裕太も一緒にお願いね」と言いかける真依の口を、ドタバタとリビングに現れた美佐子ばあちゃんが、ガシッと手で塞いだ。
「真依さん、待ちなされ! 3歳児を連れてスーパーのお買い物なんて、100%無理に決まってるじゃないの! 売り場でひっくり返って脱走する裕太を追いかけながら、ただでさえワーキングメモリ(脳内の作業机)の狭い純一が買い物なんてしてみなさい。1秒でパニックを起こして、何も買わずに帰ってくるのがオチさね!」
「母さん、それは極端な予測ですが……しかし、僕のワークスペースが裕太の監視タスクで100%に達し、購買ミッションが破綻する確率は極めて高いです」と、高野も眼鏡を震わせる。
そこへ、縁側から上品にお茶をすすりながら、福祉のベテラン・梅子さんがひょっこりと顔を出した。
「そうだよ、真依さん。3歳児を連れての買い物は無理。だから裕太くんはお家でお留守番。純一さんには、完全ワンオペでお買い物に出撃してもらうのさ。ただし――」
梅子さんは不敵に微笑むと、高野のノートにサラサラと完璧な条件を書き殴っていった。
「高野さんみたいに言葉の裏を読むのが苦手なパパに『適当に』は通じない。だから、真依さんの『適当』を、あんたの脳みそが大好きな『ガチガチの数値ルール』に仕様変更しちまうんだよ。題して、【おつかい予算2000円ゲーム】さね!」
【ルール①】 総予算は「2000円以内」とする。
【ルール②】 牛乳1パックの他に、「200円以内」の根菜類(にんじん、玉ねぎ等)を必ず「3袋」買う。
【ルール③】 残った予算で、裕太くんの好きな「果物」を1つ選ぶ。
【ルール④】 さらに余ったお小遣いで、高野さんの「好きなお菓子」を1つ買ってよい。
高野はそのメモを見つめた瞬間、目ん玉をひん剥いて硬直した。
正式な仕様書を手に入れたプログラマーのように、その目がギラリと輝く。
「な、何ということだ……! 3歳児の同行というエラー因子を排除し、さらに予算2000円のマージンをパズルみたいに最適化させるタスク……! 完璧なロジックだ! これなら1ミリも迷わない!」
「ガハハハハ! そうさね!」
美佐子ばあちゃんが、高野の背中をバシバシと叩いた。
「一人で行くなら邪魔者もいないし、絶対に2000円に収まるから家計も安心! 何より『自分へのご褒美』という報酬があるから、おつかいが最高に楽しいミッションに早変わりするじゃないの!」
「了解した。これより完全ステルスおつかいミッションを開始する!」
高野はキリッとした顔で、一人静かにスーパーへと出撃していった。
一人きりの静かなスーパーで、高野の理系脳は最高にフル回転した。
予算を計算しながら、200円以下の玉ねぎやにんじんを3袋きっちりロックオンし、裕太のためにみずみずしいバナナを選び、最後には自分の大好きなチョコレートをカゴに入れて、完璧に2000円以内に収めてドヤ顔でレジを通過した。
夜、買ってきた根菜と果物、そして自分のお菓子を嬉しそうに並べる高野を見て、真依は目を丸くしていた。
「すごい……! 特売の玉ねぎもバナナも完璧。しかも高野さん、子供みたいに嬉しそうに自分のお菓子食べてる……。あんなに買い物を嫌がってたのに」
「フフフ。大人が『普通のやり方』を押し付けてイライラするのをやめて、最初から無理なものを引き算して、本人の脳の仕様にルールを合わせてあげれば、おつかいだって大極楽のエンタメになるのさね」と、梅子さんが縁側で優しく微笑む。
「ガハハ! 部屋も在庫でぐちゃぐちゃしないし、本人も大満足で一石二鳥さね! さあ、今夜は美味しい肉じゃがでも作ろうかね! 大極楽のハグを!」




