第二十章:消えるストックと密林の刺客(あるいは:ワーキングメモリのデバッグ)
「……嘘でしょ。また届いたの?」
月曜日の午前中、我が家の玄関には、大きな段ボールを抱えた配達員さんと、引きつった笑いを浮かべる真依の姿があった。
段ボールの表面には、お馴染みの矢印のロゴ――Amazonである。
真依がため息をつきながらリビングの戸棚を開けると、そこには全く同じパッケージの「洗濯用洗剤の詰め替え用」が、まるで綺麗に整列した兵隊のように、すでに4パックも並んでいた。そして今日届いたのが、記念すべき5パック目である。
我が家の夫・高野は、超ロジック思考の理系アスペルガーだが、実はもう一つ、大きな「脳内のバグ」を抱えていた。
それは、『ワーキングメモリ(脳内の作業机)が極端に狭い』ということだ。
高野の脳は、一つのことに集中すると作業机がいっぱいになり、他の情報がポロッと机の下にこぼれ落ちてログアウトしてしまう。そのため、戸棚の扉を閉めて「目に見えない状態」になったストックは、高野の脳内データベースから完全に消滅し、「この世に存在しないもの」になってしまうのだ。目に映ったものしか認識できない――これが、高野の仕様(特性)だった。
「高野さん……これ、どういうこと?」
真依が夜、帰宅した夫にその5パック目を突きつけると、高野は眼鏡の位置を神経質そうにクイと直した。
「フム。僕の計算では、洗剤の残量は今週木曜日に限界を迎えるはずだった。したがって、一昨日、僕の端末からジャストインタイムで発注をかけた。何もエラーはないはずだが……」
「大ありよ! 見て、戸棚の中に4つもストックがあるの! あなた、引き出しを開けて確認したときに『あ、まだあるな』って一瞬は机の上に情報を置くのに、別のことを考えた瞬間にその記憶が頭から消えちゃうでしょ!」
高野は真依が指さした戸棚の奥を覗き込み、雷に打たれたような顔で硬直した。
「バ、バカな……。僕の脳内ワークスペースから、この4パックの存在ログが完全に消去されている……。僕の作業机は、仕事のタスクで常にメモリが100%に達しているため、日用品の在庫データを保持し続けることが不可能なんだ……」
「ガハハハハ! 相変わらずお堅いねぇ、高野は!」
突如、すべてを吹き飛ばすような爆音の笑い声が響いた。
廊下の向こうからドタバタと現れたのは、我らが美佐子ばあちゃん。お盆の上の湯呑みからお茶を盛大にこぼしながら、我が家の洗剤の山を見て目を丸くしている。
「いいじゃないの! 純一はあれかい、世界が滅びたときのために洗剤の問屋でも始めるつもりかい!」
「母さん、笑い事じゃないんです」と真依が頭を抱える。「高野さん、お醤油も、歯ブラシも、トイレットペーパーも、ちょっと目を離すと全部忘れて『ない!』ってパニックになってAmazonで買っちゃうのよ」
「なるほどねぇ」
そこへ、縁側から上品にお茶をすすりながら、ばあちゃんの幼馴染で福祉のベテラン・梅子さんがひょっこりと顔を出した。
「高野さん、それはね、あんたの脳みその『ワーキングメモリ』が狭くて、なおかつ『超・視覚優位』のシステムで動いてるからだよ」
「視覚優位……ですか?」
高野がノートを取り出し、梅子さんの言葉に耳を傾ける。
「そうさ。凸凹ちゃんも大人も同じだけどね、扉の向こうにあるものや、箱に隠されたものは、作業机が狭い人にとっては『存在しないもの』として処理されちゃうの。大人は『覚えときなさい』って怒るけど、脳の回線がそうなってるんだから、記憶力でカバーしようとしたって無理な話さね。だったらさ、やり方を変えればいいだけだよ」
梅子さんは不敵に微笑むと、こう言った。
「高野さんが『あれこれ記憶して管理するのが苦手』で、真依さんが『部屋がストックでぐちゃぐちゃするのが嫌』ならね、最初から管理するものの数自体を、極限まで減らしちまえばいいんだよ。たとえばね、お風呂場のシャンプーと、体を洗うボディーソープ。これ、別々のボトルにしておくから在庫管理のエラーが起きるの。そんなのさ、『髪も体も1本で洗える全身シャンプー』に1本化しちまえばいいじゃないの!」
「ええっ!? 1本にしちゃうんですか?」真依が声を上げる。
「そうだよ。ボトルが1本になれば、それだけで脳の作業机に置くストックの数は半分になる。そしてね、高野さん。洗剤でも何でも、ストックを何個も溜め込むのをやめて、ルールをたった一つに統一するの。【いま使っているボトルの中身が、半分になったら次の1個を買う】。これだけさね!」
高野は再び雷に打たれたような顔で硬直した。そして、眼鏡の位置を激しく直しながら叫んだ。
「な、何ということだ……! ボトルの統合によるオブジェクト数の削減! さらに『残量50%で発注トリガー起動』という一律のシンプルルールへの仕様変更……! これなら、僕の狭いワーキングメモリを1ミリも消費せず、在庫過多も在庫切れ(エラー)も、同時に100%回避できる……!」
「ガハハハハ! その通りさね!」
美佐子ばあちゃんが、高野の背中をバシバシと叩いた。
「大人はね、『あれもこれも必要だ』って勝手に物を増やして管理を難しくしちゃうけどさ、ルールを極限までシンプルにして引き算しちまえば、誰もイライラしなくて済むし、何より楽ちんじゃないの!」
その日から、我が家の日用品エラーはピタリと止まった。
お風呂場のボトルはスッキリ1本になり、高野はすべての洗剤の残量が「半分」になるのを、理系の正確さで見守る新しい任務を楽しんでいる。
世間の「普通の暮らし」は、たくさんの便利グッズに囲まれることかもしれない。
でも、我が家の正解は、狭いメモリに合わせて限界まで引き算した大極楽のシンプルライフ。
旦那の特性を責めるのをやめて、仕組みを優しく変えていけば、世界はもっと単純で、もっとお気楽になるのさね。




